読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

聖書的「嫌われる勇気」

『嫌われる勇気』ダイヤモンド社)が世界で100万部を突破したそうだ。フロイトユングに並び三大巨頭と欧米で称される心理学者アルフレッド・アドラーによる心理学が日本でもブームを起こしている。

私などの理解力で書評するつもりなど毛頭ない。ただ、私が聖書の原則として理解し実践していることと重ねてみて、つながる部分もあると思ったので、何が同じで何が違うのか考えてみた。

「KY」という言葉が以前流行った。「空気が読めない奴」という意味で使うと知った時は、日本語の変貌ぶり?にかなり驚いた。これは「空気を読めよ」という暗黙のルールが前提となった言葉だろう。何のために空気を読むのか。

浮かないため。
空気を壊さないため。
嫌われないため。

空気という曖昧で変わりやすいものを読み続け、常にそれに適合していくことが前提の付き合いなんて、察することや足並みそろえることで和を保とうとする日本人らしいとも感じるけど、その文化的スキルをかなり身に着けたとしても不安定な関係に神経をすり減らすことだけは確かだろう。今でもKYって使われるのだろうか。

こういう暗黙のルールに縛られた生き方の反動が『嫌われる勇気』をブームにした背景かもしれない。

アドラー心理学では、「あらゆる悩みは対人関係の悩みである」と言い切っていて、人の評価をあなたの人生の基準にしないこと、それがすなわち「嫌われる勇気」なのだそうだ。

「あらゆる悩みは関係の悩み」「人生の基準」という2つの言葉にすぐ目が留まった。そのキーワードは聖書の学びによって既に私の中に刻まれていたものだから。

魚が水の中でこそ自由に泳ぐように人間にも存在本来のデザインがあって、人間は関係の中で生きる存在だということ を以前書いた(タイトル絆の回復 - 天国途上 〜生きること思うこと〜)。

だから関係が健全な状態でないなら、人間は地面に上げられた魚のように苦しく不自由になる。人間関係が悩みの種だからといって、人を避けて引きこもるとか無人島に一人で住めば安心で充実感にひたれるか。いや、ますます人間性が荒み、 孤独感で生きる意欲すら失っていくのではないか。

ちなみに、聖書の創世記という箇所には、最初の人間アダムが創造された記録があって、創造主なる神様ははっきりと「人が一人でいるのは良くない」と語っている。

話は変わるが、電子機器などには取扱説明書がある。使い方、諸注意、不具合が出た時にはどうしたらいいか、故障し たらどこへ相談したらいいか、そんなことが書いてあるもの。取扱説明書を作成しているのはその製品のメーカーだ。設計者であり製造元だからこそ、性能も仕組みも使用目的も弱点もわかっている。

では人間について、全てを正確に知り尽くし説明できる存在があるとしたら、設計者であり製造元にあたる創造主の他にあるだろうか。創造主である神のことば、つまり聖書こそが、人間の取扱説明書だと聞いたことがある。存在目的、不具合が出た時の対処法、そもそも人間とは何者なのか、どのようにするとベストパフォーマンスを発揮できるのか。私たちは誰しも、その答えを探しながら生きているのではないか。

人間が人間の頭で人間を分析して、様々に定義し説明ようとするのが、哲学や心理学であろう。それらを否定するつもりはない。歴史上の優れた学者たちの知恵や受け継がれた研究から受ける恩恵は非常に大きいと思う。

しかし、人間の考えである以上、それらは変わるものだし、相対する学説があったり多種多様なのは否めない。

「空気を読め」が重視されたり「嫌われる勇気」がブームになることを考えてもわかるように、考え方の選択肢は氾濫し、その中で人々が採用しようとする考え方もなんと変わりやすいものか。

時代や場所や人に よってコロコロ変わる原則が、私たちの人生の基準になり得るのか。

嫌われる勇気を実行して、「誰がなんと言おうと、オレはオレのやりたいようにやるんだ!それでいいんだ!嫌われたって平気さ!」という価値観で、みんなが自分のストレス解消を優先して行動したらどうなるのか。

その先に誰もが人間関係の悩みから解放 される幸いがあるだろうか。

周りの人の悩みが深くなるのではないか。

意気投合して親密になっても、気に入らなくなればすぐ避ける。

そんな希薄で自分本位な付き合いから、堅い信頼関係や愛の絆が生まれてくるはずがない。

『嫌われる勇気』が提唱しているように人の評価を基準にしてはならないと私も思う。しかし、自分が基準でもない。 ましてブームを基準にしたら大変だ。

人間に与えられた神のことばである聖書こそ、変わることのない真の基準と成り得ると私は信じている。 

面白いことに、聖書も確かに「嫌われる勇気」を教えている。神のことばに従って生きる時に「嫌われることがある」と明確に告げているのだ。

このことはまたいずれ書きたい。

空気よりも聖書を読み、嫌われる勇気を持って聖書を基準に生きるなら人生は変わり、心は自由になる。 

これが私の実践している生き方。


f:id:tengokutojou:20150613214630j:image