「昔の自分」と「今の自分」
ある日、親しくしている友人とこんな話題になった。
「クリスチャンはイエス様の御霊をいただいて新しいいのちを生きるようにされた者だから、私たちはみな、それぞれに、信仰を与えられる前の自分にはなかったものを今の自分に発見することができるって学んだよね。たとえば何がある?」
毎週日曜に礼拝に行くのが自然になる、感謝をこめて献金する、聖書を神のことばとして読む、日常的に祈る、などなど、そういうライフスタイルの変化がまず上がるかもしれない。
さらに信仰が健全に導かれるなら心の中の変化が発見できるのではないか。
思考パターンや物事の感じ方も変えられていくだろうし、そのような心の変化に伴う言動の変化も生まれてくるだろう。
人は心にあるものが言葉となって現れると聖書は教えている。
確かに、人の心を開いて見ることはできないけれども、その人から出る普段の言葉や態度を注意深く観察するなら、その人の心にどんなものが満ちているのか、ある程度わかると思う。
頭の中で繰り返されている言葉を意識してみるのは、心の状態をセルフチェックする一つの方法だろう。
聖書を学ぶ以前の私について言うなら、傾向は一貫していて全く悲観的だった。
理由は、以前のブログ(『傷の癒し』)に書いたような望まない生い立ちの中で形成されたものもあるかもしれない。
前向きな期待は持たない方が現実的であり、自分を守る方法だと思っていた。
冒険はしない。挑戦もしない。難しそうなものは欲しがらない。
傷つかないためだ。
学生時代の口癖を覚えている。
「どうせ」
「悪循環」
「運命」
「仕方ない」
「あーあ(ため息)」
「もうやだ」
「でも…」
友達に「そればっかり言っている」と指摘されたことがあったから、しっかり記憶されている。
若かったのに、あきらめが心に満ちていた。
明るい夢を抱いて未来を切り開いていこうという意欲がなかった。
自分は不幸な運命に生まれたと本気で信じていた。
だから、ひととき楽しかったとしても思考パターンは暗かった。
とはいえ、置かれた環境にまずまず順応し、そこそこ誰とでもうまくやれたし、器用に物事をこなす方だったと思う。学校もそれなりに楽しくやっていた。
夢中になるような情熱は何にも感じなかったが、それでも友達に恵まれていたと改めて思う。
神様を無視して自分勝手に生きていたというのにどれほど守られてきたか、と今では感謝が絶えない。不満だった自分の過去に対しても感じ方が変えられた。
今の自分について言うなら、昔なかったものがたくさんある。
喜びと平安に関しては以前書いた(『人格的成熟を願うあなたへ』)が、今回友人との会話を経て、改めて認識した「昔の自分には無くて今はある性質」がある。
それは、挑戦しようとする性質、苦しくても耐えて乗り越える方向を選ぶ態度、と言える。
信仰と関係なしにそういう性質を持っている人もいるだろう。目標をもって自ら難関に挑戦し、成果を出していくようなタイプの人。そういう人はもちろん素晴らしいし、尊敬する。
しかし、私自身はそれができない人だった。
挑戦して輝いている人をうらやみながらも、私自身は、忍耐や苦痛が伴う挑戦が必要な領域を前にしたら、あれこれ言い訳して道を引き返す癖がついていた。
いまこうして、変えられていく自分を体験しているのは、イエス様の御霊の働きとしか言いようがない。
不可能を可能にできる神様が私の神様だと信じるようになったから、私は挑戦する方向に導かれてきた。
変わろうとしない態度、挑戦しない生き方は、私の神様に申し訳ないことだと感じるようになり、悔い改めて祈るようにされていった。
自分を守ること優先の無難志向ではなく、キリストの弟子らしく生きる者にしてくださいと祈るようになった。
聖書から教えられるのは新しい生き方なのだから、不慣れで難しく感じるのは当然。
だから練習する。...そういう考え方が身に着いた。
すべて自分の訓練になるし、きっと神様の栄光を見ると信じているからだ。
何を信じているかが、その人の生き方を決めると思う。
もはや、私は不幸な運命を信じていない。
神様の変わらない祝福を信じている。
その祝福は、信仰を持つ前の私にも注がれていたと信じている。
かつて、
「どうせ無理」「何をしても悪循環」という言葉が漂っていた私の頭の中は、
「神様にはできるのだから、私があきらめてはならない」
「私にはわからなくても、神様にはお考えがある」
「私は神様を信頼する」
「主がおられるから希望がある」
「私は神様が喜ばれるように生きたい」
「課題があっても変えられ続けることが感謝」
というような言葉が次々に頭の中を飛び交う。
願う通りにいかない現実があっても、心の中が暗いものに支配されないのは、なんという自由であることか!
四十代後半に入り、身体的衰えには抗えないところはあるけれど、それでも私は、聖書に教えられる通りの人格的成熟、人間関係、日々の働きにおいて、課題から逃げずに挑戦し続ける者でありたい。
【ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。】第二コリント4章