弱さの中の強さ
初めて喘息になった。
病院受診した時は風邪だと勝手に思っていたが、診断の 通り風邪とは明らかに違う咳き込みと胸の苦しさの症状が一晩ごとにひどくなっていった。
食欲が落ち、数日もすると体力が弱っているのがはっきりわかった。
活動を減らして休んでいると、具合の悪さだけでなく思うようにならない自分に気持ちが沈み、考え方までもうじうじした悪循環に陥っていく感触を覚える。
弱るってこういうことなんだな~と改めて思う。
病気だけでなく、誰でも何かしらの領域で自分にある弱さというものを意識したことがあるのではないか。
その克服を 目標にしたこともあるのではないか。
ちなみに、聖書は弱さを否定していない。
私たち人間に弱さがあるのを大前提としている。
むしろ、自分自身や他者の弱さを正しく知ることを 大切に教えている。
しかし私たちの傾向としては、弱さは悪いものと即反応してしまいやすい。
苦しくしたり、不自由になったり、失敗を招いたりする原因と思うからだろう。
そこにある弱さをなんとかしなければと考え、それを追い出すべく戦って疲労し、克服しきれない敗北感で悪循環に陥ることも多いような気がする。
そう考えると、弱さの存在感は実に大きい。
普通に機能している領域や良い面を見えなくするような力がある。
「弱さ」のくせに、感謝や喜びや活力を奪うほどの力を持っているなんて皮肉なもんだ。
とはいえ、弱さそのものの力というより、弱さに嫌な力を 与えてしまう私たちの思考パターンが問題なのではないか。
「こんなんじゃ全然ダメだ」「情けない」「早く解決しなければ」と自分を責めて、さらに弱さに意識がとらわれ、すべてにおいて良しと思えない状態になる。
私自身を振り返ると、まさにこういう傾向がある。
まじめな人ほど絶望感に苦しみやすいとは一般的に言われるところだ。
そして「弱いままでいいんだ」と自己受容、自 己肯定してあげましょうというのも一般的な処方箋ではないか。
一方、聖書では、このような処方箋が提示されている。
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたし の力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。・・・なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(第二コリント12章)
このセリフを語っている「主」とい うのは、神様であり、イエス・キリストである。
聖書を信じるクリスチャンは、「私が弱いときにこそ、私は強い」と言える人なのだ。
全く不思議な世界。
自分を見つめるなら、やっぱり自分の弱さが致命的に思えてしまう。
そういう印象に飲み込まれそうになる。
だけど、聖書がなんと言っているかを見つめると、全く違う理解に導かれる。
強がりでもなく、自己卑下でもなく、安心して上を向くことができる。
絶対的な強さを持っておられる方、神であるイエス様が私の救い主なのだから、この方の完全な強さと愛、そして信じる者への約束に信頼することに意識を向ける。
すると、この方の力強さが私の内側に注がれてくる。
この恵みは計り知れない。
聖書では、私たちに「弱るな」「強く雄々しくあれ」と命じている箇所も多い。
それは、神のことばである聖書にしっかり焦点を合わせ、神様の約束に本気で信頼するほどに「私たちの身に実現していく強さ」だと、私は思う。
そう信じている。
神様の約束に立つだけで、私の内にある弱さはその「嫌な力」をみるみる失っていく。
それどころか、感謝や喜びを引き立てる役目を担うようにさ えなるから不思議だ。