天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

恵みの眼差し

目は口ほどにものを言う。

誰もが体験的にこの真実を証言できるだろう。

一言も発しなくても威圧的な視線で人を黙らせることができる。見下すような目、相手にすらしないような冷ややかな目によって傷ついたことがあるかもしれない。

逆に、慈愛に満ちた温かい目を向けられて安心したり、同情のこもった眼差しで慰められたりする。アイコンタクトだけでエールを送ることもできるし、目配せを何かのサインに使うことも可能だ。

日本人は人にどう見られるかで敏感に反応する。その繊細さは思いやりにも豊かに発揮される。

が同時に、臆病で傷つきやすい性質、視線を避けて周りを見なくなる傾向にもつながっているかもしれない。

自分が目を上げたとき、いったい何を見るのか。どんな視線を感じるかは、私たちの心や行動に大きく影響すると思う。

もう14、5年前になるだろうか、私はある事で顔面に大怪我をしたことがある。今は傷跡もそれほど目立たなくなったが数年は痛々しい顔だった。治療した医師は「嫁入り前でもないし、失明しなかっただけでも不幸中の幸いだね」と言った。

私が道を歩いていると向かいから来る人が私の顔をちらっと見て、あわてて視線を反らす。ひどい傷を気の毒と思うのだろう。それはわかるし凝視されたくもないけれど、明らかに一瞬注視してから不自然に目を反らされると、やはり悲しかった。人の視線がつらいということを身に染みて感じた体験だ。

しかし私の心は、別のもっと影響力のある視線で守られたといえる。私の夫は仕事から帰宅すると真っ先に、 痛々しい私の顔をのぞき込むようにまじまじと見つめて、「うん、良くなっているよ。大丈夫だ。」と明るい声で毎日言ってくれた。

傷跡が落ちつくまで、実に、毎日だった。

醜く腫れ上がった傷だらけの顔をじっくり見てくれた目の温かさを、私は決して忘れない。感謝をもっていつまでも覚えているべきだと思う。決して当たり前ではないからだ。

ぷっくりとつややかな桜色のほっぺをした赤ちゃんの顔なら喜んで毎日見たいだろう。見れば見るほど心が和む愛らしい子供の寝顔なら、仕事の疲れも吹き飛ぶかもしれない。

しかし私の顔は、変わり果てて見るに堪えない状態だったのだから、涙が出るほどありがたかった。夫のさりげない優しさが頼もしく安心を与えてくれた。今も傷跡を隠すことに神経を使わないでいられるのも、心が守られてきた証拠だと思う。

こんなことを思い起こしたのには理由があって、有名なノアの方舟の聖書箇所を礼拝メッセージで丁寧に学ぶ機会があったからだ。

ノアの時代、世に蔓延する悪が極みに達していた。ノアもそんな世の中の一人であったのに、神様の恵みの眼差しに出会って彼の心と生き方は変えられた。ノアは、周りの影響よりも神様の眼差しの影響を受けて歩むようになった。神様の愛に満ちた眼差しに守られ、 神様の恵みの眼差しに応答して、神のことばに従って方舟を造った。

周りの視線は冷たかっただろう。頭がおかしくなったと見られたかもしれな い。それはノアにとってつらくなかったはずはない。しかし、それ以上に影響力のある眼差しが彼を守り、彼を励まし動かした。

ノアの話を空想の神話だと思うだろうか。私は歴史的事実だと信じている。聖書全体が誤りなき神のことばだと信じている。そして、ノアを全く変えた「神の恵みの眼差し」を信じる。 

創世記6章5節に、【主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることが、みな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。】と書かれている。

牧師先生はこの一節から、「神様がご覧になっていた、というところに神の愛が現れており、ここに希望がある」と語られた。

私たち人間は、醜いもの、汚いもの、気分が悪くなるようなものから顔を背けてしまうものだ。見れば見るほど心が痛むくらいなら、見ない方がいいと考えるのではないか。

しかし神様は、激しく心を痛めながらも、しっかりと見てくださった。そして全て知った上でどうしたら良いかと、ご自身がさらに苦悩された。

私たちは、人の目の色を気にする以上に、自分自身がどんな眼差しを人に向けているかを問うべきかもしれない。家族や大切な人をしっかり見ているだろうか。鼻が高くなるような誇らしい姿なら見るけれども、こちらが苦しくなるような醜い様子や肩身が狭くなるような恥ずかしい姿なら見たくないというなら、それは愛の眼差しとは違う。

私たちの眼差しにも力がある。日々の眼差しで生かすことも殺すこともできる、と言ったら言い過ぎだろうか。

配偶者、親、友人、職場の上司、あるいは先生など、近くにいる人からあなたがどんな眼差しを受けているか、私にはわからない。

温かい眼差しに囲まれているなら、それを当然だと思わないでほしい。

また一方で、優しい眼差しなど自分には注がれていないと感じている方もおられるかもしれない。もしそうなら、どれほど悲しいことだろう。

いずれにしても、これだけは確かに言える。

創造主なる神様は、慈愛に満ちた恵みの眼差しを今この瞬間も注いでくださっている。

どうか、聖書を開いて、その眼差しに個人的に出会ってほしい。

ノアを守り、勇敢に正しく歩ませた、他のどんな視線よりも強い影響力をもつ神様の恵みの眼差しを知ってほしい。 

私も、もっともっと知っていきたい。

目は心の窓だ。

創造主の眼差しを知っていくなら、私たちの眼差しも内側から真に変えられていく、と私は思う。



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