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天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

変えられたい、でも変わりたくない...

昨年からずっと、心の内に問われていることがある。

それは私自身の生き方に関することであり、人との関わり方に関すること。

 

何度となく祈ってきたことだけれども、まだ葛藤のプロセスにある。

いま書こうとしていることは、現在進行形で私が苦悩している課題であり、私の正直な告白に他ならない。

 

 

私の心に留まり続けている問いかけとは、

あなたは、キリストに似た者になりたいと、どれほど思っているか。

あなたは、自分の周りにいる人たちにキリストに似た者になってほしいと、どれほど思っているか。

 

 

主よ、今はこの辺で勘弁してください...。

わかっています、いえ、わかりました...。

でもこれ以上、問いつめないでください...。

 

触れられたくない部分は穏便にやり過ごしたくても、主である神様は問いかけをやめてくださらないようだ。

 

礼拝メッセージ、ディボーション、日常の様々な出来事を通しても、この2つの問いは繰り返し心に迫ってくる。

 

 

この問いかけが私の心に投げられたのは、日本聖書学院のセミナーだった。

先生は、クリスチャン一人一人が神のことばである聖書を正しく学び、聖書に従って生きる真の信仰者として成熟していくために、熱心に聖書を解き明かしてくださる。

救いの恵みを喜び、キリストを愛し、御言葉を愛して止まない先生の情熱あふれるセミナーは、毎回私の魂を揺さぶり、新しい発見があり、信仰者としての深い喜びに満たされる恵みのときだ。

 

先生はこのように語られた。

ーーー私たちの信仰生活は、つまりは自分がどれほどキリストに似た者になりたいと思っているのか、また、自分の周りに置かれている人たちにキリストに似た者になってほしいとどれほど本気で思っているのかによって動かされているーーー

 

先生が使った言葉を正確に覚えてはいないが、私たちの心が本当に願っていることが私たちの生き方を実際は決定づけているという趣旨で語られたと私は理解している。

 

「周りの人たちにキリストに似た者になってほしい」という熱心が私にあると言えるか...と心を刺された。

 

 

この2つの動機に関する黙想はセミナー後もずっと続いた。

自分自身について言うなら、私はキリストに似た者になりたいと切に願っていますと答えることができる。しかし、周りの人にも同様の目的をもって熱心に関わっているかと聞かれたら、うまく返事ができない。

ところがさらに考えていくと、他者に対する熱心がないならば、自分自身についても欺かれていると気づかされた。

なぜなら、イエス・キリストこそ、他者(私たち)が神と和解し、キリストに似た者になるためにご自身をささげたお方なのだから。

 

この2つの動機(切望)はセットなのだ。

私は主の前に悔い改めて、神様が望まれるように私を造り変えてくださいと恵みを乞うた。

 

方向転換を願い祈った後の歩みの中で明確にされてきたことがある。

それは、私の内にある保身と恐れ、自己中心の思い。

キリストに似た者に変えられることこそ、本当の幸せだと信じている。

私はキリストに似た者に変えられたいと思っていることは嘘ではない。

だけど、他者に対してもその方向で関わることはしたくないのだ。

なぜなら、割に合わない苦痛を味わうのが嫌だから...。

 

 

ここ数年で痛い失敗がいくつもあった。

聖書の価値観でその人の回復や成長また教会の益を自分なりに考えて、立ち入った話をしたり、悔い改めを促したりした結果、真意は伝わらず、関係がおかしくなり、悲しみが残っただけで良い成果がなかったというケースが続いた。

もちろん、私のアプローチが下手であったことは否定しない。

それも含めて、やりきれない気持ちを抱えた私の中で「他者の罪には触れない方がいい」という思考が根付いた。

そして、誰かの実情やニーズを理解しようと意識的に近づくことも、その人の心や行動の変化のために働きかけることも怖くなり意欲を失っていった。

 

私にはわからない。

うまく助けられないから、首を突っ込まない方がいい。

 

下手に関わって地雷を踏むのも嫌だし、もう虚しい悲しみはたくさん...。

だから、無難な態度を保つ。

毒にも薬にもならない“やさしい”言葉で応じる。

信仰者らしく向き合って真剣に成長を目指すよりも摩擦を避けようとする。

 

つまり「自分の快適安全が一番」というのが本音だ。

十字架の道には、やっぱり深入りしたくないという保身。

苦い体験を繰り返したくないという恐れ。

 

 

私は、キリストを愛するより自分を愛していて、他者を愛していない...。

 

 

しかし、

そう答えるしかない私に、

なお、主キリストが問いかけてくる。

 

わたしは十字架のキリスト。

わたしを愛するか?

わたしに似た者になりたいか?

わたしがあなたのそばに置いた人たちを愛しなさい。

 

【主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。私のすべてのそむきの罪から、私を助け出してください。】詩編39:7

 

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愛に気づくキッカケ

私の夫は晩酌をする。

私が夜に外出し帰りが遅くなったある日、

私の帰宅に「おかえり〜」と応じてからほどなく、

「さぁ〜て、一杯やるか」

おもむろに冷蔵庫を開けてお酒に手を伸ばす夫。

 

...ん?

こういうこと、前にもあったなぁ...。

 

私は夫に尋ねた。

「もしかして、私が帰るのを待っていてくれたの?」

 「いや、なんかあった時、飲んじゃってたら車で出動できないからさ」

さらりと答える夫。

 

胸がじ〜んとした。

これまで何度こういうことがあったのだろう...。

 

私が気づかなかっただけで、私の遅い時はいつだって、

「何かあったら駆けつけることができるように」と意識して、私の無事を確認するまでスタンバイしてくれているのだ。

 

そして、何事もなく出番がなければ、それが一番。

無事でよかった...と、リラックスモードになるのだ。

「あなたのために私はこんなにしていたんだよ!」とアピールもせずに...。

 

 

私を助け守るために陰ながら努力してくれている夫を、私は尊敬する。

我が夫ながら、こういうことができる男性って、頼もしくて素敵だな〜と思う。

 

私が心からの感謝と尊敬を言葉にすると、

「そんなことないよ〜」と夫は照れ笑い。

私の夫は口下手なのだ(笑)!

 

言葉ではない方法で表現されている夫の愛情に、私はもっと敏感に気づく妻でありたい。そして大いに喜び、感謝を伝える妻になりたい。

私はどんなにかあなたによって守られていることか...。

私の知らないところで注がれている愛がどれほどあるのだろう...。

 

まして、神様の恵みは、どれほど繊細で豊かに、私を24時間365日絶えず覆い支えていることだろう、と思わずにいられない。

 

何事もなければ、備えられていたことにも気づかない。

私たちは恵みに鈍感だ。

「失って初めて大切なものに気づく」とよく言われるのも、そのせいではないか。

 

心臓が正常に動いていても、保たれている恵みだと感動しない。

今日、太陽が規則正しく昇って沈むことに、愛の意図を見ることができない。

家族が無事に帰宅しても、神の守りに心を向けることがない。

 

 

 

たとえば明日、桜の枝に小さな新芽がついているのを見たら、

御名を呼んで、こう尋ねてみたらどうだろう。

「もしかして、神様、私に満開の桜を見せるために今から準備してくださっているのですか?」

きっと、神様との関係は親密になっていくと思う。

神様のさりげない愛に感動があふれ、賛美せずにいられない喜びに包まれるのではないか。

 

 

「もしかして、〜〜だったのは、主よ、あなたの愛による計らいですか?」

 

そんなふうに神様に近づくチャンスは私たちの生活の中に山ほどあるに違いない。

気づいた分だけ、きっと、幸せがふくらむ。

 

あらゆるものを通して惜しみなく愛を注いでおられる主、

栄光の御名が賛美されますように!

 

【天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。】マタイの福音書5章

 

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心の立て直し、どうしますか?

新年早々、寝込みました。

原因不明のめまいに襲われ、ほぼ5日間活動停止状態で予定が崩れました。なかの2日はほとんど起きていることもできず、一日22時間くらい寝ている始末で、礼拝にも向かえず、聖書を開くこともできず、スマホを見ることすら大変でした。

そういう時は、やっぱり気持ちも弱ってきます。

夫にも、仲間たちにも迷惑をかけてしまった...。

あれもできない、これもできない、もう何もできない...。

 

 

このような症状は昨年から何度か経験していて、恐らく更年期の影響ではないかと考えながら、取り残されていくような寂しさ、自分の弱さへの落胆、こんなでは神様のお役に立てない…と、大袈裟に心が沈んでいきました

祈りの言葉も「神様...」の後が続かない。

自分のことで頭がいっぱいになっていることにも責めを感じて、もう悪循環!

 

安全な我が家で温かい布団に横になっているというのに、まるで泥沼に一人倒れているようなモードに陥っていく。

主を呼びながらも、神がおられないかのような愚かな思考。

 

生かされているのに...

キリストにあがなわれ、すべて赦されているのに...

愛され、守られ、導かれ、

主が永遠に共にいてくださるというのに...

 

 

これぞ罪人のどうしようもない姿なのかもしれません。

(これは、元気になった今だから再認識できることですね)

 

まったく、心って、なんなのでしょう。

自分の心なのに、管理するのが本当に難しい...。

許可した覚えもないのに、否定的な考えがどこからかなだれ込んでくる...。

 

私は特にメンタルが弱いのですが、人というのは誰もが少なからずそういう課題をもっている存在だと、聖書のことばからも理解できます。

 

【力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。】箴言4:23

 

【怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる】箴言16:32

 

【自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ち壊された町のようだ。】箴言25:28

 

 

私は、完全にアウトです...。

 

しかし!

体調不良に悩まされ、意志を働かせた思考が停止して、まさに「打ち壊された町」のようになりかけた私の心に飛び込んで来て制御を開始したものがありました。

私の心を守り、形勢逆転の力となったのは、たった一つの聖書のことばだったのです。

 

【あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。】詩編37:5

 

 

これは、2017年のテーマ聖句として今月のはじめに決めていた御言葉でした。

 

私は、すがるようにこの御言葉を口ずさみ、繰り返し祈りました。

 

私の道を、主よ、あなたにゆだねます。

主よ、あなたに信頼します。

私ではなく、あなたが、私の道を成し遂げてくださいます!

主よ、あわれんでください...。

 

 

 

あぁ...感謝だ。

主が成してくださる...!

心が呼吸を再開したように、あたたかくほぐれて、涙があふれました。 

 

 

私は、自分の心を正しくコントロールできない者です。

しかし、私の内に蓄えられた神のことばが、私の心を守り制御してくれます。

そのことを、はっきりと教えられました。

 

病をも真理を知る恵みとしてくださる主をたたえます!

 

 

聖書を開けない体調にまたなるかもしれません。

祈りの言葉が考えられない状態に陥ることもあるでしょう。

だからこそ、一つでも多く、心に御言葉を蓄えておくことに私は力を注ぎます。

御言葉は、生きて働く神の力だからです!

 

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悪魔からの年賀状?!

新年を迎えることができる恵みに感謝します。

お正月気分も終わり、皆様いかがお過ごしでしょうか。 

 

新年最初にあたり、とても面白いもの、いや、実にぞっとするものをご紹介したいと思います。

 

 

<悪魔からの年賀状> 

あけましておめでとうございます。私、悪魔、並びに悪霊一同より、新年のご挨拶を申し上げます。

 旧年中は、私どもが吹き入れる邪悪な思いに、しばしばご賛同頂き、時にはそれを実行に移し、何度も神の御名を汚して下さり、大変お世話になりました。さらに、それらを真実に悔改めることもなく、一年を過ごしていただきましたことは、神の赦しと回復の恵みとを自ら拒否することであり、私どもにとりまして何よりの励ましとなりました。

 控え目な礼拝出席、形式的な礼拝姿勢、表面的な教会での交わり、従う意志のない聖書の読み方、自分中心の願い事ばかりの祈りなどを通じて、救いの確信を失いかけたり、自らを省みることなく人を裁いてばかりの信仰生活には感謝の言葉もございません。まことに旧年中はお世話になりました。

 ただ、兄弟姉妹の祈りや牧師の適切な指導さえなければ、さらに神なき素晴らしい世界をご一緒できたであろうことを思いますときに、まことに悔やまれる次第でございます。

 さて本年も引き続き、気の向いた時だけ聖書を読み、決して神に本気で期待することなく祈り、兄弟姉妹とは建前だけの交わりに留めていただき、信仰と仕事は家庭に持ち込まず、「生教分離の原則」を徹底され、世と調子を合わせていただき、忌々しい神の栄光を現すことのございませんように、どうかよろしくお願いします。

 また、そのようなことは万が一にもないとご信頼申し上げておりますが、新年を機に、真実に悔改める、神に立ち返る、神に従う決断をするなどの暴挙だけは、くれぐれもご容赦いただきますよう切にお願い申し上げます。

 新しい年を迎え、私どもも全力をあげまして、あなた様が世の楽しみ、自己実現などにまい進され、神なき世界を満喫されますようご誘惑申し上げます。

 そして、いつの日か、教会生活を離れられ、キリストへの信仰もお捨ていただき、私どもと永遠を共にしていただければ光栄至極でございます。
あなたの魂を恋い慕う悪魔より。

 

 

敬愛する牧師、水谷潔先生が以前ご自身のブログに書かれたものを、先生の承諾を得て転載させていただきました。

水谷先生は何度か私の教会にも来てくださり、礼拝メッセージをはじめ、若者の恋愛セミナーや子育てセミナーなどでもご奉仕くださいました。

私たちが日々の生活において罪を遠ざけて聖書の真理を実際に生きていくために、痛いところをズバリ突きながらもユーモラスに、親しみやすいトークでわかりやすく教えてくださる先生です。

 

私がこの「悪魔からの年賀状」に出会ったのは5年ほど前ですが、本当にドキッとさせられたことを覚えています。そして、悪魔どもがもみ手でニンマリしている姿を思い浮かべて嫌悪し、キリストにある者として心を引き締めたいという思いにされました。

さっそく全文を印刷して手帳にはさみ、毎年手帳を新しくする時に読み返すことにしました。

忘れやすい者だからです。

 

昨年のクリスマス、「自分が何をしているのかわからない罪人」ということを書きましたが、普段何気なくしていることが、悪魔どもから「毎度ごひいきにどうも...」とお礼されているとしたらどうでしょう?

 

 

イエス・キリストを悲しませるようなことはしたくない。

悪魔どもを喜ばせるなんてジョーダンじゃない!

イエスさまにこそ喜んでいただきたい!

 

できている、できてない...はともかく、私の願いは明確です。

 

 

悪魔どもにだまされるもんか!

 

私は、ただ主に信頼して御霊の助けと恵みを祈り求めながら、神のことばである聖書に従う生き方を練習していく...。

この悪魔の年賀状は、今年も私の目を覚まし決意を新たにしてくれました。

 

 

悪魔を過剰に恐れ意識するのも落とし穴ですが、無防備では悪魔の思うつぼです。

絶えず忍び寄る悪魔どもの巧妙な策略を暴き、それを打破できる力は、神の御霊と神のことばにしかないと私は信じています。

だからこそ私は、自分の心と考えをつねに聖書で吟味する必要を認めていますし、聖書の教えに自分を従わせる選択をすると心を定めています。

それが、恵みに満たされた天国途上の歩み方ではないかと思うのです。

 

クリスチャンたちがキリストにある者らしく、主の栄光を表して今年一年を歩めますように!

主よ、みことばをもって助け導いてください!

 

【ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。】ヤコブの手紙4章

 

【身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。】第一ペテロの手紙5章

 

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夫の救いを祈る日々に

三年前、このブログをまだ始めていない頃、私はこんな事をSNSに書いていた。

 

 

三浦綾子さんのエッセイ『丘の上の邂逅』を読んでいて、随所で心を打たれる。
少し長いけど、そのまま一部引用。

********************
「北海道のよさは何か」と尋ねられた。わたしはためらわずに、寒いことだと言った。

もしこの旭川が、きびしく長い冬を持たなかったら、それは何とつまらぬ所であろう。長い冬の中で、人々は耐えるということを学ぶ。自然の厳しさに耐えるということである。それはまた、人生の厳しさに耐えるということでもある。
しかも、ただ漠然と耐えているのではない。
そこには、春を「待つ」という積極的な姿勢がある。
希望がある。待って待って、待ちくたびれるほどに待った果てに春が来る。
春を迎える喜びは、北国の者でなければわからない。
むさぼるように春を楽しむ。道ばたに咲くタンポポにも、庭にふくらむ木の芽にも、大いなる驚きと喜びとをもって、わたしは体全体に春を感ずる。
(中略)
かくして、長い冬を持つわたしたちは、一年の四季それぞれを緊張に満ちた思いで過ごすのだ。つまり寒さが旭川に生まれ育ったわたしを育ててくれた最も大きなものなのだ。
********************

私は東京で生まれ育ったが、結婚して宮城県民になった。
海も山も近くにあり自然が美しく、街も発展し、食べ物がおいしいこの地が、私は大好きで東京に戻りたいと思ったことは一度もない。


北海道とは比較にならないが、私もここに暮らすようになって「東北の夏は短く、冬は長い」とつくずく思っていた。
どんな天候でも朝夕に愛犬フジの散歩をした13年間。
寒さがゆるんでくる気配、冬枯れの地面に小さな雑草の緑を見つけた時の嬉しさ、つくしが顔を出しタンポポの黄色が広がる幸せを、この東北に来て知った。
だから、私も「春を迎える喜びを知る者」の端に加えてもらえるだろうか...。

 

それにしても、三浦綾子さんのこの文章を読み終えて私の心に広がったのは、
私が待って待って、待っている「春」は、
教会から離れて長い私の夫の救いだ....という思いだった。
夫と共に、主なる神を心から礼拝し、まことに賛美をささげるそのときが、私の待ち焦がれる春だ。
私は確かに春を待っている。
積極的に冬を耐え、信仰をもって待つことを教えられていると思う...。
祈りが心にあふれ、三浦綾子さんの言葉に深く慰められた。

 

聖書のことばが思い浮かぶ。


『それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』ローマ5:4-5

 

三浦綾子さんはこのみことばのような方だ...と思わずにいられない。
私も、10年、20年かかっても、このような人に変えられていきたい。

 

 

... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ... 

三年経った今、私は同じような思いで、いやますます切なる思いで「春」を待ち望んでいる。

このブログにも以前、夫の救いを待ち望んでいることを書いた(神の時を待ち望む - 天国途上 〜生きること思うこと〜)。

 

私はまだ「春」を見ていない。

 

しかし、神様が必ず私の春を備えてくださっているという確信は、私自身が信仰に恵まれている喜びと感謝とともに、三年前よりも圧倒的に増していると言える。

良い兆しがないまま三年が過ぎて、あきらめに飲み込まれるどころか、

必ず神様の時が来る!

最善の時が備えられている!

...という希望が私の心を覆い満たす。

 

それは、私の希望の根拠が純化されてきたからではないかと思う。

漠然とした楽観や人に対する期待ではなく、ひたすらに恵みの神様だけに望みを賭けるようにされたからだと思う。

それ以外に賭けた望みは一つ一つ砕かれてきた10年だったとも言える。

 

いま、私の希望の拠り所は、神様のみことばにある

だから、人や状況が私を一時的に悲しませたり疲れさせたりできたとしても、私の希望を奪い去ることは決してできなくなったのだ。

 

この希望は失望に終わることがない...と私は知っている。

 

また、夫の救いを願う動機も苦しみの中で問われ、私の本音が明らかにされ、悔い改めに導かれ続けた。

最初は、突き詰めると「自分がいい思いをしたいから」だった。

次は、かけがえのない夫に幸いを得てほしいから...となり、今はそれ以上に主のために、教会のために、夫婦で心を一つにして仕えたいという願いが強い。

主の栄光の証しとなりたい、人々に主キリストを賛美してほしいから...。

 

今が長い冬だとするなら、

三浦綾子さんの言葉を借りるなら

「長い冬の中で、人々は耐えるということを学ぶ。...春を迎える喜びは、北国の者でなければわからない。」

と言い得えるような、ほんとうの幸いを味わい知るために不可欠な恵みの時そのものを私はじっくり歩ませていただいているのかもしれない。

 

三年前に私は、「このような人に変えられたい」と祈りをもって結んでいる。

神様はその願いに真実に応えて、これまでの時を導いてくださったのではないか。

春が神様の恵みならば、冬もまた尊く備えられた恵みに他ならない。

 

 

主よ、冬が早く終わるように、そればかり考えて一喜一憂し、

厳しい季節に込められたあなたの測り知れない恵みに鈍感で感謝が乏しかったことを赦してください。

冬がなければ、どうして春の感動を知ることができるでしょう。

主よ。

私に待って待って待ち望む忍耐の期間を与えてくださって感謝します!

 

 

ブログを読んでくださった皆さん、ありがとうございます。

お祈りくださっている方々に感謝します。

あなたがいま歩んでおられる人生のシーズンに込められている神様の恵みに、あなたの目が開かれ、喜びと希望が増し加えられますように祝福をお祈りします!

来年もよろしくお願いいたします。

 

創造主であり主権者である神、聖なる主の御名がほめたたえられますように!

 

そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。焼けた地は沢となり、潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。】イザヤ35:5−7

 

見よ。わたしは新しい事をする。、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。】イザヤ43:19

 

 

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真の友とは...

私は友だちに恵まれている...。

本当に、年々、そのことへの感謝が増し加わっている。

 

いつの時代も、心を通わせることのできる友が近くにいて、そして卒業後何十年と過ぎた今になっても互いを大切に思う関係が続いているのだから、なんという幸いだろう...。

今になって考えると、神様がこの友達関係の領域を特別に祝福して私が生きていけるように守っていてくださったとしか思えない。

 

若い頃、「友達、友達」とすぐ口にする私に親が何度か話してくれたことを今でも覚えている。誰でも一度は聞いたことがあるようなことかもしれない。

 

「本当の友というのは、生涯かけて一人か、せいぜい二人できるかどうかの宝のような存在で、自分のすべてを分かち合えるような人のことを言うんだよ。」

 

その当時はわかったつもりでいたけど、年を重ねた今、この言葉の重みがわかってきた気がする。

 

聖書に出会い、イエス・キリストを信じる信仰を与えられて、聖書から愛することを学びつつ生きるようになって、「友」というテーマは私にとってさらに大切なものになってきている。

 

 

ある本の一文が私の心をとらえた。少し長いけれどもここに引用させていただく。

 

霊的相乗作用の原則はクリスチャン生活のあらゆる面に適用するが、聖性の追求においては間違いなく助けになる。私たちには、心を通わせて共に祈り、励まし、必要ならば戒めてくれる人が、少なくとも一人は必要である。この人(または人々)もまた、その人自身の生活で罪を死に至らせる闘争に深く関わっていて、私たちの戦いにも参入することができ、私たちの底知れず深い罪の本質につまずかない者でなければならない。

ピューリタンたちは、《すべてを完全に打ち明けることのできる「真の友」を与えてください》と神に祈った、と言われている。私たちの生活における罪を死に至らせる闘争で私たちの助け手として、私たちが神に祈り求め、また捜し求めるべき友とは、このような友に他ならない。

(『恵みに生きる訓練〜聖性の追求を果たすために』ジェリー・ブリッジズ著より)

 

前後がわからないと理解しにくい言葉もあると思うが、私たちには真の友が必要であり、また真の友というものが、どういう人で何をし合う関係なのかを考えさせられた。

 

この友は、心と生活から罪の性質が取り除かれ、キリストに似た者として聖くされていくことに具体的に取り組み、その目的(切なる願い)が共有されている関係

そのために ---まさにそれを「戦い」と表現しているわけだけれども---  共に祈り合い、正直に語り合い、励まし合い、助け合うことができる人。

そのように同じ戦いを戦っている味方として同じ目的と同じ基準に生きるがゆえに、「必要ならば戒めてくれる人」なのである。

 

愛や信頼関係の真価が問われるのは、互いの間に違和感や葛藤が生じた時なのではないだろうか。

共有している目的のために、一時的に互いの間に緊張や摩擦が生じるとしても真実な忠告や戒めの言葉を告げることができるのが真の助けであり、真の友であろう。

 

聖書にもこのように書かれている。

【あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。】箴言27:5−6

【あざける者はしかってくれる者を愛さない。知恵のある者にも近づかない。】箴言15:12

【訓戒を無視する者は自分のいのちをないがしろにする。叱責を聞き入れる者は思慮を得る。】箴言15:32

 

耳に痛い聖書の真理だ。

 

戒める者は愛と真実をもって知恵深く語り、聞く側もへりくだって耳を傾ける。

衝動や感情に支配されず、誠実な対話をしようとする

素直に心から謝ることもできる。

動機は愛だと、互いに信頼しているから…

 

そうして御霊によって悔い改めに導かれたり、双方共に真理に気づかされたり、心を一つにして最善を祈り求めることができるだろう。

 

もう一つ重要なことは、著書の言葉を借りるなら「互いにある底知れず深い罪の本質につまずかない者」ということではないか。

 

私たちは互いに、ふさわしく助けたり忍耐強く愛するよりも、裏切ってしまったり、大切な人ですら傷つけたり失望させたりしてしまう罪深さを持っている者同士だ。

だから、戒め合うことだけでなく、キリストを互いの間において「赦し合う」ことができる関係でなければ、どうして正直に深く関わることなどできるだろう。

 

私たちはみな、神の御子であるキリストが十字架で身代わりに処刑される以外に救いの道がなかったほどの罪人である。

絶望的に堕落している。

責任転嫁、自己防衛、自己中心がしみついている。

 

赦し合うことを抜きに、どうして真の友となり得るだろう

赦しがあるから、真に愛し合うことを追求し続けることができるのではないか。

 

傷つく、期待がはずれる、願いに応えてもらえない、イライラさせられる、誤解された、責められた、忙しい、時間がとれない、疲れる、嫌な面が見える、話が合わない、感じ方や考えが違う、気持ちを理解できない、感情的になる、隠す、ごまかす、すれ違う、忍耐できない、環境や立場が変わる、などなど...。

人間関係において、そういうことを完全に避けては通れまい。

 

そんなことで関係が壊れるなら、厳しい言い方をするなら、それは利害や興味の一致によって成立したただの「仲良し」に過ぎなかったのではないか。

 

 

 

---友であることを追求することは、キリストの愛を追求すること---

これは私の友がクリスマスカードに書いてくれた言葉。

彼女は超多忙な生活にあっても、この言葉どおりに「友であること」を追求してくれている。

 

また、赦しの友もいる。

かつて私は、被害者意識と不平不満で精神状態を狂わせた時期があった。

心配して自宅を訪問してくれた彼女を前にして「今の私には友だちがいない」と冷たく言い放ったことがある。

しかし、彼女は傷つきながらも私から距離をとるどころか、弁解も反発もせず、友を孤独にさせた自分のあり方を変えようとし、言葉のナイフを振り回しているような私になおも近づいて愛を示してくれた。私には真似できない...と今でも頭が下がる。

彼女の誠実と忍耐と寛容が和解を導き、その愛と祈りによって真の友への扉が開かれた。

彼女は、私が信仰によって回復できるように、心を砕き力を尽くしてくれた。

 

 

私は本当に、友に恵まれている...。

神様、ありがとうございます...。

 

愛するとはどういうことかを聖書を通して正しく知り、キリストに従っていく歩みは、一人ではできない。

 

神のことばである聖書と十字架のキリストを中心にして互いの人生を分け合う真の友を感謝し、ますます神様に乞い願い続けよう。

私自身が真の友となり得るよう、主にある成熟へと助け導いてください...。

 

【鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。】箴言27:17

 

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クリスマスを喜び祝うために

美しい飾り付けを施し、クリスマスを特別に祝うシーズン。

教会では特別なプログラムを準備し、チラシも作成して、普段は礼拝に集っていない家族や友人知人、地域の方々に足を運んでいただきたいと祈りつつ働きかける時でもある。

 

これを読んでくださっているあなたが、いつも教会に通っておられる方でないなら、ぜひこのクリスマスの礼拝に集ってみてほしいと心から祈ります。

イエス・キリストとの出会いを求めるあなたを神様が祝福して、聖書が真実に語られる良い教会に導いてくださいますように...。

今年のクリスマスが、あなたの人生のBefore Afterを分ける日となりますように...。

 

 

もしあなたが、いつも教会に集っておられるクリスチャンの方なら、このような質問をさせていただいていいでしょうか。

 

あなたの教会は、教会に不慣れな方にも親しみやすく温かく、居心地の良いところだと思いますか?

 

では、あなたご自身は、教会に来られた方に対して親しみやすく温かく、ご自分から挨拶したり、親切に関わることに努めておられますか?

 

 

こんな質問を思い浮かべたのには経緯があって、先日教会の仲間たちとミーティングをしていた時に、私自身が昔やってしまった失敗を鮮明に思い出したからだ。

 

初めて教会に来た人が戸惑うような歓迎がある。

たとえば「ハレルヤ〜感謝します!」といきなり握手するとか、プライベートなことをしつこく聞いたり、馴れ馴れしくしすぎてしまうとか。

一方で、まるっきり無視されているように笑顔を向けられることも声をかけられることもなく、不慣れな方が放置されているようなら、どんなに素敵な演出をして盛り上がっていても疎外感を与えるだけになる。

 

10年以上前になるだろうか、牧師から聖書勉強を通して数名のグループでリーダートレーニングを受けながら、いま書いたような注意すべき視点も教えられた。

私は、当時の教会における問題意識を共有しつつ、礼拝に来られる方々に積極的に接する実践をしていた。

他の人たちはともかく、私は教えられたことを理解し、それなりにできている...と思っていた。そんな頃だった。

ある日、礼拝が始まる少し前、入口付近にいた私は用事を思い出して端へ移動した。

その矢先に、牧師が近づいてきて私にこう言ったのだ。

 

「あそこに立っている学生さんの目の前を、いま、自分が素通りしたことに気づきましたか?」

 

私は振り返ってハッとした。

全く気づかなかった。

つまり、その見慣れぬ学生さんは私の目に入っていなかったということだ。

わざとではないけれども、それは彼を目の前で無視したことを意味していた。

 

現行犯逮捕されたような羞恥と共に、無自覚の恐ろしさを教えられた瞬間だった。

私はこの時に注意された経験を心から感謝している。

はっきりわかるように注意してもらわなければ決して学ぶことができないこともある。

生涯の宝となる指導だ。

 

そのように当時を思い出して感謝を述べた私に、牧師は優しく言った。

「では、今度はあなたも、誰かをそのように指導してあげてください」

 

これまた、心に刺さる貴重な勧めの言葉をいただいた...。

自分が変えられて幸いだと言うだけではなく、他者も変化できるように関わること。

神様への愛、教会への愛、相手を本当に成長させたいという熱心と適切な識別力がなければ、無難でほどよい関わりを越えて踏み込む指導などできるはずがない。

失敗する、無力さに直面する、誤解される、反発される、嫌われる...そういったリスクを避けて安全地帯で自分を守りたいなら、チャレンジすることも無理だ。

課題は常に自分にあり、目の前にある...。

 

 

うちの教会はこうだ、あの人はああだ、愛がない、感じが悪い、気が利かない、と問題を見つけるのは簡単だ。

ああした方が良い、こうあるべきだ、と議論することもできるだろう。

しかし、そう言っている自分は果たしてどうなのか。

自分が本当は何をしているのか気づかないのが私たちではないのか。

 

イエス・キリストは十字架の上でこのように祈られた。

【父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。】ルカの福音書23章

 

このイエス様のとりなしの祈りは、今、この瞬間も私のためにある。

どこまでも赦しが必要な自分...。

救い主にあがなっていただくしかない私...。

あわれみ深く扱われ、ただ恵みによって導いていただいている私...。

 

イエス・キリストは、自分で何をしているのかもわからない身勝手な罪人のためにご自身を捧げようと、この地に降りてきてくださった。

ご自分を無にして、人となって、

降りて降りて降りて...、私たちの間に来てくださった。

それがクリスマス...。

 

あなたに救い主は必要ですか。

どれくらい必要ですか。

 

その答えがそのまま、真にクリスマスを喜び祝う心を決めるのではないでしょうか。

 

救い主イエスさまが喜ばれ、賛美され、真に礼拝されますように!

 

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