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天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

「最初の人」になろう

最近遭遇した2つのケースを紹介したい。

先日ファミレスにしばらく一人でいる時間があって、応答しない関係の虚しさをしみじみ観察してしまった。

30代半ばくらいの夫婦と小さい子供一人の家族が入店。店員の様々な言葉に応答はない。父親も母親も店員の説明は耳に入っている様子だが顔も上げず、無言のまま。完全に自分の世界だ。

父親はスマホをいじり続ける。母親は子供がじっとしていないのでイライラした口調で叱った。子供は知らん顔。父親も知らん顔。家族だけの休日くらい気を使わないでいたいという完全オフモードなのかもしれない。

店員は慣れていて、まったく反応を示さない客に対しても、明るく丁寧に言うべきことを言って対応する。これが接客業というものだろう。

このデキる店員さんは自分が客の立場になったらどうなのだろう。店員の気持ちがわかる分、少しは返答するのだろうか。それとも仕事モードでなくなればやっぱり店員には無関心な「お客様モード」になるのだろうか。

店員と客という関係なら珍しくもないのだろうけど、夫婦親子の関係も互いに無関心に見えた。人格を無視したような関係に慣れてしまうのは恐ろしいと思う。

子供に「聞いてるの?わかったら返事しなさい!」といくら親が言って聞かせても、親自身や周りの大人たちが実際に「人の言うことに注目して聞く」「返事をする」という様子をほとんど見ることがないなら、その子も同じような大人になっていくのではないか。

聖書には、歴史が進んでいくにつれて人の愛が冷えていくということが書かれている。

社会はグローバル的に発展し、 あらゆるものが便利になり、物質的にも豊かになった。ITの普及で24時間365日どこでも広く「つながる」ことができる。

しかし、人々はますます忙しく、身近な人とさえ誠実に向き合うことが難しくなっているのではないか。日々のニュースは、愛さない社会が広がっていることを報じているようにも思える。愛さない方向から愛する方向へ流れを逆転させるには、自発的で意志的な行動が必要だろう。

もう一つのケース。
仙台駅に停車中の電車に、旅行帰りのような荷物をたくさん抱えた老夫婦がよたよたしながら乗っ てきた。夕方で車内は少し混んでいたので、老夫婦はそのままドア付近に立った。

私は車両中央に座ってそれを見ながら、老夫婦のすぐ横に座っている人がイヤホンをしたままスマホに夢中な様子や周辺の人も無関心な状況が気になっていた。

すると、私の隣の隣に座っていた女性がすっと立ち上がり、座席にバッグを置いてドアの方へ進むと「あの、こちらの席へどうぞ」と、その老婦人にわかるように手を伸ばして声をかけた。

私はハッとさせられて、自分を恥じた。他の人の無関心を咎めながら、自分自身が座りながら傍観していたに過ぎない。席を譲るには遠すぎると思っていた。状況に問題意識を持っていても結局おとなしくしていて、自発的な行動を起こそうとはしなかった。

老夫婦は席を譲ってくれた女性に笑顔でお礼を言いながら混雑をかき分けるように車両中央に入ってきて、ご主人は奥さんを座らせた。

私は勇気を出して立ち上がり、私の隣でうつむいている女性にちょっと触れて「一つ座席をずれてほしい」と合図した。その女性は何が起きたのかわからないようで面倒そうな表情を見せたが席をずれてくれた。私はご主人に席を譲り、老夫婦は並んで嬉しそうに座ってくれた。「最初の女性」から勇気をもらったからしたことだ。

私たちのしたことはあの車両でかなり目立ったと思う。周りの空気は冷ややかだったようにも感じた。確かに強引だったかもしれない。嫌味に感じた人もいたかも。

最初の女性は何事もなかったように吊革につかまりながら読書していた。周りの空気に流されない正義感の強い人なのではないか、その正義感ゆえに周囲との摩擦も結構あるかもしれない、実直で不器用なタイプかも、などと私は勝手な想像を膨らませた。

みんなと違う言動を発するのは勇気がいる。特に現代の日本はそのハードルが高いかもしれない。何もしなければ目立たない。巻き込まれることも、恥をかくことももない。自分を守ることが頭にあるなら消極的になりやすい。

しかし、愛は自分のことより相手のことが心を占めているのではないか。だから勇気も出る。私は無関心な空気を突き破って愛する行動を起こす「最初の人」に変えられたいと思った。次の誰かに愛する勇気を与える一人になりたい、と。

そう祈る私の心に聖書のことばが思い浮かんだ。

『私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。』(第一ヨハネの 手紙3章)

『愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。』(第一ヨハネの手紙4章)

そうか。
イエス様こそ、私にとって常に「最初の人」だ。

イエス様に続きたい。



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