自分は何者なのか
毎週の礼拝は私の喜びだ。
これは本当に恵まれたことだと思う。
もちろん、疲れていたり、調子が悪い日もある。
でも、私は知っている。
心を主に向けて賛美をささげ、聖書のメッセージを受け取ることで、自分が健やかになること、考えが軌道修正されたり、心に希望や感謝や知恵が与えられて新たな決意が導かれることを...。
聖書が正しく解き明かされ、私たちの生活や心の変化につながる恵みの真理を教えられる教会、信仰生活の中心軸としての礼拝に喜んで集える幸いを、当たり前でない恵みとして年々ますます感謝している。
愛情と手間ひまをかけてよく準備された健康的なおいしい食卓で育てられる子どものようだ。
クリスチャンでもみながそうとは限らないことを私は知っている。
だからこそ、恵み慣れしてはいけないと思うし、恵まれていることに感謝し、恵みを分かち合うために恵まれているのだと考えるようになった。
今週はアイデンティティーについて特に教えられた。
アイデンティティーとは、自分をどんなものだと言うか、自己認識、といえるような言葉。
『私たちが神の子どもと呼ばれるために、---事実、いま私たちは神の子どもです---御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。』ヨハネの手紙第一3章
「神の子」というアイデンティティーを確信することから変化は始まる。
アイデンティティーは、その人の生き方、人格、態度や言動の土台となる。
どんなアイデンティティーを持っているかで、最終的には人生が左右されていくことになる...。
メッセージを聞いて、私は自分の中にある自己認識を考えてみた。
最近では自己紹介する場面があれば、
「私はクリスチャンです。毎週、教会の礼拝に通っています。」と言う。
反応が良くても悪くても、この点を抜きに私という人物はもはや語れない。
もっと言うなら、心にある自己認識は、「神の子」「キリストのしもべ」という肩書きで自分自身をとらえていて、感謝したり、勇気を出したり、慰められたり、安心や希望を得たりしている者なのだ。
いつからだろう?
バプテスマ(洗礼)を受けてすぐでないことは確かだ。
最初は、聖書から教えられることよりも、自分にしみこんだそれまでの思考が私を動かしていた。
信仰を持つ前のアイデンティティーを思い返すと...、
「不幸な運命に生まれた者」
「必要とされない者」
特別頭がいいわけでもなく、スポーツも音楽もできない「なんの取り柄もない者」
つまり、自分自身を「価値がない者」「幸せになれない者」と見ていた。
これは必ずしも現実そのものではなかった。
友達にも恵まれて、活動的な生活をしていたのだから。
とにかく現在がどうであろうとも、自分自身がそのアイデンティティーを握って手離そうとせず、堅く信じていたのだと今ならわかる。
そのアイデンティティーは、結婚生活にも信仰生活にもかなり影響を及ぼした。
「クリスチャンになっても運命は変わらない」
「自分はダメクリスチャンだ」
何度つぶやいたことか...。
しかし...
そんな私でも、確かに変えられてきた...。
何によってか。
聖書を繰り返し学ぶことによってだと思う。
自分がどう感じるか、誰がどう言ったかではなくて、
聖書が語っていることこそ真実だと、御言葉を握るように導かれてきた。
良いことができているとか、正しいことができないとか、私たちの行いによって、神の子になったり、神の子リストから消されたりするようなことは決してない。
誰かとの比較でもない。
キリストが成してくださったことのゆえに、ただ恵みによって、
私は神の子とされた!
何があっても、何がなくても、その事実は決して変わらない。
私が正しい者でないことを私以上にいや完全に100%見抜いておられるお方が、私を愛してご自身の子とすると決め、キリストを与えて救いを実行してくださった。
この福音を何度も聞かされ、理解を深め、味わい、神様と祈りによってお話して、聖書を神のことばとして読み続け、少しずつ自分を御言葉に合わせてきた。
そうして、私のアイデンティティーは変化してきたのだと思う。
願うようにいかない悲しみや自分の罪深さに直面しながら、御霊に助けられて聖書のことばに信頼を置くようになり、キリストだけを望みとする心が芽生え始めた。
時間がかかったものだ...。
バプテスマを受けてから20年になる。
しかし、早さが重要なのではないだろう。
表面ではなくて本質的な変化、確かなアイデンティティーが重要だ。
私はようやく、自分に確かな明るい未来を描いて生きるようになりつつある...。
生涯現役
「あなたは現役ですか」
...と質問されたら、
あなたは何をイメージし、
どう答えますか?
現役であり続けたいですか?
スキージャンプの葛西紀明選手は45歳にして現役、さらに8度目のオリンピック代表も決まり、レジェンドと呼ばれている。
現役であり続けることの尊さ、年を重ねても勝ち続けることの難しさを誰もが知っているからこそ、期待と称賛の的だ。
華々しい注目の陰で、どれほどの地道で過酷な努力を継続しているのだろうと尊敬する。
聖書では私たちの人生を長距離走として語っている箇所がいくつもある。
『私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。』ヘブル人への手紙12章より
この聖書箇所を読むと、私たちの前には走り続けるべき競争のコースが置かれていることがわかる。
地上に命のある限り、私たちはこのレースにおいて生涯現役と言える者であるし、クリスチャンはいつでもそう認識しているべきなのだろう。
このレースでは、他者との比較やタイムの早さが重要なのではなく、むしろ忍耐をもって完走することに強調があると思われる。
目の前にどんなコースが展開しようとも走り続けるための秘訣は、イエスさまから目を離さないこと。
先日、ハーベストタイムミニストリーの東京定例会に参加する機会があった。
その礼拝で中川健一先生のメッセージで解き明かされたのがヘブル12章で、ちょうど今の聖書箇所についても語られて、とても恵まれた。
特に、信仰の創始者であり完成者であるイエスさまが完走されたコースを具体的に黙想させられて胸が熱くなった。
「イエス様が走られたコースは、まず天からベツレヘムです。この距離どれだけありますか?」と中川先生はおっしゃいました。
そんな視点で考えたこともなかったけど、気の遠くなるほどの距離...。
「物理的な距離だけでなく、霊的な意味ではどのくらいのギャップを越えてくださったと思いますか」と問いかけは続きました。
メッセージを聞きながら、なにか胸がしめつけられるような気持ちで思いめぐらし、次の御言葉が心に浮かびました。
『キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。』ピリピ人への手紙2章
イエスさまの完走されたコースは、下へ下へとご自分を徹底的に低くされる道であり、人に神の愛を100%に示す生き方でした。
完全な愛と義の方が罪人として十字架で処罰され、神の怒りの杯を飲み干し、復活され救いの道を切り開いて、最後の最後に天に昇って栄光の座に着かれました。
「イエスさまから目を離さないでいる」って、こういうことか...と私は感動しました。
感謝と喜び、賛美の思いとこのお方に従って行きたいという勇気が心の底からわきあがってきました。
イエスさまの姿を聖書から学び、正しく理解を深め、具体的に考え、黙想し続けることは、確かに信仰のレースを走り続ける力です。
天には、既に完走した勇敢な信仰のレジェンドたちがたくさんいます。
私には、私の前に置かれたレースがある。
あなたには、あなたの前に置かれたレースがある。
そのコースは全然違うものでしょう。
比較できるものでもないし、比較するものでもないでしょう。
だけど、
「イエスさまを見つめよう。イエスさまをもっと知っていこう。」
と励まし合いながら、共に走ることができるはずです。
イエスさまを信じたけど、期待した人生と違う?
信仰生活が思うようにいかなくて苦しい?
私はそういう思いで悩んだ時期が長くありました。
悩むのも無理ない状況があるとしても、引退しないでほしいのです。
大変でもとにかくがんばれ...と言いたいのではありません。
立ち止まってもいい、ゆっくりでもいい、イエスさまにフォーカスを合わせて、イエスさまを知ることを求めながら、生涯現役で完走を目指しましょう。
何歳になってもどんな状態であっても、私たちにはそれぞれ神様が備えてくださった競技コースを走り続けるという使命があり、栄冠の時への希望を抱いて生きることができる。
体の衰えを実感している昨今、私はこの真理に深い慰めと励ましを抱きます。
私は生涯現役です!
走り続けてほんとうによかった...そう言う歓喜の日を信じて...。
イエスさまから目を離さないで、ピントを合わせて、フォーカスをしぼって、
よく見えないなら学びを求めて、助けを祈って、一歩一歩...。
止まってもまた走り続けよう
新年おめでとうございます!
半年ぶりにブログ再開。
長いこと更新しないまま過ごしてしまいましたが、それでもブログを訪ねてくださる方々がたくさんいて本当にありがたいことです。
2018年、神様が成してくださることに期待と信頼をもって歩みます。
あらためて、よろしくお願いいたします。
お正月は箱根駅伝を毎年楽しみに見ている。
一人一人が自分に委ねられた領域で最善を尽くし、選び抜かれた選手たちが裏表さまざまに連携しつつ監督の指揮の元にチームの勝利を目指す。
単純な私は、どの選手を見ていても感動する。
そして、必ず思い浮かべる聖書の言葉がある。
『兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。
ただ、この一事に励んでいます。
すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、
目標を目指して一心に走っているのです。』ピリピ3章より
四連覇を達成した青山学院大学は本当に見事だった。
中継中に解説者が発したコメントが印象的だった。
「青山の選手には悲壮感がないんですよね」
大きなプレッシャーと高いハードルを前に、365日ずっと努力を重ねた選手たちだ。
自分自身の限界を越えんばかりに思考と身体の総力を尽くして鍛錬し、一心に走っている。
結果ははっきりと数字で判明する。
苦しくないはずがない。
つらいことが多いに決まっている。
心の格闘も測り知れない。
だけど確かに、
「悲壮感がない」という言葉がぴったりくるチームだ。
監督のチームづくりによるところなのだろう...。
クリスチャンである私たちも目標を目指して与えられたレースを走っている者だと聖書は教えている。
ただし、私たちのゴールは地上にはない。
沿道で大勢が応援してくれるような花道もないだろう。
みなに注目されるわけでもないし、走っている姿も華々しく見えるとは限らない。
人生の折々に何が起きようとも、すべて通過点ということになる。
この競技コースは王者になるためのものではなく、キリストに倣って自らしもべとして生きることを目指す。
完走の鍵は、自信ではなくて、召してくださった主への信頼。
周りの人たちは群れをなして反対方向に走っていくかもしれないし、私たちの価値観は誤解されるかもしれない。
そんなレース、よくやるね。
堅苦しくて大変そう。
まじめだなぁ。
お人好し。
変わり者。
クリスチャンはそんな印象を持たれることがあると思うけど、
もしかしたら、私たちの走る姿に悲壮感は漂っていないだろうか...。
そんなことを思った。
キリストを愛して従う者の人生は、確かにしんどいレースという面はある。
しかし、主にあって勝利を確信し、希望と喜びをもって持ちうる全力を使って走り切ることができるはず。
失敗したり倒れたり、何かのアクシデントに見舞われたとしても決して絶望せずに、時が来たら立ち上がり、希望をもって何度でも再出発できるはず。
キリストが共にいてくださるから...。
主が祝福を約束してくださっているから...。
クリスチャンとして人生を走るあなたに、いま悲壮感はありますか。
走る意味を見失い、ゴールへと導いてくださる主の約束を忘れ、私たちの力であるキリストとの交わりから離れてしまうなら、失望や悲壮感にとらわれても無理ない。
かつての私は教会に集いながらも、そういう傾向が強かったと思う。
その時期の信仰生活は義務感や仕事のようで、絶えず一喜一憂していた。
でも、私は聖書を学び続けて主にある喜びを知るようになり、
状況が良くても悪くても淡々と足を運ぶように変えられてきていると思う。
状況や自分自身を見つめて絶望することはもうない。
私はキリストを愛し、神のことばに心満たされて、主が備えてくださったコースをたゆまず走り続ける者になりたい。
このコースに召された仲間たちと励まし合いたい。
そして、キリストが待ってくださっているゴールに到達したい。
私はもっともっとイエス・キリストを知りたくて...、イエスさまにお会いする時を待ち望んでいる。
だから、やっぱり走り続ける。
弱り果ててはならない
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。
それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。
あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。
そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。
「わが子よ。
主の懲らしめを軽んじてはならない。
主に責められて弱り果ててはならない。
主はその愛する者を懲らしめ、
受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
訓練と思って耐え忍びなさい。
神はあたなを子として扱っておられるのです。
(ヘブル人への手紙12章より)
最近、この御言葉が私の心に語りかけ続けている。
日々の生活の中で繰り返し黙想している。
弱り果てるとはどういうことだろう?
懲らしめられているのだから、平気ではいられなくて当然だ。
苦しくつらい状況に追い込む懲らしめを与えていながら、弱り果てるな...とはどういうことか?
悲しくても笑顔でいなければならないのだろうか?
悩んで落ち込んだり、愚痴をこぼしたり、眠れなくなったり、食欲がなくなったり、うつむいて涙を流したり、人を遠ざけたくなったりしてはいけないということだろうか?
祈りが弱々しく、口が重く、言葉がたどたどしくなってはいけないのだろうか?
そんな強靭でびくともしない神経と肉体を持て...と神様は求めておられるのだろうか?
神様は、私たちの弱さをご存知だ...。
キリストは私たちの弱さに同情できない方ではないと書いてある。(ヘブル4章)
ならば、弱らされても、弱り果てない...とは?
いま私が思うこと。
それは自分の弱さや無力さは当たり前と受け入れつつも、恵み深い主の強さに信頼することはやめない態度。
主の御名を呼ぶことすらもできないと考えるほど、自分の弱さに身を委ねてはいけないということではないかと思う。
主の御名を呼ぶ力は、御霊によって常に私たちの内にあるのだから。
だから、それをあきらめるほど弱り果ててはならない...のではないか。
自分で自分を立て直すことができないこともある。
しかし、主は、懲らしめの目的を達成し、時がきたら、速やかに私を立たせることがおできになる。
私の弱さも、私を弱らせている問題も、主の前にあって決して致命的ではないという真理を意識的に思い起こすこと。
自分自身も自分の人生も、どなたのものなのか...。
私を引き受けてくださった主は、どのようなお方なのか...。
その真理を思い出し、その真理に希望を見出すなら、弱り果てる理由がないではないか...。
しばらくぶりにブログを書きました。
なかなか更新できない間も、主は私と共にいてくださり、私の歩みは支えられ、導かれ続けています。
信仰に立つのか、目の前の現実に反応し感情に身を任せるのか...。
私の心はつねに選択を迫られているような気持ちで揺れ動き、心の中の格闘で消耗し、アクティブなエネルギーが自分から失われていくのをどうにもできない。
そんな弱さの中を歩んでいます。
弱さの中ですが、だからこそ、私の弱さに主の強さがまぎれもなく働いていることを、むしろ豊かに体験させられているのも事実です。
それで、私は、弱りながらも、やっぱり主をたたえています。
私の望みは主キリスト...と告白して、満たされ賛美しているのです。
具体的なことは不特定多数の方々に分かち合うのが難しくて、リアルタイムで文章に公開できませんが、いつか、もしかしたら、主が機会を与えてくださって誰かの励ましや慰めのために用いてくださるかもしれないと日記に綴っています。
こう聖書に書いてあるからです。
私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。
こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。(第二コリント1章)
一ヶ月以上も更新されなくても、それでもこのブログを開いてくださる方々がたくさんいて、申し訳なく、また本当にありがたく、皆さんの存在を通しても、私は主の恵みを思って慰められています。
このブログを読んでくださっているあなたに、また祈ってくださっているあなたに、心から感謝します。
主の恵みは尽きることがないので、細々とでも分かち合いのブログを続けていきたいです。お祈りいただけたら嬉しいです。
大勢が選ぶ道なら安心?
ロープウェイもあるので初心者でも楽しめる山だ。
早朝に自宅を出発して日帰り計画。
快晴無風の好天に恵まれた登山日和だった。
安達太良山は紅葉シーズンが最高で以前登っているが、ゴールデンウィークは初めて。
私たち夫婦は初めて残雪の登山を体験した。
道は認識できない。
木々の根元が埋まっている様子から恐らく雪が1メートル以上は積もっていると見える。所々雪が溶けてぽっかり穴があき、その雪の下を雪解け水が流れている。
美しい!
楽しい!
でも、もし悪天候なら怖くて歩けないな〜と思いながら、ストックを使ってシャーベット状になった雪の上をザクザクと足を進める。
ルートは木々の枝に目立つ蛍光ピンクのリボンが結んであって、それを目印に辿っていく。周りに他の登山客がたくさんいるし、空は真っ青に澄んで気温も暖かいから大丈夫!
休憩しても登山者の流れから大きく離れないようにしながら、私たちは今年初の山を楽しんでいた。
ところが、向こうに山頂が見え隠れするあたりまで来て、ハプニングが起きた。
私たちの前を進んでいた登山グループ(全員がグループかわからないけど)が立ち止まり、ざわついている。
止まっている人たちを追い抜いて私たちが進むと、先頭あたりをリードしていた男性2、3人がスマホや地図を見ながら「この道じゃまずいな」とか、「どこから外れたんだ?」とか相談している。
私は急に不安になった。
確かに、回りにピンクのリボンは見当たらない。
この先には雪の上に人の歩いた跡はあるにはあるけど、極端に少ない。
私の夫も立ち止まり、何か考えている様子。
私は、何やら相談し自分のグループの人たちに声をかけて回っている男性の一人に声をかけた。
「この道は間違っているんですか?」
「メインの登山道から外れているから、山頂には行けると思いますが、えらく遠回りしている感じですね。いや〜、ベテランでもこういう間違いがあるってことで...」
と照れ笑いして、来た道を戻って行く。
その人についていくように、周りで休んでいた人たちもブツブツつぶやきながら、足取り重くゾロゾロと引き返して行ってしまった。
もう周りに他の登山者はいなくなる。
私も足の向きを変えながら夫に言った。
「私たちもあの人たちに付いて戻ろう。あの登山ガイドみたいな人が遠回りだって言ってたよ」
「あの人、本当に登山ガイドなの?」
「ガイドかはわからないけど、自分のことをベテランって言ってたよ」
「ふーん」
夫は何か考えている...。
「どこから外れたんだろう。ピンクのリボンを確認しながら登ってきたんだけどな...」
その時、私は気づいた。
私は何も考えずに大勢の人が進む方向に流れながら自然を楽しんでいたけど、夫は自分で考えて前回登ったルートと確認しながら、それなりに夫婦登山のリーダーとして責任をもって歩いていたのだ。
夫も私も登山のベテランなどではない。
だから、私たちが登る山は、難しくない日帰りコースを夫なりに調べてくれている。
ありがたいな、頼もしいな、と改めて感謝した。
とはいえ、私は黙って夫の判断を待ちながらも、心の中では相変わらず焦っていて、「あの引き返した人たちが見えなくなる前に、私たちも戻ろうよ」と思っていた。
夫は意を決したように「やっぱり、このまま上に行ってみよう」と足を踏み出した。
私は「ホントに?」と一言だけ確認したけど、夫に従って行こうと心を定めた。
人ひとりがやっと通るような狭い獣道のような所を低木をかき分けて進む。
黙々と足を進めているけど、夫の背中を見つめながら私の心はお祈りモード全開だ。
もしどんどん道が怪しくなるなら、引き返す判断を夫がしますように...
夫が引き返すと言ったとき、ぶつぶつ言ったりせず、気持ちよく従えますように...
もし山頂が遠くになっても、時間がすごくかかっても、最後まで夫婦登山を楽しみ、安全に下山できますように...
私はあなたに信頼して、夫に従います。私の夫を助け導いてください。
晴天が守られていることを感謝します。遭難しませんように...
そうしているうちに、ピンクのリボンを発見!
なんと、私たちはあっさりメインの登山道に合流した。
私は、神様に感謝して祈り、夫に尋ねた。
「どうして、この道で大丈夫って思ったの?」
「先に登っていた人が戻って来なかったからさ」
夫は私の知らない判断材料で考えていて、決して直感とか無謀な意地で決めているわけではないと、ここでも気づかされた。
夫への尊敬をこめて、感謝の褒め言葉を贈った。
引き返した登山グループは山頂で私たちの後から無事追いついてきた。
私自身は、色々と自分自身を振り返って聖書の言葉を思いめぐらす出来事となった。
主に信頼して夫に従う...という聖書原則に心を定めていることの守りと平安。
あと、大勢が行く道や、わかっているように語る人だからといって、正しいとは限らないこと。
自分自身が主体的に判断する意識を持ち、判断の基準を持っていないと、知らないうちになんとなく多数派に流されてしまう私なんだなぁ〜とも再認識した。
(もちろん、山は山なので霊的原則と同じでないし、山の安全知識は不可欠です!)
とはいえ、一つの御言葉がこの体験と結びついて心に刻まれたのでした。
【狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。】マタイの福音書7章より
悔い改めに導いてくださる神
日曜日の朝の出来事。
駐車場からチャペルまで行く歩道の隅に空き缶が転がっているのが目に入った。
鮮やかなブルーと白の模様に泥がべったりついたカルピスの缶。
通り過ぎた瞬間、その空き缶が強烈に気になった。
拾いに戻ろう...
いや、ま、いっか...
でも、やっぱり拾った方がいい...
躊躇しているうちにチャペルの玄関に着いた。
戻ったとしても1分もかからない。
神様は私に拾うように促しておられるような気持ちがしていた。
しかし、私は戻らなかった。
申し訳程度に、玄関横に落ちていた紙くずを拾って中に入った。
これでチャラだ...と思ったわけではないが、
私には受付の用意があるから仕方ない、と気持ちを切り替えた。
ほどなく、牧師先生が玄関から入ってこられた。
その手には、あのカルピスの空き缶が握られていた。
先生は、私と挨拶を交わして通り過ぎるとキッチンに入り、空き缶を洗って捨てて何事もなかったように出てこられた。
私の心はうなだれ、自分をひどく恥じた。
御言葉が心に響く...。
【あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。】ルカ22章
神様が私に語っているように思われた。
「わたしの宮にふさわしくない空き缶を、わたしはあなたに拾わせようとしたが、あなたがそれをしなかったので、わたしはわたしに忠実な他のしもべに拾わせた。
彼はわたしとわたしの教会を愛しているから。
手にあった空き缶を見たか。
あなたがやらなくても、わたしの目的は成し遂げられる。
しかしわたしは、あなたに拾わせたかったのだ...。」
主の前でできる言い訳などあるはずがない。
私は気づいていたし、拾おうとさせる促しを心にいただいていたのに、自らの意志でそれを無視した。
その結果、あろうことか、牧師先生に拾わせることになろうとは...。
面倒くさかったのか、汚くて触りたくなかったのか、はっきりとした理由すらわからない。いずれにしても、私は拾うことを躊躇し、戻ることを拒んだ。
自分のしたことを、主は、はっきりと私にわからせてくださった。
主を礼拝するその喜びの朝に、この私自身が主の前にかたくなな心で歩んだことを知らされて心を打ち砕かれた。
私は自分自身を悲しみながら心の中で祈った。
「神様、赦してください。
あなたの御心に背いて、自分のペースを変えようとしなかった私の罪をあなたはご存知です。
私をあわれんでください。
次は私が拾います。
あなたのさらなる恵みによって、私に拾わせてください。
私も、あなたとあなたの教会を愛しています。
聖霊の促しを敏感に悟り、すぐさま応答する忠実なしもべに私を変えてください。」
汚れた空き缶一つに躊躇していて、どうして罪人の魂に仕えることができよう。
「御心に従います。私を用いてください。」と祈っている私を、主は試される。
失格にするために試すのではないのだ。
失敗しては砕かれ、恵みによって悔い改めに導かれ、実践で練られ、誰も知らない所であっても真心から御心に従う神の手足となるために、主は日々私に働きかけてくださる。
神の愛、特別な霊的祝福...。
私はそう信じて疑わない。
私はいつも主キリストの内にあり、一日一日、主が共に歩んでくださる!
私を絶えず導いてくださる恵みの神様。
私はキリストの血潮によりあなたのものとされました。
私はしあわせな者です。
あなたを愛し、御言葉を慕い求めます。
あなたにお従いします。
私を整えて用いてください。
私たちの教会に与えられた御言葉に生きる牧師を心から感謝いたします。
あなたの聖なるご性質が教会を通して表され、御名が賛美されますように!
【わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。】ヨハネ10章
幸せは心のメンテナンスから
初めて肉眼ではっきりとウグイスを見た。
なんだかとっても嬉しかった...。
木々の茂る道を歩いていたとき、すぐ頭上であの美しい鳴き声が聞こえたので見上げて目をこらすと、小さな薄緑色の鳥がホーホケキョと喉をふるわせる姿を見せてくれた。
真っ青な空に新緑の緑、鳥のさえずり。
満開を過ぎて山桜の花びらがやさしく風に舞い散っている。
ゆったりした時間、平和な空間、穏やかな心...。
この幸いに感謝せずにいられようか。
美しいものを美しいと思えること。
小鳥の歌声に立ち止まるゆとりがあること。
私たちの周りに満ちあふれている創造主なる神の恵みに気づくこと。
自然との関係を楽しみ、感謝できること。
自分の心が曇って心配事や不満でいっぱいだったら、見えるものも見えない。
同じ恵みに囲まれていても、手の届く幸いがあっても、気づかないなら受け取ることもできない。
気持ちにゆとりがあるか。
心が澄んでいるか。
あたたかい光が心にあるか。
とっても大事だ。
体が汚れたらお風呂に入ればすっきりする。
では、心が曇って息苦しいとき、どうするか。
嫌な感情がぐるぐる悪循環して頭がいっぱいになっていたら、どうするか。
私は、救い主イエス様のところへ向かう。
重くなっている心を認めて主の御名を呼ぶ。
あれこれ、心に渦巻いている醜い思いや罪悪感を引き起こしている事柄、悲しい気持ち、心配事、一つ一つお話する...。
正直に、具体的に告白する。
できれば声に出す方がいい。
イエス・キリストのあがないが私のためであることを信じ、完全な赦しを受け取る。
私をきよめ、慰め、力づけ、変えることができる神の力を信じて告白する。
救いの恵みを感謝し、キリストをたたえる。
この繰り返しが私の日常だ。
キリストのいのちが私を何度でも瑞々しくしてくれる。
ご自身の恵みできよめてくださるお方、主の御名があがめられますように!
【神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。】ヤコブの手紙4章
【もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。】ヨハネの手紙第一1章