逃げている自分に気付いたら
自分はいま逃避していると気づいても、それをなかなか止められない。
本当にすべきことがわかっているのに、優先して取り組まなければならないことが何かわかっているのに、ぐずぐずと腰を上げない。なんとか腰を上げても違うことをやろうとする。
ぐずぐずだらだらの罪悪感から逃れるために他のことで忙しくしたり、何か意味のある時間を過ごしたと言い訳できるような仕事や勉強などの活動をする。
良心の声、あるいは内におられる聖霊さまの促しに耳をふさぐようにして、違うことに手をつける。しかし、当然だけれども、心は落ち着かない。
「私たちのベストを最も妨げるのはベターだ」というような言葉をなにかで読んだことがある。
確かに、良さそうな他のものというのは自分自身をも欺くことが多いかもしれない。しかし、いま私が取り上げているのは、自分自身の日常生活における小さな決断のことだ。時間の使い方、お金の使い方、体の使い方に関する主体的選択のことだ。
やるべきことを忘れているのではなくて、逃避する方を選択してしまう時のことを思っている。
考えてみると子供の頃も、試験の前日になって机の引き出しの中を片づけたりしたものだった。早起きして勉強しようと早寝して、結局寝坊して後悔したことが何度あったことか。相変わらずだな、私(とほほ・・・)。
気分のままに逃避したとして、その後すっきり爽快になることはまずない。なんともいえない敗北感が残り、結局はツケを払わなければならない。リカバーするまで精神的にも実質的にも負荷を要する。
わかっていながらそうする私は、本当に愚かで不自由な者だと思う。
今は試験勉強のようなものはないし、私は主婦だから締切が厳しい仕事があるわけでもなく、評価や責任問題が発生するような立場にないだけに、 良くも悪くも全てが自己管理だ。だから多少気ままにやっていても大きな支障はないといえばない。
しかし、恐れ多くも感謝なことに、職業とは関係なく、自分自身のアイデンティティーとして「キリストのしもべ」「イエス様の弟子」という自己認識が私にはある。
日常の家事においても、人との関わりにおいても、ライフワークにしても、聖書から教えられていることを生活の中で実行していきたいと願っている。
神のことばを慕い求めて聖書に毎日耳を傾け、真実に祈り、自分の現場で神様が喜ばれるような生き方をしたい。
取り組むべき働きに誠実に取り組み、向き合うべき人と向き合い、愛する生き方のために自発的なひと手間を選び取りたい。
心の中がもやもやと曇り、おかしな方向に動いていると自覚したなら、速やかに神様の前に出て正直に助けを求めて、自分を取り戻したい。
喜びと希望をもって、私は確かにそう願っている。
なのに、違う方向へ逃避する自分を放置している自分がいる。逃避の欲望に賛同し、その選択をしているのもまぎれもなく私自身だ。言い訳はできない。
以前はこういう葛藤のスパイラルに入ると、自己嫌悪に拍車がかかり、絶望的な気持ちになってなかなか立ち直れないのが私のパターンだった。
しかし、こういう葛藤が内にあることこそ、信仰者として生きている証拠だと聖書のメッセージから教えられてきた。私の内に働く罪の性質について、信仰によって新しくされた自分自身と区別してとらえることを学んだ。だから、私は意志と信仰を働かせて意識を切り替える。
地上に生きている限り、私は常に分かれ道に立つ。そして葛藤するだろう。
愛する方向と愛さない方向、聖霊に従う方向と自分の欲望に従う方向。
私は自分の意志でいつも選択し、その結果を歩む。自由を用いて正しい選択をしたい。
間違うことはある。逃避や暴走の可能性も否定できない。だけど、神様の助けによって、主の恵みによって、方向転換するチャンスも常に目の前にある。
何が私を逃避させるのだろう?
どうしたら逃避癖を解決できるだろう?
いつまでも同じ失敗を繰り返さないために、自分の傾向を知って改善していきたい。自分に何が起きているのか、心理学や内面のメカニズムで分析することも役立つだろう。
しかし、いまの私には、それすらも逃避になってしまうように思われる。
わかっている・・・。
いま、私が一番にすべきことは、パッとしない自分を繕わずに、主の前に進み出ることだ。
静かに首を垂れ、主の御名を呼ぶこと。
祈りの言葉がうまく出なくても逃げずに、主の前にひざまづいて、あわれみを乞うことだ。
そうするなら、すでに私は、あるべき道に戻っていると知るだろう。
主は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、罪人に道を教えられる。主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とそのさとしを守る者には。(詩編25)