天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

つぶやきがこぼれる時

今週の礼拝メッセージで教えられたことを繰り返し黙想している。

それは「希望を奪う愚かなつぶやき」と「希望を生み出す確信」について。

私自身、心の中でつぶやくことが多い者だと気づかされる。

良かれと思ってやったことが裏目に出た時など、やりきれない気持ちをひきずる。

 

私たちは、意志を働かせて「希望を生み出す」選択をしなければならないだろう。

 

希望を奪う愚かなつぶやきとは、

神様はわかっていない...。

神様は助けてくれない...。

神様は私が祈っても何もしてくれない。

神様は私に良くしてくださらない。

私は神様に愛されていないのではないか...。

 

つぶやきは、思い通りにいかない苦しい状況や解消されない悲しみや疲れ、長引く不安など、それなりに理由があるから出てくる。 

自分はクリスチャンだと思っても、イエス様を信じていると言っていても、神のことばである聖書を知らなければ、聖書から真理を学んでいなければ、状況と感情に私たちは揺さぶられ続ける。

 

しかし、感情が何を訴えても、聖書の真理に信頼するなら、希望が見え始める。

その希望は悲しみや苦しみの中で私たちを支え勇気づける。

信頼がポイントだ。

聞いて知っていても、いざとなると信頼して歩まない傾向が私たちにはあるのではないか。

 

希望を生み出す確信とは、

神様は全知全能の神。すべてをご存知で、すべてを見ておられる。

神様にできないことはなく、その力、その英知は測り知れない。

神様は愛である。あわれみ深く、恵み深い。

神様は私たちの祈りを確かに聞いておられる。

神様は、私たちのほんとうの最善をご存知で、神様の英知で常に最善を進めてくださっている。

 

問題は、「自分は神様よりわかっている」という勘違いにある、と牧師先生は指摘された。その通りだと言わざるを得ない。

その誤りから、神様への不満、疑いの感情が芽生える。

そして、自分の感じていることを基準にすると、霊的に漂流し始める...。

 

牧師先生のたとえがインパクトがあってわかりやすかったのでシェアしたい。

私たちはノアの箱舟のように完全な真理の内に守られているのに、嵐に襲われると、なぜかノアの箱舟からわざわざ簡易的な救命ボートを出して荒波の中を避難しようとする。どちらが安全なのですか。救命ボートで平安を得ることはありません。だれの人生にも嵐は100%やってきます。しかし、決して沈まない真理の箱舟に留まっていれば守られるのです。

 

自分に思い当たることがありすぎて笑ってしまった。

救命ボートを自力でこぎながら、「神様、なぜですか」と嘆いていることがなんと多いことか!

 

つぶやきが出たら、希望を生み出す確信を選択するチャンス。

そう心に刻みながら、「みことばの真理の内を歩ませてください」と祈っています。

 

【主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。】イザヤ40章

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本当の幸いを知る道

【みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。...自分は宗教に熱心であると思っていても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。】ヤコブの手紙1章

 

クリスチャンとして誠実にみことばに向き合うなら、心を刺されずにいられない聖書箇所の一つではないかと思う。

 

痛いところを突かれて、後ろめたさや反発の感情が入り乱れるかもしれない。

だって...、でも...、っていうか...、などと言い訳が頭の中を駆け巡ることもあるだろう。

考えないことにしよう...という方向で不快感からの脱出を試みますか。

それとも、ダメな自分を見つめ、落ち込みやすいですか。

私自身、そういう誤った反応に陥りやすい者だと自戒をこめて振り返る。

 

しかし、聖書のことばに心を刺されたなら、それは祝福ではないか。

ダメ出しは確かに気持ちよくはない。

それでも、神様からの「変わりなさい」「悔い改めなさい」という迫りは、100%愛だと思う。

聖書のことばが力をもって迫ってくるのは、神様の恵みに他ならない。

 

神様は、ありのままの、つまり罪あるままの私たちを愛して、イエス・キリストという救いの道を備えてくださった。

しかし神様は、キリストを信じる者たちが、信仰を持つ前と同じままであるのを喜ばれない。信仰者らしく、イエス・キリストを自分の主とする者らしく、聖書で考えて聖書で行動するように、新しい生き方を教え、みことばに従うように命じている。

そこに、信仰者のいのちがあるからだ。

聖書が教えるように変えられていくことこそ、クリスチャンとして本当の幸いを知る道だと私は思う。

 

 

今週の礼拝メッセージで、私は罪について教えられた。

誰もが日常的にやっていることも、世の中で罪に問われるような大げさな悪事でなくても、私たちは聖書で罪を認識する必要がある。

明確に罪かわからない場合も、そのことが神様に喜ばれるかどうか、一呼吸おいて考えた時に疑問が残るなら避けるべきであろうと。

心刺されるメッセージであり、本当の幸いへと向かわせる真実な聖書の解き明かし。

 

数日後、私は早速、このメッセージの実践テストを受けることになった。

その日は用事があって車で外出。目的の会場には駐車場がないので、パーキングを探していたら広めの駐車場があるドラッグストアが目に入った。

「あ、ちょうどいい。ここに停めさせてもらっちゃおう。」(心の声)

一応そこで買物をして、店の袋がよく見えるように助手席に置いた。

「これでよし。もし店の人が不審に思って見に来ても大丈夫だよね。私は買物客だから。」

 

...あぁ、恥ずかしい。これが私のありのままの姿。

 

車から離れて歩き出してすぐ心がもやもやしてきた。

礼拝メッセージが思い出され、葛藤が始まる。

「いや、だって、買物したもん。広いし。二時間くらいだし...。」

 

心の中で飛び交う正当化の言い分を終わらせたのは、冒頭に書いたみことばだった。

降参だ...。

店の人が黙認してくれたとしても、直接だれかに迷惑をかけなかったとしても、神様がこのことを喜ぶとは決して言えない。

私は車に引き返し、さらに離れた所にある有料パーキングに入った。

たった数百円を惜しむ愚かな行動。

私の車一台くらい迷惑にならない、二時間なんて短いもんだと、自己中心的な基準で考えて罪に鈍感な自分の実体に気づかされ、悔い改めて祈った。

すると、先ほどのみじめな気持ちから一転、なんとも心が晴れ晴れして感謝があふれてきた。

よかった...。あのまま平気でズルして得した気分で終わらなくて、神様が方向転換させてくださった。ありがたい...。

 

神様のことばと神様の助けがなかったら、私は自分を欺いたまま、むなしい“信仰生活”しかできない者だ。

 

【あなたは、自分は富んでいる、豊かになった。乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。...わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。】黙示録2章

 

自分の心を欺いている...とは、こういうことなのだろう。

自分が何をしているのか、どんな状態なのか、本当のことがわからない。

持つべきものを持たず、罪にまみれているのに、まずまず合格のつもりで平然と過ごせる。

そのままで最終的に神の前に立つ時が来たら、一体どうなるのか。

 

みことばに心を刺されたら、失敗に気づかされたら、素直に認めて悔い改めよう。

そして「みことばを実行する人に私を変えてください」と、恵みの神に助けを求め続けよう。

私は変わることができる。

なぜなら、神様にはそれがおできになるからだ。

 

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見えない世界が見えるなら

旧約聖書にはイスラエルの歴史が記されている。

創造主なる神を唯一の神として生きた人々とそこに確かに働いている神のわざを読むと、天地創造のはじめから歴史を貫いて働く全人類の神、総合的に物事を導いて現実を動かす神、人間一人ひとりの心と生活に介入する神のリアリティが具体的になって、史実の力強さをもって私を感動させる。

ドラマチックな場面はたくさんあるのだけれども、今回は北イスラエル王国に実在した預言者エリシャの場面を紹介したい。

 

【そこで王は言った。「行って、彼がどこにいるのか突き止めなさい。人をやって、彼をつかまえよう。」そのうちに、「今、彼はドタンにいる」という知らせが王にもたらされた。そこで王は馬と戦車と大軍とをそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。

神の人の召使いが、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに「ああ、ご主人さま。どうしたらよいでしょう」と言った。すると彼は、「恐れるな。私たちと共にいる者は、彼らと共にいる者より多いのだから。」と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」

主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。】第二列王記6章

 

火の馬! 

空を飛ぶ戦車!

...馬鹿らしい。こんなのフィクションだ。

ファンタジーが書かれているのでしょう、と思いますか。

 

私は、現実の出来事が、神様の特別な導きにより、そのまま記されたと信じる。

ファンタジーではない。

見えない世界、霊的現実の描写。


私は弱気になりやすいタイプなので、読むと胸にぐっとくる。

「恐れるな」という言葉がまっすぐに心に迫り、奮い立たされるような気持になる。

 

若い召使いが二度「なんと」と驚愕している様子が面白い。

一度目は、王が遣わした大軍が町を囲むのに驚き、絶体絶命だとうろたえる。

二度目は、神が遣わした天使の大軍が山に満ちているのが突然見えて、絶句。

町を包囲するのと、山を覆うように空中に満ちるのと、どちらが軍隊として強大だろう。答えるまでもないことだ。

 

初めてこの箇所を読んだとき、一度でいいから私も目が開かれて見えたらいいのに!と本気で願った。しかし、現代、神様はそういう方法でご自身を知らせることはなさらない。

しかし、見えないだけで、神はご自身のわざを絶えず成しておられるし、天使たちも大いにこの地上で働いているはずだ。

悪霊も策略を張り巡らして人を惑わし縛っている。平和の実現を妨害している。 

 

イエス・キリストを主として生きている仲間たち。

もしあなたが、ひとりぼっちだと感じても、ほんの2、3人で大軍と戦うかのような完全不利と思われる状況にあるとしても、あなたはこう言うことができる者なのです。

恐れなくていい。大丈夫だ。私たちと共にいる者は、彼らと共にいる者より多いのだから。勝利はわれらの主イエスにある。

 

いや、上空で取り巻く神の軍勢というより、私たちには、神ご自身であるキリストの御霊が内に住んでくださり、一瞬も離れず共にいて永遠の御国まで保証し助け導くと、聖書に約束されているではないか。

 

見えなくても霊的世界があることは、誰でも魂では知っていると思う。

だから、多くの人は墓前で故人に語りかけたり、慰霊祭をしたり、たたりを恐れたり、願掛けや占いをしたりして、見えない霊的領域があることを前提に生きている。

 

確かに、この世は見えない霊的なものの影響を受けて存在している。

見えない世界が見えたなら、本当の敵が何者であるのかがわかる。

そして、真に恐れるべきものが何であるのかもはっきりするだろう。

しかし、私たちは、神のことばである聖書によって信じるように求められている。

 

【イエスは彼に言われた。

「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたが信じるため、また、あなたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。】ヨハネ福音書20章

 

読んでくださっているあなたの心の目がさらに開かれますように、祝福を祈ります。

 

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人生に心配はつきもの、だけど...

心配事がありますか。

将来に不安がありますか。

病気や老いることが怖いですか。

 

私自身、そういう気持ちになることが全くないと言えば嘘になります。

 

聖書には、「思い煩うな」「恐れるな」という言葉が繰り返し出てきます。

私たちは、思い煩いに陥りやすく、恐れにとらわれやすい者であり、日々このような語りかけを必要としている存在ではないでしょうか。

 

思い煩いや恐れで頭がいっぱいの時、どうしたらよいのでしょう?

そういう時はそれなりの原因もあるわけで、心理的に追いつめられているとも言えます。

不安で苦しい状態が続くと、私たちは具合が悪くて、不自由で、孤独です。

自分ではどうすることもできないから、「助けてください」と祈るかもしれません。

祈ってみても楽にならないと、神様に見捨てられたように感じるかもしれません。

自分が嫌になったり、不幸だと嘆きたくなったり、誰かを呪いたくなるかもしれません。

 

 

いつだったか、聖書のメッセージで次のように聞いたことがあります。

 

---思い煩いは罪です。神ほど真実な方はいないのに、そのお方の力も愛も約束も信用しない不信仰の罪。だから、あなたがクリスチャンであるなら、思い煩っている時にまずすべきことは、悔い改めることです。---

 

ガツンと頭を殴られたようでした。

自分のつらさで盲目になり、自分がひどい間違いを犯しているとは少しも考えなかったからです。 

「神様の愛を疑いやすく、祝福の約束も信じないで不安になる罪、神様が共にいてくださるのに恐れる罪、自分の思う通りにいかないと満足できない自己中心の罪、救いの恵みを忘れる恩知らずの罪を赦してください。私が愚かでした。悔い改めます。」

...と、まず主の前に謝らなければならない自分がいることに気づかされました。

 

自分の落ち度に全く気づかず、一方的に勝手な期待をし、要求が通らないと裏切られたように嘆く。失望し、関係も冷める...。

私自身、そういうものをもっていると認めざるを得ません。

人間同士だとしても、なんと失礼な態度でしょう。

まして、相手は完全なる神なのです。

神を神とも思わないでいた私たちのために、あがないの十字架を負って死んで復活してくださった救い主なのです。

必要なのは悔い改め...全くその通りだと思います。

 

思い煩いで苦しいなら、聖書が教えている真理を思い出す時です。

神がどういうお方か、神のことばは何を約束し、私たちにどうあれと命じているか。

不安で仕方ないなら、とりなして祈ってくれるように願い出る時です。

霊的守りが働いて、執拗に心を脅かす欺きの声は砕かれ、自由への道が見えてくるでしょう。

 

 

【神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。】ローマ8章

 

この聖句一つでも、正しく理解し、ほんとうに信じて自分を任せることができるなら、私たちの心と生活はどんなにか守られ、喜びにあふれるのではありませんか。

 

心配事、失敗、性格的短所、様々な限界、病気、衰え、喪失、困難、不都合な諸事情、難しい関係、社会問題、それらは神が働かせる「すべてのこと」の中に含まれていないのでしょうか。

いいえ、すべてと言うのですから、そこに含まれないものは何もありません。

神様は、みこころのままに、私たち一人一人がキリストに似た者へと変えられるために、すべてのことを働かせて必ず目的を達成されます。

神様には、想定外も失敗もなく、途中放棄もあり得ません。

自分に良いものが見当たらなくても、現状が思わしくなくても、むしろ主への確かな信頼を学ぶために、最高の機会を得ているのかもしれません。

 

福音により、イエス・キリストを信じて、創造主なる神と和解していること。

これこそ決定的な、最高の幸福なのです。

キリストの福音にいつも戻り、神様に信頼することが勝利です。

 

神様、聖書を教えられ、信仰を与えられた幸いを心から感謝します!

 

【信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。】エペソ6章

 

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妻であること

朝起きて一番に考えること、それがその人の「仕事」だ---、と伊集院静氏の著書で読んだことがある。

仕事について、収入源とか職業とか、あるいは多くの時間を費やして従事していること、というような定義ではなく、寝ても覚めてもまっさきに考える、つまり思考の中心にあるものという視点が印象的だった。

 

あなたは、朝目覚めて一番に、どんなことを考えていますか?

そこから考えると、あなたの現在の「仕事」は何だと言えそうですか?

その「仕事」は、あなたの人生においてどのくらいの期間を占めるものでしょう?

その「仕事」は、あなたが望むものですか?

 

 

その本を読んでから、自分が朝一番に考えたことを意識的にチェックするようになったのだけれども、自分でも驚きをもって再認識したことは、私の頭にまっさきに登場するのはたいてい主なる神様。

目覚めのまどろみの中で既に主を思っている。

悲しいときは悲しみの訴えで目覚め、調子がいい時は感謝と賛美で起きる。

いつからなのだろう。とにかく、私の思考は神様抜きにもはや何も始まらなくなっているらしい。

 

それからまず考えることは朝食のこと。

夫にできるだけバランスのいいご飯を作って、夫を気持ちよく送り出すことが最初の仕事だ。何も豪華なフルコースを用意するわけではないし、自慢できるような料理の腕前でもない。ごく普通の日本の朝食。

多くの女性たちが当然のようにやっていることだと思う。

しかし、それすらも面倒くさいと感じ、どうして私ばかりがやらなければならないのかと不満になり、やる気が出なくてぐずぐずと布団にもぐっていた時期があった。

そんな私が聖書を学ぶようになり、妻は夫の助け手であると聖書から理解して、神様から私に与えられた最重要ミッションとして「良き妻であろうとすること」をはっきりと目指すようになった。

夫婦について聖書が教え語っていることは実に多い。

聖書に出会わなければ、結婚は恋愛の延長にあるゴールのようなもので、目的も結婚生活の道筋もわからず、勝手な理想を描きはしても夫婦というものを真剣に考え、夫婦であることに希望を持ちつつ忍耐強く取り組むことなどなかっただろう...。

 

私のいちばんの「仕事」は「妻業」だと常々考えている。

妻業は、「夫が」「助けられている」と感じるように助け、敬い愛することだと私は理解している。料理を始めとする家事も妻業の一部と見ている。

夫のためにと良いことをしているつもりでもツボを外していて、喜んでくれないことで不機嫌になって本末転倒...など自分本位の失敗も経験しながら、夫を愛することを学ばせられてきたと思う。

女性とは全く違う男性を理解すること、自分の夫(性格や状態)を認識すること、愛する心をもってふさわしく仕えるために自分自身を整えること...いまだに練習中だ。

立派に聞こえたら、それは違う...。

身内との親しい付き合いもままならない私であり、子育てに追われることもない生活で、せめて同じ屋根の下で暮らすたった一人の夫を生涯愛すること、その一つだけでも精一杯やっていこうとしているに過ぎない。

 

先日「プロフェッショナルな妻たち」というテレビ番組があった。

アニマル浜口の妻など、有名人の妻が登場する。自分の夫が人生の危機を乗り越えるためにどのように助けたか、夫の性格を理解し適切に支えた妻の技のようなものが紹介されていて興味深かった。

聖書にも「プロ妻」の代表のような女性たちが記録されている。

ノアの箱舟で有名なノアの妻。アブラハムの妻サラがすぐ思い浮かぶ。どちらも、夫への従順さが特徴的。

従順...。

それは私に欠落していた性質であり、私自身がかつて理想としていた妻のあり方とも大きく違う、主体性のない、男尊女卑を連想させる“負け”のような響きであった。

 

しかし創造主なる神様は、男性も女性も互いを必要とし、補い合う存在としてデザインされ、男性も女性も等しく価値あるかけがえのない存在としながら秩序を定めた。

聖書が教える生き方は、神様のデザインした最高の姿を目指すことだと思う。

 

私は、結婚した女性は専業主婦であるべきとか、料理は女がするべきだとか主張するつもりは全くない。

私の尊敬する三浦綾子さんは多忙な作家であり、病気勝ちなこともあってあまり家事ができず、夫の光世さんが妻の仕事を手伝っていたのは有名な話だ。

にもかかわらず、彼女の姿勢はまさに「聖書的な妻」の素晴らしいモデルだと私は思っている。

結婚に導かれた女性なら、一人の夫の妻として聖書的にプロ妻化することに、ほんとうの自由、ほんとうの幸せを知る秘訣がきっとある。

いまの私はそう信じている。

その信仰によって思考が変えられ、生活も方向づけられ、従順さを知る者に変えられつつある。

私を変え続けてくださる恵みの主、イエス・キリストがほめたたえられますように。

  

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見えない贈り物

いつからか、外出中にふと目に留った人や家などのために、心の中で祈ることが増えてきた。

もちろん、見ず知らずの人たちだ。

だからこそ、「祈りなさい」と私の視界に入れたのは神様なのではないか...と思わずにいられない。

 

神様の祝福がありますように...

生きにくい時代にあって、希望や喜びがありますように...

悲しんでいる人なら、慰めと安らぎがありますように...

病気の人なら、励ましと癒しがありますように...

いのちの糧である聖書に近づけられますように...

イエス・キリストとの出会いが与えられますように...

永遠につながる生き甲斐を得る人生に導かれますように...

 

 

心に思い浮かぶまま、祈る。

一期一会という言葉があるが、そのような祈りは出会いにも至っていない。

しかし、私にとっては特別な出会いのように思われてくる。

導かれた祈りは空しく終わるものでなく、この人の人生にきっと実るはずだと確信が深まるのだから、不思議な気持ちだ。

祈りの結果を私が見ることはないかもしれない。

私自身、その人の顔も祈ったことも忘れるだろう。

しかし、一度ささげられた祈りは「なかったこと」にはならない。

真実な神様が受領した限り、永遠を治める神様は忘れることなく絶妙に全うしてくださる、と私は信じている。

 

 

私が初めて聖書を手にしたのは18歳の時だった。

ミッションスクールで礼拝も好んで出席したが、イエス・キリストを求めるには至らなかった。クリスチャンの素晴らしい先生にも出会っていたのに、クリスチャンになりたいとは思いもしなかった。

ところが、それから約10年の時を経て、私は本気で救いを求めるようになり、聖書を開き、イエス・キリストを信じたのだ。

 

自分自身を振り返って、私のために誰かが祈ってくれただろうと思う。

見ず知らずの誰がが、もっと昔、祈ってくれたのかもしれない、などと最近しみじみと感謝に思う。

天国に行ったら、「あなたのおかげだったのですね!」と初めてわかって、改めて出会いを喜ぶこともたくさんあるだろうと想像するだけで胸が熱くなる。

 

 

祈りは見えない。

誰かのための祈りは、お礼を前提としない心からの贈り物、と言っていいかもしれない。

 

イエス・キリストこそ、いまこの瞬間も絶え間なく、私たちのためにとりなしの祈りをささげてくださっているお方だ。

その様子を一部でもドキュメンタリー映画のように観ることができたなら、私たちはその姿に衝撃すら受け、言葉も失い、ひれ伏して感謝せずにはいられないのではないか...。

 

私のように自分のことしか頭にないような者が、イエス様の愛の、ほんのカケラでも注がれて、導かれるままに誰かのために祈らせていただけるなら、私の人生に意味を与える幸いなことだ...と思うこの頃です。

このブログを読んでくださっているあなたにも、神さま経由で恵みの贈り物が届きますように!

 

 【しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。】詩73:28 

 

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もっと祈らなければならない?

もっとたくさん「祈らなければならない」と、気持ちが追い立てられることがあるだろうか。

そういう気持ちは、正しい考えのようであっても要注意かもしれない。

 

「自分の祈りが足りない。だからうまくいかないんだ。もっと祈るべきなのに私はできていない。もっと祈らないと神様から祝福されない。」

 

そんなふうに恐れや不安にとらわれているなら、解決は「もっと祈ること」よりも福音を再確認することだろうと思う。

私自身、この落とし穴にやられやすいと自戒していることだ。

 

健全な福音信仰から生まれてくるのは、神との親密さを慕い求める心ではないか。

 

祈らずにいられない。

もっと祈りたい。

 

そのような心は、聖書を学ぶことなしには育まれない。

救いの恵みを味わい、聖書のメッセージを正しく理解し、イエス・キリストがどのようなお方で、どのように自分と関わってくださる方なのか、神の約束が何なのか、そのようなことを学ぶほどに祈りは命を得ていくと思う。

祈りは、クリスチャンの義務ではなく最高の特権であり、呼吸のように自然で不可欠なものだと体験していくだろう。

 

 

先日、『祈りのちから(War Room)』という映画を観た。

教会に通ってはいるがプライベードでは形式的な食前の祈りくらいしかしない家族が登場する。夫婦関係は冷えていて家庭も壊れかかっている。ところが、ある出会いにより妻が本気で神様に助けを求めて祈り始めることから、家族が奇跡的に回復していくというストーリー。

いったい何が私たちの幸福を壊すのか...。

ほんとうの敵はだれで、勝利の鍵はどこにあるのか...。

真理が豊かに盛り込まれ、ユーモアもあり、ストレートに訴えてくる素晴らしい作品。

クリスチャンであってもなくても、ぜひお勧めしたい。

 

祈りには現実的な力がある、と私は信じている。

しかし、それは自分の思い通りに事を運ぶための手段ではない。

祈りは、願いを叶えるための「おまじない」でもないし、「魔法の呪文」でもない。

むしろ、神様に主権をお返しし、神様に信頼して従う行為だ。

 

熱心に祈ったら絶対その通りになる...なんて、私は決して言わない。

しかし、はっきり言えることがある。

あなたが本気でイエス・キリストを求めて祈り始めるなら、

そして聖書を学びながら祈り続けるなら、

確実に「あなた」が変えられていく。

神様との親密な関係の中で、あなたは慰められ、安らぎ、強められるだろう。

 

祈りの力は、まず祈っている本人に実現し、そして必ず周りにも働く。

祈りの答えを見るのは、すぐかもしれないし、ずっと先かもしれない。

願ったこととは違う展開を見ることもあるだろう。

しかし、あなたの心と生活は、祈り始めた時から祝福へと既に方向転換している。

 

祈りには力がある。

気休めではない、人生を変える大きな力が...。

そのような祈りの習慣には、共に祈りながら助けてくれる人がなくてはならないように思う。

 

あなたに、真実な祈りの友が与えられますように。

あなたが、だれかの祈りの友となりますように。

 

私自身もますます祈りに生き、その力強さや豊かさを知り、だれかの祈りを助けるような信仰生活へとさらに導かれますように...。

 

【鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。】箴言27:17

 

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