天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

人生を分ける問い

私たちの人生には、将来を大きく左右するいくつかの決断の時があると思う。その決断において私たちは様々に自問自答するのではないか。

問いは決断を促すものでもあると思う。

 

前回の記事に書いたように、かつて信仰生活が行き詰まっていた私が、失望を抱えたまま信仰から離れるのではなく、人生を変える信仰の喜びを生きるように、悪循環が逆転された分岐点は「福音を学び直した」ことだった。

実は、福音を学び直すという人生の転機は、一つの問いから始まった。

 

意気消沈し、不満や批判や愚痴ばかりが私の口から出るのを聞いていた友人が、ストレートに投げかけてくれた本質的な問いだった。

彼は私の話をじっくり聞いた後で、「救いの確信がありますか?」と問いかけた。

その時の私には、その言葉は唐突に思われた。その質問の意味も意図も理解できてはいなかった。

「救いの確信って、なんですか? バプテスマは受けたけど…」 というような返答をしたと記憶している。

 

この本質をとらえた真実な問いかけに私は救われた、と言ってもいいのかもしれない。彼は現在、私の教会の牧師先生だ。

もし彼がただ私の愚痴に同情を示し、批判にも賛同して私の感情を慰めてくれるだけだったら、私は自分自身を追いつめている本当の問題点に気づくこともなく、生きる意味や幸いな人生を求めてさまよい続けていただろう。

本当の意味で信仰生活をスタートさせてもいないのに、信仰の道は期待外れだったと教会から姿を消したのではないか。


あの一つの問いかけが私の人生を分けたと、今になって思う。

心から感謝している。

 

だから私は、あなたにも問いかけたいのです。

―― 救いの確信がありますか?――

 

あなたが聖書を学んだことがない方なら、こう質問させていただいてもいいでしょうか。

―― あなたの人生に、救いは必要ないですか?――

 

 

「救いの確信って何?」「救いって何?」と

これらの問いが少しでも心に触れるなら、人生を分けるような大切な何かに自分はまだ向き合っていないということを認めて、一歩を踏み出してくださるようにと心から祈ります。

 

 

昨年参加したある聖書セミナーで、救いの確信に関して貴重な視点を教えられた。

クリスチャンだけど救いの確信が持てない人、つまり、救われているかどうか不安になるとか、救いの喜びが乏しいくて不満が先立つとか、そういう人がいたら、 私たち信仰者はどうするべきか。

 

「救われているから大丈夫よ」と、その人の救いを保証してあげるべきではない

と、講師の先生はきっぱり言われた。

救われているかどうかは神様の領域であって、他者である私たちが保証できるものではないし、神様への謁見行為になる。

その人の益を願って私たちがすべきことは、「救いを確信できる生き方を促して助けてあげること」だと、先生は語られた。

 

実際の生活のあり方が心の確信と密接に関係しているという見方は、私の内に意味深く刻まれた。

かつて「救いの確信ってなんですか?」と答えるしかなかった私に対して、「福音をもう一度聖書から学びましょう」という実際の行動を勧めてくれた牧師は、まさにこれをしてくれたわけだと自分の中で整理された。

そして事実、私を含めた数名の女性向けにバイブルスタディ入門クラスを始めてくださった。まさに具体的で本質的な助けだった。

 

 

セミナーの講師は、救いの確信が持てない原因として考えられるものを3つにまとめておられた。

一つ目は、神の約束を疑っていること。つまり、聖書のことばを知っていても信頼しない態度。

 

二つ目、救いにふさわしい生き方をしていない。生き方において聖書から学ばず、メッセージを聞いても実生活ではほとんど適用しない。

 

三つ目は、実は新生していない。つまり、まだ本当の救いを得ていないケース。

ドキッとさせられる指摘でもある。

 

昔の私はどれだったのか、もちろん断定はできない。

実は救われていなかったのかもしれない。

聖霊によって新生していないから救いの確信がなく、聖書のことばを信じることもできなくて、信じていないから聖書が勧める生き方も当然していなかった...ということも大いにあり得ると思っている。

日曜日は礼拝に出席し、決められた奉仕を担い、みんなにならって一応献金もし、クリスチャンたちの活動にも参加していているという形式的な信仰生活だった。バプテスマ(洗礼)を受けていたので、そんな自分をクリスチャンになったと思っていただけかもしれない。

 

三つある原因いずれの場合にしても、福音を丁寧に学び直すということは、信仰生活の変革や救いの確信を望む人にとって幸いな具体的第一歩に違いないと私は思う。

 

十数年前に福音を学び直して以来、私は繰り返し福音を学ぶ機会を与えられていて、何度学んでも感動があり、年々理解が深まり続けていると思う。

学べば学ぶほど、聖書で教えられる生き方をしたいという願いは強くなっていく。

聖書のことばで考えて行動することに実際にチャレンジしていくほどに、救いの喜びも大きくなっている。福音をよくわからずに、クリスチャンっぽい行動をしようとしていた時とは全く違うものを自分自身の内に見ている。

聖書に従おうとするからこそ失敗する自分にも日々直面するけれど、私のための十字架が現実的に心に迫るようにされ、完全な救いの素晴らしさが私を満たしていく恵みにつながる。

 

そうして年を重ねた今の私は、与えられた福音を喜び、恵みの真理を感謝して語らずにいられなくなってきたのです。

 

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