天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

孤独を恐れない信仰

聖書の神を信じて、本気で、神を神として生きようとするなら、いわゆるみんなに好かれる「いい人」とか誰もが羨む 「幸せな人」とは違う方向の人生なんだなぁ。

最近、旧約聖書ネヘミヤ記を毎日1章ずつ読んで黙想(ディボーション)していたのだが、最後の章まで終えて抱いた感想だ。

ネヘミヤ記について短い文章で適切な説明などできそうにないので、他にお任せして(興味ある方は検索してみてください)、私の思ったことを覚書のように記してみたい。

そんなわけで、今回は私のディボーションライフの一面を分かち合う感じです。(読んでくださる方を意味不明にさせてしまったらごめんなさい。)

ネヘミヤが祖国エルサレムの神殿城壁再建と神の民の生き方(礼拝、ライフスタイル、価値観)の再興という任務を一 区切りさせてから、ある期間エルサレムを離れた不在中に、整えたはずの人事や制度はなし崩しになり、主要人物の不正、それを見過ごす体質、神の民としての回復したはずのライフスタイルも乱れていた。ルールを無視した結婚生活も蔓延していた。

我が民族の悲しむべき現実に次々と気づいたネヘミヤは憤り、あきらめずに再改革を厳しく断行していく。

その記録の中で、ネヘミヤはまるで嘆きの声をもらすかのように、「私の神。どうか、このことのために私を覚えていてください。」と神の名を繰り返し呼んで、慰めと恵みを求めていることが心に残った。

祖国が滅ぼされて植民地状態になったイスラエルだが、ネヘミヤはバビロンの王宮で働き、王の信頼を得ている。祖国の都を再建するためのエルサレム帰還が許され、優れたリーダーシップを発揮して困難な大プロジェクトを成功させた。素晴らしい礼拝の回復で同族は歓喜し、都は活気を取り戻した。植民地とはいえ祖国の総督の職に就き、立派な仕事をして偉大な実績を上げた。まさに政治的、国民的英雄と言ってもいいだろう。

にもかかわらず、ネヘミヤの心は痛んでいる。

またたく間にほころびが出てきている民の心と生活をすぐさま見破り、正しい対処を断行しながらも、彼の悲しみが漂っているように見える。それは彼の心が神の心に連動しているからかもしれない。

徹底して神中心に生きることは、人間の理屈では説明できないことだ。ある面では考えが一致して喜ばれたり、大いに賛同を得ることもあるだろう。しかし、突き詰めていくと、目先の都合や一般的な心情に反することにも直面したり、分かり合えない事態が出てくるのが当然だろう。

神中心に生きることは人間本来のデザインであり、人間が最も生き生きと幸福となる姿のはずなのだけれど、人間中心の価値観とははっきり違うからだ。

祖国の復興のためにがんばってくれるリーダーシップを喜んでいた同族の中からも、次第にネヘミヤを煙たく感じる者が現れたり、強い信仰心を信頼するよりも融通がきかないと疎んじる雰囲気や、自分の利益や慣れ親しんだ環境を妨害されたと感じた人々がネヘミヤの真実な愛を知ることなく反感をもったり陰謀を企てたりしたとしても不思議ではない。

神中心に生きることこそ我々の永続的な幸福の確かな道だと、愛から出た訓戒も心に届かず、恐れられ溝ができるだけだったかもしれない。

神を心から愛して自分をささげる思いでないなら、ネヘミヤのこだわりは理解できないに違いない。立場上の重圧、独特な任務による張りつめった神経は、同志として近くにいる仲間との間にすらもギャップを感じたのではないか。

人の罪の根深さ、改革したと思っても逆戻りしてしまう慣性、次々と露呈してくる問題の前で、ネヘミヤは孤独感や無力感で苦しんでいたのではないか。
ネヘミヤがどんな気持ちでこの記録を書いていたのかと想像しながら、私はどんどん切ない気持ちになっていった。神を愛して神のために生きるゆえの苦悩が垣間見える。

その苦悩が「神様、私が精一杯やっている真実を、あなただけはわかってくださいますよね」とすがるように主を呼ばせたのではないか。天を仰いで信仰を奮い立たせ、勇気を振り絞り、毅然とした態度を懸命に保ったのではないか。

驚くべき成功、強い信頼関係、喜びを分け合う仲間、感謝と平安、それらは神のことばに従う時に備えられるものであると信じているが、同時に、どこまでも神中心にこだわって生きようとするなら、失敗や問題、孤独や苦悩、誤解や非難と無縁ではいられないとも覚悟すべきなのだろう。

特に権威と責任のある立場の人の戦いは生易しいものではないと想像する。

ネヘミヤを見てわかる一つの確かな慰めは、そのような道を進む時に神がますます近くなり、天にある永遠の報いを見る目が開かれるということではないか。

いや、神が近くご自身を示し、永遠を教え、特別な祝福をもって導いているからこそ、このような道を進み続けることができるのだろう。

神様との親しい関係を避け所とし、神ご自身を喜びとし、みことばの約束を待ち望む者だけが、神を愛する心で人生を全うすると言えるのではないか。

自分自身の心を振り返るとき、なんと不純物の多いことか。なんと妥協的で、焦点の定まらない生活をしていることか。

しかし、こんな私にも望みはある。

私の主がご自身の偉大さを現し、みことばを与えて私をとらえてくださっていることだ。

私は、私のイエス・キリストを思うと、申し訳なさ有難さで胸が熱くなる。

何もない者だけれど自分を主にささげ、恵みを乞い続けながら、主なる神が人々に尊ばれるために生きたいと、最後には思わされるのです。



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