天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

続々・恵みの眼差し

「恵みの眼差し」をテーマに続けて書いてきました。

一回目は「恵みの眼差しの影響力」について、二回目はその影響力の前提となる「恵みの眼差しのあり得なさ」について分かち合いました。

そして今回は結びとして「恵みの眼差しの重み」についてを祈りつつ書こうとしています。

恵みの眼差しについて、ほとんど無意識でこんなふうにとらえていないでしょうか。

神は愛です。神は全能です。神様は神様レベルの無限の愛で私たちを愛している。

だから神様なら、恵みの眼差しは自然なこと。神様がそうしたいのだし、そうできるわけだし、神様はそもそも「そういう方」なんだ。すごいなぁ~。

つまり、神様の愛と能力をもってすれば、ひどい私たちであっても愛することはそんなに大変なことではないかのような安易な感覚と言ったらいいだろうか。

恵みの眼差しの黙想を続けて、他ならぬ私自身が改めてはっとさせられたのはこの点でした。

そして、その思いを書こうとしている今も、正直なところ、「あぁ、到底わからない。全く計り知れない。どんなに考えて整理しようとしても整理できるはずがない。」という思いに圧倒されています。

そういう意味では、わかっていないという実感とわかり得ない恵みの眼差しの重みが心に迫ってきて、 たまらない気持ちを分かち合いたくて書いているような気もします。神様が書かせてくださろうとしているのではないか、とも思います。

神様だから何でもできる。神様の愛は無限で素晴らしい。確かにその通りだし、それも賛美すべきことなのだけれども、恵みの眼差しを「注ぐ側の気持ち」に鈍感な自分を思わされました。

恵みの眼差しのあり得なさを理解し、そのあり得ない愛を「受ける者」がどれほど幸いかということを、私たちはもっと驚きをもって味わい知 らなければならないでしょう。

と同時に、恵みの眼差しを「与える側」の大変さ、苦しさ、負担の大きさをも知る必要があるのではないでしょうか。

「恵み」の性質上、そもそも与える義務はないのです。そんな筋合いもないのに、あえて恵みを施す道を選択する神様の「心」を、精一 杯考えてみたいのです。

神様のご性質として「愛」「全能」を挙げましたが、忘れてはならないのは、神様は「義」なる方だということです。

義とは完全な正しさであり、筋道を通し、悪を憎み、罪を暴き、妥協なく一貫して不正を裁くからこそ、正義だと言えます。

前回の記事で 書いたように、私たちは全てを見抜く神様の前で弁解の余地なく裁かれるべき罪人です。聖なる神にとって憎むべき悪に染まった存在です。

すべての人が神様に創造されたにもかかわらず、神を神と認めないで自分を正当化しながら傲慢にも神に対抗し、その上なお当たり前の権利を主張するかのように自己中心な欲望を満たそうとして傷つけ合っているような一人一人。

神の義は、このような悪を決して見逃すことはできません。私たち人間の正体を映し出す鏡である聖書にはこう書かれています。

不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。(ローマ1章)

神様の心には、私たち人間に対する正当な怒りがあります。神の義は、怒るべきことに怒り、公正に裁きを執行せずにはいません。

神様は「あばたもえくぼ」や「恋は盲目」というような身びいきな目をしているわけではありません。悪は悪として明白にご覧になり、激しく嫌悪しつつ真実を完全に認識されているのです。悪を処罰して正義を実現したいのです。

しかし神の愛は、助け守ろうと働きます。罪人を前にして真逆の方向に働く完全な愛と完全な義をその心に抱く神様は、どれほど痛み、引き裂かれるほど苦しいことか。

私たちが罪人でさえなければ、神様がご自身の麗しい性質である愛と義の間で引き裂かれることもないのに、私たちのために聖なる神がもだえ苦しまれる・・・。

本来なら憎しみの眼差しを向けられ、怒りの眼差しで処分されて当然の私たちに、温かい愛の眼差しが向けられるからこそ「恵み」です。しかし、その「恵み」を正当に成立させるために、神様は身も心も正真正銘「引き裂かれる」道を選択されました。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びる ことなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ福音書3章)

神の怒りによって滅ぼされるべき人間を、その神ご自身が救うという想像を絶する恵みの道。

私たちの身代わりに十字架の上で引き裂かれた御子の贖いの血のゆえに、私たちに許されたのが「恵みの眼差し」ではないか。恵みの眼差しにもっとよく焦点を合わせるなら、その目は涙に濡れているのではないか。

この恵みの眼差しの背後にある神の心をどう知り得よう。「あり得ない幸せ」などという感謝の言葉すらも軽々しく思えてくる。胸をつまらせてひれ伏し、ひたすら真心から礼拝せずにいられないのではないか。

恵みの眼差しと目を合わせながら、神のことばに聞き従わないという選択肢が心に浮かぶことなどあるのだろうか。

「人の命は地球より重い」と誰がが言っていた。

ならば、聖なる神の御子のいのちと引き換えにある「恵みの眼差し」の重さは、いかに例えることができよう・・・。


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