天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

プレッシャーが希望に変わる時

あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。
怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。
無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。
お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。

 

 

唐突ですが、新約聖書エペソの手紙4章から抜粋してみました。
これを読んで、あなたはどんな気持ちになるでしょう。


喜びや感謝が心に広がり、期待感と共にやる気が燃えてきますか。


それとも、責められているようで苦しくなり、劣等感や義務感で気が重くなりますか。


あるいは、あくまで理想論として流し、自分の現実に重ねて本気で向き合うことを避けますか。

 

 

こうであれと命じているみことばを読む時、私に起きる反応はこうでした。


自分は合格か不合格かを考える。

不合格としか言いようがない自分に落胆する。

私のような者は、神様も嫌だろうと思って悲しむ。

自己嫌悪して無気力になり、他の人が立派に見え、ますます落ち込む。

 

何かいいことがあったりして、自分のことを少しはマシに思えてくれば、浮上してきます。
劣等感と優越感の間を浮き沈みする感じです。

 


できているか、できていないか、

それが私の焦点であり、

それを白黒でジャッジしていたのです。

 


この厄介な傾向から、私は自由にされつつあると思います。

 

…気づきました?
今の表現にすでに違いが表れているでしょう? 


自由なのか、自由でないのか、もはや白黒ではジャッジしていません(笑)。

 

 

私の場合、大きく2つの点で、

自分の考え方の基準が聖書の真理に合わせて置き換えられたことがターニングポイントだと思います。

 

1つは、神様の愛は私の行いによって変わるものではないという真理です。

 

 

何度も聞いたことがあるかもしれません。
私自身、それはわかっているけど…という状態でした。


「けど…」が曲者です。


聞いたことがあるし、わかっているつもりなのです。

わかっているけど、それだけでは安心できなくて

実際は、できているかどうかで心が左右されてしまう状態と言えるでしょう。

 

 

「わかっているけど…」と言っている私は、

聖書が教えている真理よりも自分にしみついた価値観の方を、

実際は採用して生きているという事実を認識する必要がありました。

 

 


ある時、牧師先生が聖書勉強グループの中でこんな質問をしました。

 

「どうしたら、神様にもっと愛されると思いますか?」


「どうしたら、神様に愛されなくなってしまうと思いますか?」

 

 

私はすぐいくつか発言しました。

もっと聖書を読む、お祈りする、感謝する、親切にする、赦すこと、などなど。

自分では模範解答だと思っています。


二つ目の質問にも、同様にいくつも答えが浮かびました。


一通りみんなの意見が出た後、先生から驚きの言葉を聞くことになりました。

 


答えは、私たちにできることは何もありません。

私たちがする何かで神様の愛を増やすこともできないし、

逆に、私たちが何をしても神様の愛を減らすこともできません。

神の愛は、常に、これ以上もこれ以下もない完全な愛だからです。

神様は愛そのものなのです。

 

 

私にとっては衝撃的でした。


正しくわかっていない自分聖書の真理と違うことを信じている自分

否応なく直面させられた時でした。

 

 

生きる上で実際に採用している様々な基準の置き換えが、私の中で始まったのはこの時だったかもしれません。

 

 

嫌われるようなことをしたら嫌われる。

それが普通です。当然です。


しかし聖書は、キリストにある者が罪に定められることはないと断言しています。

神様の愛は一滴も減らないし、恵みは変わることがない。

神の完全な愛が、救い主イエス様においてはっきり証明されているのです。

 


その真理に重心をかけて考え方を移行していくに従って、

冒頭のような命令のみことばに対する私の反応は次のように変化していきました。

 

 

正しいあり方から大きく外れた私を神様は愛して、救い主を与えてくださった。


聖書に従うことがうまくできない私を神様は決して見捨てないで、なお導いてくださる。


自分でもうんざりするほどひどい私なのに、神様はそんなこと百も承知で愛してくださった。


なかなか変わらない私をあきれて見捨てるのではなくて、何度でも教え諭し、助け導いて、私が新しい生き方をするように、神様が責任をもってくださる。


何度でも赦して再出発させ、何度でも悔い改めに導いて立ち上がらせ、

何度失敗しても励まし続けて練習させる神様。


なんという恵みだろう。

ありがたい…。

 

 


神様の求めておられる基準から遠く外れているという罪の現状に向き合う痛みはあります。


でも、神様の愛や生きる意味を失うことへの恐れや不安はありません。


「このようでありなさい」という命令のみことばによって、

神様が私をどのようにしたいとお望みなのかがわかり、

それが私の目標として見えるのです。

 

そこには恵みによる希望が輝いています。

 

2つ目のポイントはまた次回。

 

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