口先だけでなく、真実に...
東日本大震災からちょうど5年を迎え、テレビでも特集が多く組まれている。
被災地を忘れないで思いを寄せてくださっている方々が実に多くいて、震災の影響にいまだ苦しむ人々の心と生活の復興のために尽力してくださっている多くの取り組みがあること、また、五年前に突如襲われた震災のゆえに耐え難い試練に直面しつつも懸命に立ち上がり前を向いて歩む方々がおられることに、胸を打たれ頭が下がる。
そのような意識で私自身を振り返るとき、仮設住宅が点在する地域に暮らしながら、自分は震災前とほとんど変わらない生活に戻り、自分はこの5年間でいったい何をしてきただろう?…と恥ずかしい気持ちにもなる。
なんとも言葉にならない感情が私のうちに入り乱れて、祈りの言葉にもつまってしまう。
聖書のみことばが心に迫ってくる。
【私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。】第一ヨハネの手紙2章
イエス・キリストの生き方に具体化された神の愛を、自分自身の生活圏において、行いと真実をもって表そうとしていくのがクリスチャンの歩みであるはず。
父なる神が、恵みによって神の子とされた者たちに望んでおられる神の子らしい生き方がそれであると言ってもいいだろう。
「口先だけでなく…」という聖書の問いかけに向き合うと、やはりドキッとせずにいられない。
痛いところを突かれて、うつむきたくなる私である。
私に何ができるのだろう...。
そんなふうに考えながら、どこか負い目を感じる方も少なくないかもしれない。
実際的にはできないことが多くでも、クリスチャンであるなら今すぐにできる具体的な愛の行いがあることを思い出そう。
天地万物を創造した全能の神に助けを求めて「祈る」という真実な奉仕だ。
私はどれくらい震災に苦しむ方々を心に住まわせて祈ってきただろうか…。
それが問われてしまう時だから、心が重くなるのかもしれない。
「祈っています」という言葉は「何もできません」ということを遠回しに表現するためのものであってはならない。
「祈っています」というセリフを言うのは簡単。
しかし、よく考えるなら、この言葉を安易に使うことは恐ろしくないか。
--本当に祈ったか—
その愛の行いについて真偽を証明するのは、主なる神ご自身だ。
言い訳も、ごまかしも通用しない。主は完全に心の中まで真実を見抜くお方。
私は、できているできていないということではなく、主の前に真実でないのに平気でいられる感覚を自分に見出して時々恐ろしくなる。
祈りこそ、軽々しく口先で済ませることはできないと感じるようになってきた。
私は、あまりにも愛に貧しく、祈りの乏しい者だ...。
「忘れないで祈る者であらせてください」と神様にお願いするしかない。
主イエス・キリストの恵みと内なる御霊の助けがなければ、真実に祈ることなどできない。
他者の苦しみも、社会の痛みも、直接的な影響がなければ簡単に忘れてしまう。
私はそういう者だけれども、こんな私でも継続的に誰かのために祈ることもあるのだから、もはや私ではなく主がこれを成させているのだとはっきりわかる。
祈りから生まれるものが確かにあると、祈りを聞かれる真実なお方のゆえに、私は堅く信じます。
祈ることができる恵みに感謝します。
このブログを読んでくださっている方に、真実な神様の恵みと平安がありますように。