天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

“教会”に疲れたあなたへ

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「教会に行きたくない」という言葉を聞くことがある。


単なる先入観や宗教そのものへの抵抗でそう考えているのではなく、実際教会に触れてみた人の傷ついた思いとして伝えられるとき、私の心は割かれるような痛みを感じる。言葉にできない悲しみがこみ上げる。
 
教会に抵抗を持ったその人の気持ちもわかるところがあるし、私自身も似たような感情を体験してきたと思う。どんな教会にも人間の集まりとしては難しさや問題があることも否定しない。
 
にもかかわらず、私はイエス・キリスト以外に救いの道はないと信じる者なので、どこか聖書を真実に丁 寧に教えてくれる教会に出会ってほしいと願い、そう勧めずにいられないからだ。
 
「聖書は学んでみたい。イエス・キリストにも興味がある。信じたいと思うこともある。だけど教会は好きじゃない。教会の雰囲気、クリスチャンたちには失望させられる。」という人に、どう答えたらいいのだろう。
 
もう25年来の古い友人で、教会に通っている女性が「教会不信、神様不信に陥っている」とその苦悩をメールで打ち明けてくれた。彼女は信仰を持った後、熱心に礼拝に集い、奉仕をしたり祈り会や聖書勉強会にも参加していた。しかし、最近になって信徒同士の交わりに疑問が大きくなってしまったらしい。
 
「牧師先生はイエス様が共にいることが祝福だと教えてくれたし、そう信じてきた。だけど、教会の姉妹たちは自分の生活が順調なこと、嬉しい出来事や幸せな現状に感謝していて、そういう話題が交わりの中心になっている。その中にいると順調にいかない自分は神様に愛されていないのかと思って、神様のこともわからなくなった」という。
 
彼女の訴えていることは、ある面ではとても鋭く重要な指摘ではないかと私には思えるのです。
 
教会に集っている信仰者たちが、主イエス・キリストを喜び、自分に与えられた救いの福音を感謝し、キリストにある希望を共有して祈り語り合っているのであれば、順調な人も試練にある人も共に信仰の交わりに憩い、一つになって真理に力づけられるでしょう。
 
しかしもし、イエス様を知らない人でも喜ぶであろうことばかりを恵みとして喜び、人生に良いことがありますようにという願望を一番の関心事として生活し、共通の趣味か仕事のように集って活動しているとするなら、そこは本当にキリストの教会と言えるのでしょうか。
『だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。』(ピリピ2章)
という パウロの厳しい指摘が思い出されます。
あの人この人のことではなく自分自身のこととして、みことばの前で静まり、 悔い改めて祈るべき点はないでしょうか。
 
彼女は東京在住で会うことすらなかなかできないけれど、彼女の体験している教会の一面、また信仰の葛藤を毎日のように思い出します。彼女がイエス様から離れないようにと祈り、彼女自身が福音の真理を再確認することによって強められ、信仰者の喜びを回復してほしいと願うばかりです。 同時に私自身も、何に希望を置き、何を喜んで生活しているのか、自分の心を日々神様にさぐっていただくことを願います。
 
聖書やイエス様を知りたいという人の意欲や期待が、クリスチャンたちによって妨害されてしまっている事実があることに「本当にごめんなさい」という気持ちです。
 
いちばんは神様に対して申し訳ないと思います。
 
救いや真理を求めてやってきた人を、主の教会、キリストの体であるはずの私たちがイエス・キリストを現していないせいで、混乱させたり失望させたりしてしまうことを思うと、たとえそれがどこの教会の話であるにしても、やはり心が痛むのです。
 
日本の教会を憐れんでくださいと祈らずにいられません。聖書を解き明かして信徒を導くことに召されている牧師先生方を助け、力づけ、癒し、祝福してくださいと祈ります。
 
それから、教会に傷ついた人にも「ごめんなさい」と思います。その上で、どうか「人」ではなくイエス・キリスト」に答えを求め続けてくださいと言いたいのです。
 
あなたを決して失望させないのはイエス様だけです。
 
聖書が語っている真理は、あなたの心を自由にし、人生を変える確かな希望であり、永遠を教えるいのちのことばですから、どうか聖書から離れないでほしいのです。
 
今はインターネットで聖書のメッセージが聞けるサイトも多いし、教会を検索することもできるから、求め続けてほしいと心から願います。
 
それにしても、健全な信仰生活にはどうしてもキリストの体である教会が必要だと信じるからこそ、教会の一員としてクリスチャンとして私自身の課題も思いながら、真摯に主の憐れみと助けを乞いたいと思います。
 
読んでくださっている方に、神様の恵みによる導きがありますように。