天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

続・プレッシャーが希望に変わる時

聖書に示される「このようでありなさい」という命令を前にすると、喜びや平安が揺らぎ、頑張ろうとするけどかえってパフォーマンスが下がってしまう。
そういうことが、あなたにもありませんか。

 

私はそういう傾向が強くありました。

しかし、繰り返し福音を学び、時間をかけた信仰生活の指導にも恵まれて、その傾向から自由にされつつあります。

神様が望んでおられる新しい生き方を聖書の命令の中に見出し、そこから外れている自分を認め、感謝と希望を抱いて練習する方向へと、変えられてきているのです。

 

そのターニングポイントとして、聖書が約束している真理を実生活での判断基準に適用し始めたことを前回書きました。

 

 私を自由にした真理の2つ目、

それは、私を変えるのは主であるという真理です。


私という存在、また私の人生の総責任者は、もはや私自身ではなく、私の主イエス・キリストだということです。

 


聖書にこう書いてあります。

【私たちはみな、……栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。】(第二コリントの手紙3章)

 

このみことばは、私たちがみな、主イエスと同じかたちに変えられると約束していて、しかもそれは御霊なる主がなさる働きだと断言しています。


これが、「変えられるかもしれない」とか「変えられる可能性が高い」なら、安心できません。
また、「それは、御霊なる主の働きと、あなたの○○によります」と書かれていたら、望みが持てません。

 

しかし、キリストを自分の主と信じたクリスチャンがイエス様に倣う愛に生きる者となり、神様のお望みになる新しい生き方をしていくために必要なことは、神である御霊が全部一手に引き受けている、と私はこのみことばからも信じています。

 

もちろん、操り人形のように自分の意志や個性を失うわけではないし、何もしないで一晩寝たら別人のように行動するということでもありません。


何度も書いていることですが、私は意識して練習しています。
変えられてもいますが、失敗も繰り返しています。

 

ではやっぱり、神様がやってくださると言いながらも、与えられた目標に向けて結局は自分が頑張るしかないということじゃないか、と思われますか。

 

いわゆる自業自得、因果応報の判断基準が即座に起動し、聖書の約束が現実とは思えなくなる。

私自身、何度となく経験してきたことです。


しかし聖書は、こうも断言しているのです。

 

【神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。】(ピリピの手紙2章)

 

 

このみことばから、神様を主語に2つのことが見て取れます。


神様は、クリスチャンのうちに働いて、志を立てさせる。
神様は、ご自分が与えた志のために、必要な事をその人に行わせる。

 

前者は心の願いに働きかける神様、

後者は実際の行動を助ける神様、と言えるのではないでしょうか。


どちらも神様が成さることであり、働きかける領域の順序という見方もできるかもしれません。

 

神様の働きがなければ、私が聖書に教えられる通りに生きたいと願うはずはないし、新しい生き方をするために目標を立てたりするはずもない、という事実を私は認めるようになりました。


私にそのように願わせ、聖書で考えて目標を立てさせたのが神様なら、その実現のために事を行わせてくださるのも神様です。


私たちは、正しい願いや良い目的意識くらいは自分の意志から出ていると思いやすいのではないでしょうか。

そして、実行するための力だけが足りないと感じる。


足りない分の力を神様に助けてほしいという感覚で祈っているのかもしれません。


しかし、願いすら100%神様から与えられたものだと認めるなら、必要な力も100%神様にかかっていると信仰によって認めるだけです。

 

神様にかかっているなら、神様の手に負えない課題など何もないし、主が全部備えてくださると信頼してついていくだけです。

 

 「やっぱり無理だ、私にはできない」という言葉が、できないと判断する理由の数々と共に頭を占領してきているのに気づいたら、私はいつも先ほどの聖句を思い出して、自分の思考を修正します。

(気づいたら...と書きましたが、気づかせたのも御霊で、聖句を思い出させるのも御霊だと信じています。)

 

私にはそもそもできるはずもないことを、神様が願わせ、事を行なわせると約束しておられるのだから、できるもできないも悩むことではない...と。


神様が行わせるなら、できる。
そうでないなら、できなくていい。

 


つべこべ考えずに、主が語ってくださるみことばで考えて、一つ一つ実生活で取り組んでみよう。
うまくできても、できなくても、その様子を正確に知っていてくださる神様が、その時々の私に必要な次の指導を与えてくださる。

思いも力も与えてくださる。

慰めも休息も与えてくださる。


私をつくり変える責任者、専属コーチは神である御霊なのだから、と。

 

 

 

聖書という鏡が自分の間違い(罪や愚かさや醜さ)を映し出したなら

素直に非を認めて、主の前に事実や気持ちを打ち明けて悔い改め、

イエス様の十字架による完全な赦しを受け取り、

顔を上げて感謝し、恵みと栄光の主を喜び、

助けを祈り求めつつ再出発すればいい。

 

 

 変化を求めるみことばに愛を感じられず、命令と向き合うのを難しく窮屈にしてしまうのは、私たちにある罪の性質であったり、無知であったりするのでしょう。

 

みことばの前で苦し紛れに言い訳し、非を認めることなく顔を伏せて逃避するなら、かえって苦しくなる。

それはむしろ、本来いるべき安全地帯から外れていることへの警告アラームのような痛みかもしれません。

 

 

人が言うことや自分が感じることではなく聖書が約束している真理に立ち帰り実生活において常に思考を修正する練習こそ、希望のクリスチャンライフの鍵ではないでしょうか。


私自身、まったく地味に練習中ですが、

しかし、その希望を味わい始めているとも思います。


主の御名がほめたたえられますように!

 

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