祈りのための祈り
イエス様が十字架へ向かう前、弟子たちと最後の晩餐を終えてからゲッセマネの園で祈りの格闘をされた。
その間、弟子たちは少し離れた所で祈っているように命じられる。
しかし、弟子たちはまともに祈ることができず眠りこけてしまう。もだえ苦しんで祈っていた主イエス様に眠っていたところを注意され、再び主が祈りに向かわれるとまた眠ってしまう。そんなことが三度も...。
イエス様は、こうおっしゃっている。
【それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」】マタイ福音書26章
この弟子たちの有様を、私は笑うことができない。
こんな時に情けない奴らだ...と憤ることもできない。
私自身、一時間でも祈っていられない者だと思うからだ。
イエス様を愛している心は嘘ではないのに、眠りこけてしまう自分が悲しくて、主の前でどうしていいかわからない弟子たちの気持ちに同情する。
祈っていたいのに、祈っていることができない...。
また、弟子たちを教え愛し、人々を愛して、ご自身を十字架で捧げ尽くすために血の汗を流してもだえ祈り続けたイエス様が、どんなお気持ちで、眠りこける弟子たちに祈りの促しを重ねたことか...と想像しては胸がつまる思いになる。
お祈りは好きですか?と聞かれたら、あなたはどう答えますか。
私は少し答えに困ります。
主の御名を呼んで、心を打ち明け、思うまま色々おしゃべりする...。
主イエス様を喜びほめたたえ、感謝したり、謝ったり、お願いしたり...。
それは私にとって、とても日常的で自然なことになっています。
確かに幸いなひとときです。
しかし、同時に、祈りはひどく億劫だったり、うまくいかない...と思うことも事実です。
雑念が入る、眠気に襲われる、そんなことも実にしばしばあります。
この時間を祈りのために特別に取り分けようとしているほど、意識がそれていき、あれこれ他のことが気になり始め、祈りがストレスになるというか、エンジンがかかるまである種の妨害にあっているような体験をします。
あぁ、私って「祈りの人」じゃないんだなぁ...。
そんな結論に落ち着いてしまいそうになるのです。
ところが最近読んだ『ジョン・バニヤンによる祈りの力』という本の中で、実にぴったりとくる文章に出会いました。
少し長くなりますが引用します。
自分のことを話すなら、なかなか思うように祈ることができないというのは、わたしの経験でもあるのです。これから祈りに入ろうとしながら、わたしの心はなかなかそういう思いになりきれないことが多いのです。そしてまた、神との交わりの中にいるときは、わたしの心はその交わりから離れていきたがります。祈りの中でわたしは何回も神に求めなければなりません---わたしの心を捕えてください、そして神から心が離れていかないように、キリストにあって助けてください、と。たましいが神のみそばにあるとき、そこからさまよい出ることがないようにお願いしなければなりません。(略)祈るときに私たちの心は、どんなに困難を覚えることでしょう。神の御前からなんとか逃れようとして、心はあらゆる策略を使い、数限りない言い訳を考え出します。上手な祈りができたとき、なんと心はおごり高ぶることでしょう。人の前で祈るとき、どんなに醜い偽善が忍び込むことでしょう。そして、聖霊が共にいて助けてくださらないなら、密室の中で神との交わりをほんとうに意識することが、なんと少ないことでしょう。
祈りの偉人と呼ばれる方々がおられます。
ジョン・バニヤンもその一人でしょう。
そういう方々こそ、祈れない自分をよく知っていて、なおさら御霊の助けを切に祈り求めながら祈りの生活をされていたのではないかと教えられました。
聖書には、御霊によって祈る、ということが繰り返し語られています。
私の内に与えられている助け主聖霊さまを信頼し、「あなたの助けによって祈らせてください」と祈ることを覚えていこうと思いました。
そうすれば、5年後、10年後、私の祈りの生活はどれほど変わっていることでしょう...。
【すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。】エペソ6章
老いの重荷、加齢に伴う恵み
同年代の女性たちでおしゃべりすると、物忘れネタで盛り上がるようになった。
「あるある〜!」
「わかる、わかる〜!」
それぞれが自分のエピソードを持っていて、次々に披露して笑い合う。
自分だけじゃないんだ...とちょっとホッとしたりもする。
だけど、それぞれ自虐ネタで笑ってはいても、まだ半分は受け入れきれない気持ちがあるのだと思う。
そんな自分が情けない、これからが心配、自分のしたことがショックで落ち込む、余計な時間がかかって予定が狂う、イライラするしなんだか焦る...。
誰かに何か言われようものなら傷ついてしまう...。
「私もそうだよ〜」と笑って慰め合っても、やっぱり心の底では悲しんでいる。
あ〜、嫌だなぁ〜と最後はため息まじりになる。
この世に生まれた瞬間から、私たちはみな等しく年をとっていく。
成長と呼べる時期を過ぎると、加齢とか老いとかの言葉で表現される段階に来る。
人生のピークをどこと考えるかは人それぞれだろう。
しかし、老いも死も、避けられる人はいない。
そんなことは当然と思いながらも、ある年齢までは自分とは関係ない感覚で生きているのではないか。
私の場合は40歳を過ぎた頃、まだ世間では働き盛りと言われる年代だと思うけれども、「もう若くない」という実感を強くした。
「このまま世代交代が来て、やがて表舞台から消えていく存在だ」という現実を考えることが続いて空しさに襲われた。
まだまだ現役、私はこれからだ!
...と意欲を燃やすことができればいいのに、実際は元気なアラフォーだというのに、不自由になった老人のように気持ちがしぼんだのを思い出す。
そんな頃に一つの詩に出会い、心が変えられていくキッカケとなった。
それ以来、折々に思い出して味わう。
衰えから目をそらせる何かに没頭するのでも、老いを避けるべきものと見るのでもなく、人生後半に備えられた神様の恵みと共に自分の現実と向き合っていくため。
自分がどこに向かって生きているのか...ゴールを確認し、避ける事のできない悲しみがあっても希望と平安をもって歩むことを教えられるからだ。
『最上のわざ』 (ヘルマンホイヴェルズ作)
この世で最上のわざは何?
楽しい心で年をとり
働きたいけれども休み
しゃべりたいけれども黙り
失望しそうな時に希望し
従順に平静に己の十字架を担う
若者が元気いっぱいで神の道を進むのを見ても妬まず
人のために働くよりも
謙虚に人の世話になり
弱って、もはや人の為に役立たずとも
親切で柔和であること
老いの重荷は神の賜物
古びた心に、これで最後の磨きをかける
まことのふる里に行くために
(後略)
何かが「できる」ことは嬉しいことだ。
誰かの役に立つことができれば、なおありがたい。
だけど、そもそも、私たちは自分の力で生きているわけではない。
心臓の鼓動一つ一つが、神の恵みによって支えられている。
できないことが増えていくと確かに悲しいし不便だけど、そもそも全部助けられていたことを知り、主の恵みにゆだねる姿勢で謙遜にされていくなら、それは「最後の磨き」なのだろう。
できるだけ元気で年を重ねたいと思う。
でも、若い頃に戻りたいとは全く思わない。
何かができることよりも、人に評価されることよりも、ずっと喜ばしいことがある。
こんな自分がイエス・キリストのものとされていること。
自分の名が、天にあるいのちの書に記されていること。
イエス・キリストの犠牲と引き換えに永遠のいのちが与えられていて、まことのふる里でわが主にお会いする日が約束されていること。
この喜びは、生涯を通して決して消えることはなく、むしろ年をとっていくにつれて益々大きくなり深まっていくはずだ...。
【私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。】第二コリント4章
存在価値を求めて…
人生はあなたが主役---という言葉に勇気を得て奮い立っていた時期がある。
冴えない脇役で終わりたくない。
舞台の中心に立って存在感を出したい。
なくてはならない人物になりたい...。
劣等感を抱えながら、日々なんとか自分の存在価値を見出す必要があった...。
背伸びをして、明るく振る舞い、弱さを隠した。
平凡ながらもスポットライトを浴びているいるような心地よい瞬間が、それなりにあったように思う。
しかし、そんな状況は続かない。
スポットライトはすぐさま別の人をキラキラと映し出す。
薄暗い中に置き去りにされる感覚。
劣等感がうずく。
無気力に襲われる。
本当の自分のみじめさから逃げる。
ごまかす、あきらめる。
すごい人は本当にすごいんだから、身の程をわきまえることだ。
主役の器でないことくらい、自分自身が一番わかっている。
再び立ち上がる意欲が出るまでは言い訳しながら沈み込む。
裏表のギャップに翻弄される息苦しい毎日を送っていたものだ...。
人生は自分一人で背負うしかないと信じていた。
勝負するには手持ちカードが悪すぎると不運を嘆いた。
持っているものに感謝できず、無い物ねだりばかりしていた。
キリスト抜きの人生観で歩んでいた日々…。
苦しみながらも自分の力だけで生きているつもりでいた。
なんのために生きているのか、どこへ向かっているのか、答えがないまま、希望もないまま、存在価値ある自分を演じようともがいていたあの頃...。
いま、私は、自分を演じてはいない。
私をデザインし、生かしてくださっている創造主である神を信じるようになったから。
いま、私は、主役の座に執着していない。
私の人生の主役は、主なるキリストだと知っているから。
世界の中心、歴史の主人公も、実は主である神だと信じているから。
その壮大なキャストの一員に加えていただいているだけで感謝だと思うようになった。
どんなポジションであろうと、主が私になさせたいとお望みの役目を全うできたら最高...。
いま、私は、スポットライトの中に立つ人をうらやまなくなりつつある。
イエス・キリストにこそ、スポットライトを浴びてほしいと願っているから。
いま、私は、欠けだらけの自分をごまかす必要を感じない。
そもそも良いものなど何もない、裁かれるべき罪人の自分だという事実を、聖書を通して理解し始めたから。
どうしようもない私を、なおも愛して御子を与えてまで救ってくださった神を知ったから。
神の恵み深さをこそ私は誇り、この身を低くしてあがめたいのだ。
いま、私は、希望を失わない。
私の希望は、私自身にではなく、永遠に変わることのないキリストにあるから。
こんな私が、キリストのものとされていると知っているから。
御言葉の約束は、主が必ず成就されると信じているから。
だから私は、私の人生を変えてくださった主イエス・キリストを喜び、主を仰いで賛美し、恵みの福音を伝える。
そのために、私は生かされている!
かつての私と同じではないにしても、息苦しい毎日に疲れている方がおられるなら、イエス・キリストに答えを求めてほしい。
恵みの主が聖書を通してご自身を現し、あなたに出会ってくださいますように!
教会に疲れて悩む方々を神様があわれんで、福音の主キリストご自身に、信仰によって堅く結びつけてくださいますように!
このブログに導かれた方々を主が祝福してくださいますように!
【あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。】第一ペテロ2章
恵みのおすそわけ
マタイの福音書28:1−10からディボーションの分かち合い。
何度となく読んできたイエス・キリスト復活の場面。前後の文脈を意識し、他の福音書の平行箇所も開き、御霊の導きを祈りながら観察していく。
Clayの解説からヒントを得て黙想を続ける。
天使が墓石を転がしたのは、イエスが墓の中から出るためではなく、イエスを信じる者たちが中に入って死体がないことを確認するためだと記されていた。
どんな墓でも復活のイエスを中に閉じ込めておくことなどできるはずがない、という事実に改めて目が留り、まさにその通りだと再認識した。
墓石がどけられたのはイエスを信じる者たちのための出来事---という観点で再び御言葉を観察し、黙想し、大きな喜びに包まれた。
長くなるけれども、あえて結論からではなく黙想のプロセスを分かち合ってみようと思う。
(これが正解...と思っているわけではないのですが、御言葉から教えられ、恵まれる黙想となったので参考までの分かち合いです。)
読んでくださる方々のディボーションの祝福の一助になりますように...。
1-4
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上に座ったからである。......番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
女たちは、墓の中に置かれたイエスさまの遺体に香油を塗ろうとして向かったことが平行箇所(マルコ16:1)からわかる。巨大な墓石とローマの番兵たちが行く手を阻んでいた。イエスさまのご遺体に触れることは現実的に考えれば不可能だった。にもかかわらず、彼女たちは香油を買った。そして墓に向かったのだ。
2節の「すると」という言葉に注目した。この「すると」は、5節、9節、10節にも出てくる。この言葉から、その出来事が先の出来事と連鎖していると読める。
彼女たちの目的を阻んでいる大きな2つの障害は、彼女たちの到着に合わせるように御使いによって解決されていた。
女たちが来たことに関連して御使いが事を起こしていると考えると、次に続く御使いのセリフもその関連性を表現しているようだ。
5-6
すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
彼女たちの目的を阻む障害は取り除かれていたので、彼女たちはイエスさまが安置されているはずの場所に立つことができた。しかし、「イエスさまに香油を塗る」という彼女たちの当初の目的は達成されていない。
8-10
そこで、彼女たちは恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」
彼女たちの目的は達成されなかったけれども、御使いから託された伝言を握って墓を後にする。大喜びで、急いで、走って...という言葉も彼女たちの方向転換を強調しているように読める。
墓は、キリストを愛する者たちの目的地でもゴールでもない。
すると...、彼女たちは復活のイエスさまに出会うのだ。
彼女たちに香油を塗ってもらうしかない死んだキリストではなく、語りかけてくださる生けるキリストに出会う!
ズタズタに痛めつけられたままのキリストの遺体にすがって泣くのではなく、新しい体をもって生きておられる勝利のキリストに触れて礼拝する機会を与えられる!
そして、主から「何をしたらよいか」明確な御言葉が与えられ、遣わされる。
「恐れてはいけない」という言葉とともに、福音にふさわしい生き方へ押し出される。
彼女たちの頭に、「せっかく買った香油が無駄になった」とか「私たちの計画通りにいかなかった」というような、つぶやきはよぎりもしなかっただろう。
復活のキリストに出会っていただけるという祝福。
なんという恵み!
復活のキリストから為すべき使命をいただける祝福。
これ以上の幸福があるだろうか...!
それらの驚くべき展開も、
最初の一歩は、非現実的とも思える発想であり、キリストへの純粋な愛による実行であった。
キリストの復活という御言葉の真理を悟ることができていなかったゆえの的外れさがあったにもかかわらず、神様は御遣いを送って彼女たちのために道を開き、方向転換させ、彼女たちの予想を超えた喜びの展開へと導いてくださった。
私たちの人生にも、同じことがきっとある!
いや、気づかなかっただけで、これまでも、このような神様の恵みの御手があって導かれてきた。
私はそう信じる。
なんという祝福...。
あり得ない特権...。
キリストへの愛によって、私はいま、どんな行動ができるだろう…。
その実行には連鎖的な恵みの展開がきっと備えられている。
導かれた先で、私は生ける神キリストをもっと深く知らされる…。
主よ、私はほんとうに幸いな者です...。
主よ、あなたを愛します。
あなたの御言葉に従います。
あなたの証し人として、どうぞ用いてください。
ブレない生き方〜私の中心軸〜
今年1月からディボーションのためにハーベストタイム出版のClayを教会の仲間たちといっしょに使っている。
中川健一先生の解説に助けられて黙想と適用が恵まれている。感謝!
最近はイエス・キリストの十字架と復活のプロセスを時系列で追うように福音書をまたいで聖書箇所が指定してあり、新たな気づきも多い。
日々聖書に向き合って祈る時間は私の喜びと平安の源であり、ブレない生き方の中心軸のようなもの。
私の心と私の人生に、確かに主がともにいてくださると知るライフスタイルの要だろう。
一人の空間とゆとりある時間が与えられて、私は静まって主との交わりを求めることができる。
なんという贅沢...。
主が私に御言葉の黙想をさせ、恵みの深みに招いてくださる。
しあわせだ...。
聖書を開いてもなんだか身が入らない日もある。
祈る姿勢をとってもエンジンがかからない、意識が散漫で言葉が空回りしているような日もある。
だけど...
それでも...
主が招いてくださっていることは変わらない。
そのままの自分を主の前に差し出してあわれみを乞い、変わらない主がすべてを負ってくださっている恵みに感謝して、その日の働きを始める。
一日24時間、世の中はせわしなく動き続けている。
みな忙しい。
情報はあふれている。
やることは尽きない。
時間を自分の自由に使える人など、ほとんどいないのかもしれない。
私の今の環境はとても守られている。
自分の意志で過ごし方をたいていは決められる。
だからこそ、委ねられている時間の使い方に責任があるともいえる。
この先、何かで忙しくならざるを得ないことがあるかどうかはわからない。
でも、主の御言葉を前に静まる時間の尊さを体験的に教えられていることは、この先の人生の守りになると信じている。
聖書を読み主イエス・キリストを求める時間を失ってまでしなければならない事、もっと大切で有意義な過ごし方、そういうものがあるかのように欺く価値観に流されないように、主よ、私をとらえていてください。
私は何よりもあなたを慕い求めます。
あなたが私になさせたいことをなさせてください。
あなたを見失わせるものを私から遠ざけてください。
あなたと親しく過ごすことで知恵と力をいただき、
その恵みに押し出されて他者に仕えたり、人目につかない地味な働きも喜びをもって誠実を尽くす歩みをさせてください。
私の生き方を通して、主の御名があがめられますように!
変えられたい、でも変わりたくない...
昨年からずっと、心の内に問われていることがある。
それは私自身の生き方に関することであり、人との関わり方に関すること。
何度となく祈ってきたことだけれども、まだ葛藤のプロセスにある。
いま書こうとしていることは、現在進行形で私が苦悩している課題であり、私の正直な告白に他ならない。
私の心に留まり続けている問いかけとは、
あなたは、キリストに似た者になりたいと、どれほど思っているか。
あなたは、自分の周りにいる人たちにキリストに似た者になってほしいと、どれほど思っているか。
主よ、今はこの辺で勘弁してください...。
わかっています、いえ、わかりました...。
でもこれ以上、問いつめないでください...。
触れられたくない部分は穏便にやり過ごしたくても、主である神様は問いかけをやめてくださらないようだ。
礼拝メッセージ、ディボーション、日常の様々な出来事を通しても、この2つの問いは繰り返し心に迫ってくる。
この問いかけが私の心に投げられたのは、日本聖書学院のセミナーだった。
先生は、クリスチャン一人一人が神のことばである聖書を正しく学び、聖書に従って生きる真の信仰者として成熟していくために、熱心に聖書を解き明かしてくださる。
救いの恵みを喜び、キリストを愛し、御言葉を愛して止まない先生の情熱あふれるセミナーは、毎回私の魂を揺さぶり、新しい発見があり、信仰者としての深い喜びに満たされる恵みのときだ。
先生はこのように語られた。
ーーー私たちの信仰生活は、つまりは自分がどれほどキリストに似た者になりたいと思っているのか、また、自分の周りに置かれている人たちにキリストに似た者になってほしいとどれほど本気で思っているのかによって動かされているーーー
先生が使った言葉を正確に覚えてはいないが、私たちの心が本当に願っていることが私たちの生き方を実際は決定づけているという趣旨で語られたと私は理解している。
「周りの人たちにキリストに似た者になってほしい」という熱心が私にあると言えるか...と心を刺された。
この2つの動機に関する黙想はセミナー後もずっと続いた。
自分自身について言うなら、私はキリストに似た者になりたいと切に願っていますと答えることができる。しかし、周りの人にも同様の目的をもって熱心に関わっているかと聞かれたら、うまく返事ができない。
ところがさらに考えていくと、他者に対する熱心がないならば、自分自身についても欺かれていると気づかされた。
なぜなら、イエス・キリストこそ、他者(私たち)が神と和解し、キリストに似た者になるためにご自身をささげたお方なのだから。
この2つの動機(切望)はセットなのだ。
私は主の前に悔い改めて、神様が望まれるように私を造り変えてくださいと恵みを乞うた。
方向転換を願い祈った後の歩みの中で明確にされてきたことがある。
それは、私の内にある保身と恐れ、自己中心の思い。
キリストに似た者に変えられることこそ、本当の幸せだと信じている。
私はキリストに似た者に変えられたいと思っていることは嘘ではない。
だけど、他者に対してもその方向で関わることはしたくないのだ。
なぜなら、割に合わない苦痛を味わうのが嫌だから...。
ここ数年で痛い失敗がいくつもあった。
聖書の価値観でその人の回復や成長また教会の益を自分なりに考えて、立ち入った話をしたり、悔い改めを促したりした結果、真意は伝わらず、関係がおかしくなり、悲しみが残っただけで良い成果がなかったというケースが続いた。
もちろん、私のアプローチが下手であったことは否定しない。
それも含めて、やりきれない気持ちを抱えた私の中で「他者の罪には触れない方がいい」という思考が根付いた。
そして、誰かの実情やニーズを理解しようと意識的に近づくことも、その人の心や行動の変化のために働きかけることも怖くなり意欲を失っていった。
私にはわからない。
うまく助けられないから、首を突っ込まない方がいい。
下手に関わって地雷を踏むのも嫌だし、もう虚しい悲しみはたくさん...。
だから、無難な態度を保つ。
毒にも薬にもならない“やさしい”言葉で応じる。
信仰者らしく向き合って真剣に成長を目指すよりも摩擦を避けようとする。
つまり「自分の快適安全が一番」というのが本音だ。
十字架の道には、やっぱり深入りしたくないという保身。
苦い体験を繰り返したくないという恐れ。
私は、キリストを愛するより自分を愛していて、他者を愛していない...。
しかし、
そう答えるしかない私に、
なお、主キリストが問いかけてくる。
わたしは十字架のキリスト。
わたしを愛するか?
わたしに似た者になりたいか?
わたしがあなたのそばに置いた人たちを愛しなさい。
【主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。私のすべてのそむきの罪から、私を助け出してください。】詩編39:7
愛に気づくキッカケ
私の夫は晩酌をする。
私が夜に外出し帰りが遅くなったある日、
私の帰宅に「おかえり〜」と応じてからほどなく、
「さぁ〜て、一杯やるか」
おもむろに冷蔵庫を開けてお酒に手を伸ばす夫。
...ん?
こういうこと、前にもあったなぁ...。
私は夫に尋ねた。
「もしかして、私が帰るのを待っていてくれたの?」
「いや、なんかあった時、飲んじゃってたら車で出動できないからさ」
さらりと答える夫。
胸がじ〜んとした。
これまで何度こういうことがあったのだろう...。
私が気づかなかっただけで、私の遅い時はいつだって、
「何かあったら駆けつけることができるように」と意識して、私の無事を確認するまでスタンバイしてくれているのだ。
そして、何事もなく出番がなければ、それが一番。
無事でよかった...と、リラックスモードになるのだ。
「あなたのために私はこんなにしていたんだよ!」とアピールもせずに...。
私を助け守るために陰ながら努力してくれている夫を、私は尊敬する。
我が夫ながら、こういうことができる男性って、頼もしくて素敵だな〜と思う。
私が心からの感謝と尊敬を言葉にすると、
「そんなことないよ〜」と夫は照れ笑い。
私の夫は口下手なのだ(笑)!
言葉ではない方法で表現されている夫の愛情に、私はもっと敏感に気づく妻でありたい。そして大いに喜び、感謝を伝える妻になりたい。
私はどんなにかあなたによって守られていることか...。
私の知らないところで注がれている愛がどれほどあるのだろう...。
まして、神様の恵みは、どれほど繊細で豊かに、私を24時間365日絶えず覆い支えていることだろう、と思わずにいられない。
何事もなければ、備えられていたことにも気づかない。
私たちは恵みに鈍感だ。
「失って初めて大切なものに気づく」とよく言われるのも、そのせいではないか。
心臓が正常に動いていても、保たれている恵みだと感動しない。
今日、太陽が規則正しく昇って沈むことに、愛の意図を見ることができない。
家族が無事に帰宅しても、神の守りに心を向けることがない。
たとえば明日、桜の枝に小さな新芽がついているのを見たら、
御名を呼んで、こう尋ねてみたらどうだろう。
「もしかして、神様、私に満開の桜を見せるために今から準備してくださっているのですか?」
きっと、神様との関係は親密になっていくと思う。
神様のさりげない愛に感動があふれ、賛美せずにいられない喜びに包まれるのではないか。
「もしかして、〜〜だったのは、主よ、あなたの愛による計らいですか?」
そんなふうに神様に近づくチャンスは私たちの生活の中に山ほどあるに違いない。
気づいた分だけ、きっと、幸せがふくらむ。
あらゆるものを通して惜しみなく愛を注いでおられる主、
栄光の御名が賛美されますように!
【天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。】マタイの福音書5章