天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

満ち足りる人生の秘訣

あといくつ願いが叶ったら、心は満ち足りますか。
別の言い方をするなら、心が満たされない原因だと思う事柄はいくつ思い浮かびますか。

目を閉じて数分考えてみてほしい。

今のコンディションによって、置かれている現状によって、性格的なものによって、タイミングや気分によっても、それらは変わるかもしれない。

聖書に登場するパウロという偉大な宣教者はこのように告白している。

私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中に いる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私 は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピの手紙4章)


パウロが体験した境遇というのは生易しいものではない。彼自身の告白から抜粋しても「牢に入れられたことも多く、 むち打たれたことも数えきれず、死に直面したこともしばしば、迫害、裏切り、盗賊、危険な旅、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、 しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともある」(第二コリント11章より)などと書かれている。

そのパウロが「どんな境遇にあっても満ち足りる」と断言している。

心が満たされるのは、願いが叶うとか、成功を収めたとか、称賛を受けるとか、安心できる環境が整うなどの結果だと私たちは考えやすい。

しかし念願が叶っても、それはすぐ過去のことになる。次の満足を目指す必要に駆られるというのが私たちの現実ではないか。

私たちの心は実に貪欲だ。
欲しいものが尽きることはない。

子供の頃「一生のお願い。これだけ買ってくれたら他はもう何もいらないから!」と何度親に懇願しただろう。その気持ちは嘘ではなかったのに、手に入れてしばらくすると色あせてしまう。また次の「これだけは欲しい」 というものがすぐ出現する。大人になれば、その欲望は単に物だけでなく複雑になる。

「満ち足りる瞬間」はあっても、「どんな時でも満ち足りて生きる」なんて非現実的だと思うだろうか。

満ち足りることは学んで身に着けるものだ、と先ほどの聖句から知ることができる。私たちは満足することを「学ぶ」 必要があるのだ。性格でも、状況でも、気分でもない。訓練されて身に着ける品性とも言えるかもしれない。

様々な困難を体験したパウロは、「あらゆる境遇に対処する秘訣」を心得るようになった。その秘訣が何かはすぐ後に書かれている。

答えは「私を強くしてくださる方」
イエス・キリストこそ、そのお方だ。

イエス様を信頼する者にとってイエス様は、どんな時でも私を強くしてくださる方だと言える。

あらゆる状況の中で、あらゆる願いを私はイエス様に打ち明け祈る。主は祈りを聞き、最善に助けてくださると信じている。

願った通りに状況が改善される場合もあるけれども、「状況」よりも「私自身」が変えられることで祈りが答えられることが多いように思う。私自身が変えられることで必要が満たされる体験をしながら学ばされたことがあると思う。

それは、神を知ることの幸い
私の神である主がいてくだされば何があっても大丈夫だと信頼できるようになっていく道。

前記事で書いた疑心暗鬼の脱出方法も、信仰によって「私を強くしてくださる方」が本当に自分のものとなるほどに効力を実感できるようになったと言うことができる。

クリスチャンでなくても「祈る」ことは一般的かもしれない。しかし、願い事そのものの成就ではなく、祈りの対象である神ご自身を知って満たされることはあるだろうか。

私は「私を強めてくださる方」である主を知り、主と親しく生きることが、満ち足りて生きる秘訣だと信じている。そして少しずつだけれども、その幸いな世界、状況に左右されない安定感を体験していると思う。感謝せずにいられない。

私には切に待ち望んでいる願いがある。
実現を見ていない祈りがある。
問題も悩みもある。
自分自身に乏しさも感じる。
年齢による衰えも現実的だ。
愚痴や不安が口からこぼれてしまう時がある。

しかし、私の主である神様ご自身に心を集中するなら、不満や欠乏感は深い喜びと感謝に飲み込まれて、心は満たされる。

私の願いはたった一つに集約され、その願いを主はきっと聞いてくださると信じることができる。満ち足りる人生の秘訣は、この一つの願いにあるのではないか。

私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。
主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。(詩編27 )


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