“We”を主語に
『セッター思考 ~人と人をつなぐ技術を磨く~』を読んだ。
著者は、元・全 日本女子バレーボールのセッター竹下佳江さん。
彼女はプロのバレーボール選手としては低すぎる身長でありながら名セッターとして全日本の代表でオリンピックに3大会連続出場し、2012年のロンドン五輪で銅メダルを獲得した時のキャプテンだ。
具体的な体験談がわかりやすく、示唆に富んだ一冊だった。少し長いが一部紹介する。
キャプテンになったころ、私の頭のなかでは、主語がいつも「I(私)」で はなく「We(私たち)」でした。全日本が勝つためなら、個人の感情や願望はどうでもいいと、本気で考えていたのです。いちばん大事なのはチームを強くすることで、個人的な感情をいっさいなくして、その一点だけに集中しなければならない、とまで考えていました。
Weを主語に考えるからこそ、冷静でいられたのだと思います。Iを主語にしていたら、「私は一 生懸命やっているのに、みんなはそこまで真剣に考えてくれない」と感情的になっていたかもしれません。
「私たちが強くなるためにはどうすればいいのか」「私たちが一つになれるには、何をすればいいのか」と考えていたから、個人的な感情に流されずに済んだのです。Weを主語に考えれば、きっといつでも目的がぶれずにいられるのではないでしょうか。
私は竹下選手のような重責とは無縁の生活ですが、教会で信徒リーダーになるために牧師から聖書で訓練をしていただきました。その頃から度々指摘された注意点があって、そこに思いが重なりました。
それは、「私 vs 問題のある相手」という見方をするのではなく「私たち vs 問題」 という視点で考えることです。
問題解決のために、お互いに変化し、いっしょに成長していくための方法を見つけようとするあり方を練習するように指導していただきました。
自分にしみついた思考パターンでは「どうしてこの人はこうなんだろう?」と 理解に苦しむと不満に感じる相手そのものを「問題」と見てしまいます。
そうなると悪循環。
自分のことは正当化して相手ばかりを変えようとしてしまう。コミュニケーションはギクシャクし、関係はさらに難しくなっていく。
こんな悪循環の経験、ありませんか。
私にとっては、陥りやすい失敗の一つです。
聖書は、こういう傾向を持っている私たちに、意志を働かせて愛し合うことを語り、「一つになる」秘訣を数多く教えています。
あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄から することなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがた の間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。(ピリピ2章)
上の聖句にある通り、イエス・キリストはチームビルディングにおいてもモデルとなるお方です。聖書は私たちの実生活の必要にしっかり答えているのに驚かされます。
その聖書が「複数だけど一体だ」と宣言している人間関係が2つあります。
教会、そして夫婦です。
一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。(ローマ12章)
イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結 ばれ、ふたりは一体となる。』・・・それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。(マタイ福音書19章)
結婚も教会も、創造主なる神様がデザインされたものです。それは最高に素晴らしい共同体であるはずなのです。
ところが私たちには罪があり自己中心があるので、その密接な関係をどう建て上げていけば良いのかわからなかったり、一つとなって生きるなんて無理だと感じることがあるのだと思います。
一体とされた関係を生きるために「We」を主語に考えるのはとても重要なことでしょう。主語を変えると視界が変わります。視界が違えば理解も変わります。
ほんとうの問題は何でしょう。
目的を握り直して、いま自分にできることも新しく見えてくるかもしれません。