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天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

愛されて愛する

神様との絆が人間関係に影響することは以前書いた(絆の回復 - 天国途上 〜生きること思うこと〜)。 

 
また前記事(愛の確かめ方 - 天国途上 〜生きること思うこと〜)では、キリストの十字架によって神様の愛を確かめると、私たちはそれを無視することなどできないし、むしろ精一杯の愛の告白をもっ て応答するようになっていくことに触れた。
 
聖書のことばを見てみよう。

『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされ ました。ここに愛があるのです。
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たち もまた互いに愛し合うべきです。』ヨハネの手紙第一4章
 
私のつたない解説を加えると、私たちから神を愛したわけではないことがわかる。
神様の方から「神を愛していない私たちを愛した」ということだ。
 
そして、その神の愛が何に表れたかというと、「私たちの身に降りかかる罪の裁きを帳消しにするために、神の御子であるキリストを身代わりに十字架で処分した」という出来事であり、それが「なだめの供え物」の意味するところと言っていいと思う。
 
これを自分のこととして理解し信じた人にとっては、イエス様の十字架は「自分のため」「私自身の身代わり」ということになり、イエス様はその人の救い主になる。その人は、神様のあり得ない愛の真実を確かめ続けることができる。
 
このように神様との絆を回復した人は、「私は幸せ」という自己満足だけでは終わらない。上の聖句にあるとおり、人間同士でも「互いに愛し合う」という生き方に押し出されていく。
 
「神がこれほどまでに愛してくださったのなら」という箇所に注目してほしい。
 
あくまで「自分が神によってどれほど愛されたか」を味わい知ることが愛し合う生き方の出発点であり、動機であり、原動力だ。
 
尽きることのない十字架の愛を原動力にしているなら、私たちの愛も枯渇することはない。
 
傷つき疲れることはあっても、主イエスさまのもとで充電し、 再び愛し合うことにチャレンジしていくことができるだろう。
 
「愛し合う」という響きは美しい。恋愛だけに限らず「ほんとうに大切にし合う関係」と言い換えることもできる。愛し合う関係を望まない人はほとんどいないだろう。
 
ただし、私たちのイメージは無意識のうちに「愛されること」に重点があり、「愛してくれ る人と愛し合う」あるいは「愛したい人と愛し合う」という世界を望んでいる傾向があるように思う。
 
だから、相手の愛が減ったと感じている と、こちらもあまり愛せなくなってくる。好みでない部分が増えてくれば愛するのが嫌になる。愛してあげるばっかりでは不当だと感じて、相手にも要求するか、こちらもテキトーになっていく。夫婦や恋人なら、これをマンネリと言ったり、心変わりと言ったりするのかもしれない。
 
先ほどの聖句にあった神様の愛を思い出してほしい。
 
神様の愛は、自分から先に愛する愛だ。
愛してくれない相手を愛する愛。
自分がより多く愛する愛。
自分の気分次第でもなければ、相手次第でもない。
 
そういう愛で愛されるぶんにはたいへん結構なのだけれども、そのように愛せるかといえば、これは非常に難しい。正直、無理だと感じてしまう。そんなことしたくないと考える自分との戦いだ。愛せなくても仕方ないでしょ、と言える理由を頭の中で数えてしまう。
 
聖書には、イエス様のこんなセリフも記録されている。
 
『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。』ヨハネ福音書15章
 
「わたし」はイエス様だ。
「あなたがた」とは、直接的にはイエス様の弟子たちだけれども、イエス様を信じる私にも語られた命令だと私は信じている。
 
ここでも私が注目するのは「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉。
 
神であるイエス様がご自身の地上生涯を通して具体的に示された愛の模範に倣うことが教えられていると思う。やはり出発点はイエス様の愛を味わい知ることだ。
 
エス様の愛に押し出されて、周りの人を愛するようになっていくという順番。
 
エス様の愛がよくわからないまま、 自分の頑張りだけで神様の愛のまね事をしようとしたら大変だ。
すぐボロが出るし、まず続かない。
期待したほどの見返りがないなら不満や苛立ちが生じる。
疲れて喜びもない。
本音と建前、あるいは頑張っている時とやる気のない時とで二面性を持つ生活になり、被害者意識と劣等感 に苦しむ。
 
こういう失敗体験を私自身よく知っている。
 
一人ひとりに見えない愛情タンクのようなものがあるとするなら、自分自身の愛情タンクに十分な燃料がないのに誰かに愛を与えるのは難しい。愛が足りないとガス欠症状を起こして、愛するどころか不平不満をまき散らしてしまう。
 
やはり出発点が大事だと言えるのではないか。
 
神様からの愛でまず自分の愛情タンクを日々満たしていただくこと。
 
これが最優先であり、良好な人間関係のためにも最善策だと私は思う。何より、それは、神様の命令が意図していることだと信じている。
 
感情に左右される自分、真実に愛することができない失敗だらけの自分にフォーカスするのをやめて、こんな自分をなおも愛し続けてくださる神様の愛にフォーカスする。
 
私のための十字架を仰ぎ見る。
 
神様の元で愛を確かめて、神様に助けを祈り求め、そこからまた出発する。
 
これが私にとっての天国途上、喜びのクリスチャンライフだ。
 
 
 
 
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