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天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

意識的に愛する生き方

「愛の反対は、怒りや憎しみではなく、無関心である」と聞いたことがある。

無関心に明確な悪意はない。無関心は自覚のない無視と言えるかもしれない。無視しているという自覚すらできないほどに、相手が目に入っていないのが無関心。私たちの自己中心や鈍感さの表れでもあると思う。無意識なのだから悪くないと果たして言い切れるのだろうか。

このブログで何度も書いているように、人間は関係の中で生きるようにデザインされた存在だと聖書は語っている(絆の回復 - 天国途上 〜生きること思うこと〜)。

まず神様が愛してくださった。私たちクリスチャンは、創造主である神様に無関心だったところから、神様の愛に応答する者に変えられたとも言える。

聖書を学び、神様の存在を意識して過ごすようになると、自分の日常がどれほど神様を無視していたかに改めて気づかされてくる。次第に、自分は本当にひどいことをし続けてきたんだ・・・申し訳ない・・・という罪の自覚もさらに明確になってくる。

神様に「ごめんなさい」と祈って、自分のための十字架を改めて感謝する。神様の大きな愛をますます知るようになっていく。無自覚だった罪を意識できるようになるのは幸いだ。そこから神様との絆がより深まる機会にもなる。

神様との関係が人間関係にも影響を与えるという一例として、私自身の体験から「応答する姿勢」を挙げることができ る。

当然のことながら神様は見えない。見えない神の愛が少しずつわかるようになり、愛することを意識して生活するようになると、それまで 目に入らなかった様々な存在が意識されるようになってきた。

関わりがあるのに、何の応答もせず、ほぼ無視していた自分の姿に不思議と気づかされる。応答しなくても自分の立場が悪くなったりしないからこそ無関心でいられたわけだけれども、次第に無視しているような態度を続けることがむしろ心地悪くなってくる。

「存在を認めた応答の表現を自発的にすること」は、いまでは私の習慣になりつつある。具体的に少し紹介してみよう。

レストランなどの給仕サービスに対して「ありがとうございます」と言う。美味しいと思ったら「美味しかったです」と伝える。店内で誰もがそうしているわけではないから、最初は目立つみたいで恥ずかしかったけど、だんだん自然になってきた。

美容院でシャンプーをしてくれた人に「ありがとうございます。気持ちよかったです」と感想を添える。代金を払っているのだから、当然のサービスを受けているだけと思えばそれまでだけれど、相手はロボットではない。日本にはチップの文化がないけれど、 してもらったことに対して感謝の一言くらい与えてもいいではないか。そう言われて嬉しくない店員さんはいないと思う。

スーパーのレジの人にも、あちらが「ありがとうございました」と商品を差し出しているのだから無言で受け取ることはできなくなった。少なくとも「どうも」くらいは言う。「だってそれがあの人たちの仕事でしょ」で片づけるのはあまりに機械的で愛がないと思う感覚になった。

郵便局や銀行の窓口で手続きしたら「お願いします」と言って去るようになった。

駐車場の誘導係と接することがあれば「お世話さまです」と会釈する。

エレベーターでドアを押さえてくれる人がいたら「ありがとうございます」と言いながら乗り込む。

ホテルを利用した時は客室にあるアンケートに書き込むようになった。クレームが多い現代だからこそ、私はできるだけ「感謝だったこと」を見つけて記入している。良いサービスを受けて当たり前と思うのではなく、夕食の○○が美味しかった、ベッドが気持ちよかった、選べる浴衣が嬉しい、トイレがピカピカ、露天風呂の景色が素晴らしい、従業員の対応が気持ちよかった、などなど具体的に書いている。残念だったことがあれば、今後の改善になるように言葉を選んで率直に書く。

自分を含む複数の人に一斉送信されたメールなどにも、いわゆる営業DM的なものでなく発信者が誰かわかっているなら一言だけでも返信したいと思う。受け取りっぱなしで当たり前とは思えなくなった。

1対1でなくても自分の前で語り掛けている人の問いかけに、注目しない、一言も返さない、うなずく程度の応答もしないで完全に無反応のままいるなら、それは無視しているのに等しいと感じるようになった。相手は音声を流しているスピーカーではなく、心のある人間だ。無意識でもこれは非常に失礼だと思う。「愛は失礼をしない」と聖書にも書いてある。

ここに挙げたようなことは、どれも小さな応答であり、ちょっとした意識でできることばかり。これをしたから立派というわけでもないし、何かが大きく変わることもないだろう。しかし私にとっては、自分の身に起きた驚きの変化なのだ。

強調しておくが、このような感覚はもともと私にあったものではない。まさに平気で失礼を繰り返してきたのが私だ。もし聖書に出会わなかったら、私は、気を使わない相手には無関心のままだったに違いない。

意識しないなら、私たちは愛さない方向に流れやすいのではないか。

愛することは意識的な行為だと思う。



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