“愛情不足”への処方箋
「私と仕事と、どっちが大事なの!」
こんなセリフを言ったことのある女性、言われたことのある男性は、実際どのくらいいるのだろう。冷静に客観的に見るなら、この言葉がナンセンスであることはすぐわかる。
もし仮に友達がこんなふうに愚痴っていたら、「まぁ、落ちついて。あなたが大事だから仕事も頑張っているんでしょう」と穏やかに慰めることもできるだろう。
要するに寂しいのだ。
もっと一緒にいてほしい。
自分のことを見てほしい。
愛し合っていると実感できる時間を過ごしたい。
そういう満たされない気持ちが、残念ながら相手を責める言葉で飛び出してしまうのだ。ずっと我慢していたからこそ、爆発した時にはもはや事態を客観視することもできない。たとえ、感情的なセリフで相手をコントロールできたとしても、心から喜びを共有したり、ほんとうの幸福に満たされることはないだろうと思う。
私自身の新婚生活は、このような失敗の連続だったことを正直に告白する。
私たちは二年ほどの遠距離恋愛を経て結婚し、私は仕事を辞め、家族や友人からも離れて、新居となった地に引越してきた。夫だけが頼りだったことは事実だし、前記事にも書いたような生い立ちの事情もからんで、新しい地での出発に的外れな夢を抱いてしまったことも背景にあるかもしれない。
私が夫に突きつけたセリフは「私と音楽と、どっちが大事なの」だ。あぁ、今思い出しても、ひどいことをしたと胸が痛む。夫は音楽が大好きだ。私は楽器が全くできないし、音楽のこともわからない。夫はそんなこと全く気にしていないのに、私は音楽と音楽仲間に嫉妬し、夫をとられてしまうことを恐れたのだ。「楽器ができる人と結婚すれば良かったのに!」と心にもないことを言って、何度いじけて泣いたことか。
さらには、音楽でなくても夫が私以外のものに喜びを見出すことが耐えがたくなった。慣れない地での毎日は寂しく、 つまらなかった。夫はやっていたバンド活動から抜けた。心を決めて「音楽より妻が大事」ということを証明してくれた。
私の心は落ち着いたか?
むしろ自己嫌悪でますます不安定になった。私は夫の楽しみを奪った。夫の犠牲はわかっている。夫が心の中でこの結婚を後悔しているのではないかと疑心暗鬼になった。夫が疲れた顔をしていれば、それが仕事のせいであっても、私に不満があるからだろうと感じて、夫を労うどころか私まで不機嫌になった。
夫はよく忍耐し、私を元気づけようとしてくれた。しかし、それは砂漠にコップで水を注いで潤そうとするようなもので、その一時だけ喜んでもすぐ不満が生まれ、私の渇きはどんどん夫への要求に向かった。
もし、私がイエス・キリストに出会っていなかったら、夫がどんなに誠実を尽くして私を愛してくれたとしても、私の甘えは尽きることがなく、夫を傷つけ限界へと追い込み、私は自ら結婚生活を壊してしまっただろうと思う。そして、自分の歪んだアイデン ティティーをさらに強化して、空しく孤独な人生を自らに招いたことだろう。
まさに聖書が指摘している通りだ。
『知恵のある女は自分の家を建て、愚かな女は自分の手でこれをこわす。』(箴言14章)
私は、ぎりぎりのところでイエス・キリストに出会い、聖書の知恵に守られた。
その知恵は何を教えてくれたか。
夫は救い主ではないし、救い主になることもできない。夫に愛があるないの問題ではないのだ。ライフスタイルの問題でもないし、性格の不一致だとか、まして夫の趣味のせいなどではない。何より、夫に失望しなくてもいいのだ。
私を救うことができるのは、全能の神であるイエス・キリストだけ。そして、私は、救い主を必要としている、どうしようもない絶望的な罪人だと いう事実。その事実を知らないで、自分の欲望に翻弄されていることが問題だったのだ。
自分のことしか考えられない者に、本当の安らぎや、真実な愛の実りなどあるはずがない。絶望的な自分が、自分で自分を救うことも不可能だ。
しかし、イエス・キリストはそんな私を完全に救うことができる、と聖書は語る。
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。』
マタイの福音書というところに書かれているイエス様の言葉だ。
解決の鍵は、イエス様のところへ行くこと。
イエス様のもとで休むこと。
そしてイエス様とつながってイエス様から学ぶことだ。
そうすれば、心の奥から安らぎに満たされ、安定することができる。
確かに、私たちは他者の愛、豊かな人間関係を必要とする存在だ。しかし、誰かの人生を丸ごと引き受けて完全に満たすことができる人間などいない。優しくしてくれる人だからといって、人に救ってもらおうとするなら、その関係は必ずつぶれてしまう。寄りかかるほど限界が見えるだろう。
聖書が教えている「愛し合う人間関係」はイエス・キリスト中心の関係だ。
イエス様に支えられているからこそ、他者を愛することができる。私はイエス様に支えられ、イエス様から愛することを学び続けている。
そして、いまが 一番、夫を愛していると思う。