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天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

正直になる自由

たいした失敗じゃない。
誰にも知られずに、なかったことにできる・・・。


つい先日、ネット通販で注文しておいたスマホケースが届いて、それを手にした時のことだ。

「あれ?ちょっと小さい?」と一見して嫌な予感。

すぐ手持ちのスマホを装着してみようとするも、やっぱり型が合わない。

注文時に型番をしっかり確認しなかったことが思い浮かんだ。

「あ~っ、もうバカバカ!」と自らの不注意を後悔した後、とっさに浮かんだ考えが冒頭の言葉だ。

「2000円の損をするだけ。さて、どうしよう。新品だし、捨てるのは惜しいけど、とっておいても仕方ないし、誰かにあげるっていっても型があるもんなぁ。この辺に置いておいたら夫に聞かれるし。残念だけど、このままごみ袋 か。」

思考がここまで一瞬のうちに走ってから、はたと立ち止まった。

私は何をしようとしているんだろう? 
なぜ隠す必要があるんだろう?

私には神様からの問いかけのように胸に響いた。ドキッとした。

本当に小さなことだ。

不注意が原因で2000円を無駄にしたというだけ。自己責任で片付くこと。

しかし、私の内に起きた反応は、小さなことだと言ってはならないだろう。

不真実な心罪の性質そのものだったからだ。

一事が万事。

小さなことに不誠実なら、大きなことにはなおさら強くその性質が出るのは明らかだ。

しばし自らの心を見つめた私は、「神様、ごめんなさい。不誠実な考えでした。気づかせてくださって感謝します。」 と祈り、正直に夫に話して不注意による無駄遣いを謝ろうと決めた。

そう決めたら、心がすぅ~っと軽やかになった。

隠すということは、自分を守っているようで、実は自分が貶められ縛られることなんだなぁと思った。

その日の夕食を終えた夫に、「私ね、失敗しちゃったの。このスマホケース・・・」と打ち明けた。

夫は明るい声で「そういうの、あるよなぁ。型はどんどん新しくなるから」と嫌味一つ言わなかった。

そして返品できるかもしれないからと、問い合わせ方を教えてくれた。

「返品できなくて、お金捨てることになっちゃったら、ごめんね」と謝ると、「いいって、いいって」と笑い飛ばしてくれた。

翌日、注文サイトで調べたら返品可能な商品で無事に返品できた。

あっさり一件落着だ。

振り返ると、私が隠そうとした時、夫が怒ると考えたわけではない。

たぶん、失敗した自分を「なかったこと」にしたかっただけだと思う。

2000円で隠ぺいできるなら安いと思ったのだ。

わざわざ自分の株を下げる情報を公開する必要はないという自己防衛の反応かもしれない。

不注意でつまらない失敗した自分を認めるよりも、誰にも知られていない事実を速やかに隠して、自分を実際以上によく見せておきたいという愚かで自己中心な計算が瞬時に働いたのだと思う。

しかもほとんど無意識で。

「誰にも知られていない」という時こそ、本性が出るものなのだろう。

しかし、私の内には真実に生きるように働きかける神様の存在がいてくださる。

その方は私の恥ずべき(愚かでかつ醜い)本性を全て知っておられる方で、それを承知で私を愛してご自身を与えてくださり、私を滅びから生かし、罪から方向転換させてくださる救い主なのだ。

私は、このお方イエス・キリストを私の神と信じている。

私の心と生き方は、このお方によって逆転させられ続けているのだ。

今回のこの出来事もその小さな一例にすぎない。

私が方向転換したことで得たものは何か。

無駄にならなかった2000円だけではない。それは、むしろほんのおまけに過ぎない。

正直に打ち明けることで交わされた夫との会話から、私は夫の寛容を味わい、嬉しい時間を得た。

話して本当に良かったと思った。

また、こそこそする隠し事がないというのは清々しい。

つまらないプライドに縛られずに、正しい行動を選択できたという喜びも大きかった。

そうさせてくださった神様への感謝が心に満ちた。

また、もし誰かが失敗を正直に打ち明けてくれたら、私はその人の心を思いながら寛容を示し、失敗そのものよりもむしろその正直さに着目し喜ぶようになっていくだろうと思う。

これらすべてを思いながら、「自由だなぁ~!」と幸いを実感できる。

あのまま商品をゴミ袋の奥に隠したとしたら、いったい私はどんな気持ちでその後の時間を過ごしただろう。

全くバレなかったとしても濁った私の心は、次はその濁りをごまかすことに消耗し、クリスマスの喜びを素直に味わい礼拝することができなかったかもしれない。

私たちの信仰は、日曜日に教会で礼拝することだけではない。

私たちの信仰は日々の小さなことに働き、小さな方向転換が無数に積み重ねられて人生そのものを大きく変えていくのではないか。

私は、信仰が与えられている恵みを感謝せずにいられない。

あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりまし た。光の子どもらしく歩みなさい。―光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです―そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分け なさい。(エペソ5章)



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