読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

続・恵みの眼差し

前回「恵みの眼差し」というテーマでノアの聖書箇所の黙想から、私が顔面に大怪我をした時のエピソードを書いた。 (恵みの眼差し - 天国途上 〜生きること思うこと〜

今回は続編で、恵みの眼差しというものを単に自分を喜ばせてくれる好意的視線と考えるなら意味合いが全く違うということを書きたい。

強調したいのは「当たり前ではない」というギャップ感。

「あり得ない」という驚きの理解があってこそ、恵みの眼差しにある「恵み」がわかってくる。

この「恵み」がわからないと、最悪時代の一人だったノアを全く変えた恵みの眼差しも気休め程度のいい話になってしまうだろうし、私たちを本当に変えていく恵みの眼差しの実体も実力もほとんど体験することがないだろうと思う。

再び顔面の怪我のエピソードを用いて話すと、夫の温かい眼差しに感動したのは、私の顔が恐ろしくひどい状態にもかかわらず与えられた眼差しだったからだ。この時の夫の眼差しに強い影響力があったことの重要な前提は、私が自分自身の醜さを認識していたということ。

「事実」として私の顔が悲惨な状態であっても、私にその「認識」がなければ展開は違ったといえる。

例えば、結婚式の日、特別に美しく着飾って現れた花嫁に対して、新郎が温かい愛の眼差しで見つめるのは難しいだろうか。おおむね自然な反応なのではないか。女性からすれば、その眼差しはもちろん嬉しいに違いないけれど、少なくとも自己認識において、あり得ないとか一生の恩義に感じるほどのギャップ感はないはずだ。

私たちは、自分が良い待遇を受けるに値する何かを持っていると自己認識しているなら、良い待遇を受けてもそれほど驚かないだろう。期待していたほど待遇が良くないなら腹を立て、不満を持つものだ。被害者意識や甘えが強ければなおのこと、「助けてくれない」「優しくしてくれない」「わかってくれない」「冷たくされた」などと裏切られた感や不満が常に他者に向かうだろう。

つまり、自分に向けられたものに対して「あり得ない幸せ」「嬉しい」「別に 普通(当然)」「不当(不満)」など、反応や感謝の度合いが異なるのは、状況とその自己認識に左右される部分が大きいのではないか。

私が顔面に怪我をした日、そのまま救急車で病院に運ばれた。私には一瞬のことで頭が混乱していたが、駆けつけた救急隊の対応から怪我はひどそうだと想像できた。病院では時間外で外科医が不在だったので、応急処置として目を含めて顔半分をカーゼで覆われたので自分では傷を見ることなく一夜を過ごした。

翌日、外科医の元でガーゼがはずされ、医師は私に鏡を差し向けた。鏡に映った自分の顔にゾッとして私は目を伏せた。言葉を失った。あまりの衝撃で涙も出なかった。ようやく事実を自己認識できた瞬間だった。

だから、私をしみじみ見つめる夫の眼差しが「あの鏡に映った恐ろしい醜い顔」に向けられていることを思い出すなら、その眼差しも安心させる声色も「あり得ない」ことだと私には思えた。だから15年近くたった今思い出しても涙が出るほどありがたいのだ。

顔は鏡を使えば肉眼で確認できる。
ではは、どうしたら見ることができるだろう。

心がどんな状態か、どれほど醜いか、汚れているか、悪くなっているか、本来あるべき姿から崩れてしまっているかは、何によってふさわしく自己認識できるのだろう。

人間を創造した神のことばである聖書こそ、完全に明確に私たちの正体を映し出す鏡だと私は思う。

聖書には人間の姿が赤裸々に描かれている。

【人はうわべを見るが、主は心を見る。(第一サムエル記16章)】とも書いてある。

聖書という鏡に向き合うと、創造主である神様から離れた私たちがどれほど自分勝手で醜く、愚かで罪深い存在か、その正体が映し出される。

見たくない、認めたくない現実だ。

しかも、神様の前で人間は、傷ついてしまった気の毒な被害者なのではない。罪を認めて謝らなければならない、ひたすらに赦しを乞う以外にない加害者なのだ。弁解の余地はない。神様の前に隠し通せるものは何一つないと聖書は語る。

「こんなの私じゃない」「そこまでひどくない」「あの人よりはマシ」と、プライドにしがみつき、鏡に映し出される 自分を否認するなら、聖書の福音が示している「恵み」は私たちの現実にほとんど関係ないものとなってしまう。

真実を映す「鏡」を見るのは確かにつらい。しかし、鏡を見ることを一生避けたとしても事実が変わるわけではない。最後には直視せざるを得ない日が来る。

へりくだって、少しずつでも聖書に照らして自分を認識していくなら、自分に注がれている「恵み」が見えてくる。当たり前ではない赦し、あり得ない愛、驚くべき祝福が与えられて生かされていることがわかり、新しい感謝と感動が増し加わる日々だ。

隠されている罪の認識も、私たちを変えていく恵みの認識も、 聖書を正しく学ぶことなしには決して自分のものにならないと思う。私は、聖書によって神の恵みに出会い、恵みの神を信じて人生が変えられ続けている。

それでも私は、恵みの眼差しをもう知っているなどとは全く思わない。ますます計り知れず豊かな恵みの神を、もっと知りたいと心から慕い求めている者です。

このブログを読んでくださる方に、恵みの眼差しを知るための神様の恵みが豊かにありますように・・・。


f:id:tengokutojou:20151027212427j:image