変えられないもの、変えられるもの
神よ、私にお与えください。
変えられないものについて、
それを受け入れられるような心の平安を。 変えられるものについて、
それを変えるだけの勇気を。
そして、その二つを見分けられる知恵を。
翻訳は色々あるが、アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーが作者だとされていて一般に「ニーバーの祈り」と言われているものだ。
私たち一人ひとりは、みな、「変えられないもの」と「変えられるもの」の両方を持っている。
前回の記事に書いた「自分のほんとうの価値を知る」ということが希薄であるほど、私たちは「変えられないもの」「変えなくてもよいもの」を拒絶して、変えなければならないと思い込みやすいのかもしれない。
この祈りは3つのものを求めている。
1つ、変えられないものは受け入れる心の平安。
どうせ変えられないという投げやりや失望とは違う、肯定的な受容の心だ。
2つ、変えられるものを変えるための勇気。
変化を生み出していくのは大変なことだ。
時間やエネルギーを費やし、心を注がないとできない。
変わろうとす るからこそ、それまでの性質との摩擦が起きたり抵抗も起きる。
場合によっては争いが起きる。
ニーバーが「勇気」を求めているのが興味深い。
しかし、その的を得た2つの願いすらも、3つ目がなかったら空しい。
最後の1つ、変えられないものと変えられるものを見分ける識別力とでも言おうか。
「その二つを見分ける知恵を与えてください」と祈らずにいられない複雑で困難な現実が私たちにはあり、この見分けがうまくいかないことが私たちの生きる 苦しみをさらに増し加えているのではないかと思う。
自分が変わりたいと思う部分がそのまま、本当に変えるべき部分なのかどうか。
外見にしても内面にしても、自分の理想と現実が違うということは 常にある。
しかしそれが非現実的な願望であることも多いのではないか。
何にこだわって心と時間とエネルギーを注き、投資するのか。
そして、何 のために変わりたいのか。
これらはとても重要な問いなのに、感情がからんで冷静に判断ができないこともあるだろう。
信頼できる第三者のアドバ イスが有効とも言える。聞く耳があればの話だけど。
私自身は子供の頃からセルフイメージが低くて、理想と違う自分の現実を嫌悪しながらもストイックなほどに努力した ことがない。
誰かの言葉や何かの出来事をきっかけに奮起して頑張ってみてもほどなく挫折し、意志の弱い自分への嘆きとともに終わる、というのを繰り返してきた。
「飽きっぽい性格」と親からもよく指摘されて、その度にふてくされた。
そうやって性格のせい、運命のせい、周りの せいにしてきたように思うけど、本当はやはり楽な方に流れてきただけだと思う。
自分は良くならないと心の奥底で信じていたのだと思う。
ア スリートでも研究者でも、ビジネスパーソンでも成長し続ける人は高い目的意識をもって苦しいのは当然としながら自己変革に取り組み続ける 人がいるのを知っている。
その事実が立派すぎて、ますます自分には無理だと確信する。
そういうの、私だけじゃないんじゃないかなぁ。
とにかく怠惰で凡人の私は、変わらないことの方がやっぱり楽で「どうしても 変えられない」と言いながら、本当は変えようとしていないことが多かった、と今は普通に認めることができる。
変えることのできないものへの拒否反応を解消しようとして挫折を繰り返していたことも色々思い当たる。
現状への不満や不安を抱え、変われない自分を心では責め、変われない言い訳を繰り返し、変わろうとしない自分を正当化してごまかすパターン。
前記事の言葉を使うなら、これもまた「自分から逃げている」と言うことかもしれない。
自分から逃げているうちは解決はない。
方向転換が必要なのだ。
あなたは自分の何を変えたいと思いますか。
なぜ、それを変えたいのですか。
向上心や努力は素晴らしいものです。
それが身についている人は幸いでしょう。
しかし私たちは、変えられないものにいつまでも固執して格闘し、本当は変え られるはずのものをあきらめていたり、限りある時間とエネルギーを自分を生かさない方向で空しく浪費していることもあるかもしれない。
自分のほんとうの価値を知ることは、ここでも重要な意味をもってくるように私は思うのです。
私は聖書を学びながら、変わらなくてもよいという新しい理解に導かれることがたくさんあります。
また同時に、変わっていきたい、変えていくべきだと決意し、必ず変わっていけると信じて継続的に取り組むように導かれることもあります。
もちろん理想と現実のギャップに苦しむことから完全に解放されたわけではありません。
でも、確実に自由になり、喜びと希望をもって、自分自身や人間関係の変化を見ています。
聖書というと古くて堅苦しいイメージがあるかもしれない。
しかし私は、聖書を教えてもらうのが本当に楽しい。
一人 でも多くの人にまず聖書が語っていることに耳を傾けてほしいと切に願わずにいられない。
だって聖書は、いつの時代の誰の人生にも大いに関係がある知恵のことばなのだから。