祈りの世界
人にはだれでも祈り心があると思う。
人間ではない、はるかに高い領域におられる偉大な存在を思い、介入を望んで接点を得ようとする心の動き。
被造物である人間が自分のルーツである創造主を魂の奥底では知っているからだと思う。
このところ、聖書の詩編を味わっている。詩編はまさに祈りの言葉。
詩編を声に出して読み、黙想していると、その著者たちが体験していた神様とのリアルで親密な関係に「私の知らない世界」を見る。
それは、生ける神に向けられた本音の訴えであり、神との関係に生きる者らしい崇高な信仰告白で満ちている。
詩編を、創作ポエムではなく、我が神への祈りとして声にすると、このように祈れることへの強いあこがれと感動を覚える。
神様への絶対的な信頼の心。
また、神が神であるゆえに、親密でありながらも自分を低くし無礼をしない畏敬の心。
神がどういうお方であるかを正しく知ること、自分が何者であるかを正しく知ること、そして神様と自分との関係を正しく知ることによって、またそれらの理解が健全に深まることによって、祈りの世界はより豊かで生き生きとした神様との親密な交わりへと変えられていくのではないか。
私自身の祈りも、少しずつだけれども確かに変化してきた。
教会に通いながらなんとなく覚えて、当たり前のように使っている祈りの言葉に心が伴わない違和感をもった時期があった。
たとえば「御心が成りますように」という言葉。
私自身、あまり深く考えず、祈りに使う言い回しとして聞き覚え、クリスチャンっぽい決めゼリフのように使っていたような気がする。
(心のない祈りを平気で口にして、なんとも神様に申し訳ない…)
その後、「主の祈り」の講解メッセージを聞く機会が与えられて、「御心がこの地になりますように」の中身も学んだ。具体的には、教会のため、様々なミニストリーのため、牧師・宣教師などの働き人のため、魂の救いのためなど、御国が来るためのあらゆる必要について祈ることがこのカテゴリーに含まれると知った。
言うまでもないけれども、祈りにおいて、どういう言葉を使うかが重要なのではないだろう。
神様は、私たちの使うセリフ回しではなく、その言葉に込められている心に関心をもって耳を傾けてくださるお方だ。
子供が願いをこめてシンプルで真っすぐな祈りをするのを聞いて、大人が心を打たれるのはそういうことなのかもしれない。
いまの私が私的な祈りの中で「御心が成りますように」という言葉を使うとき、少なくとも2つの明確な決意を意味している。
まずは、自分の願いや考えを明け渡す決意。
どうしてもこうなってほしい、あるいは、これだけは絶対に嫌だ…など、利害や過去の背景も複雑にからんで感情的に執着している事柄を意識しつつ、それを具体的に告白することから始める。
そして自分の言い分を赤裸々に打ち明け、最後に信仰に立って神様こそが主であると認め、恵みによって救われた者として恵みの神に信頼する。
「このことについて、あなたの御心が成りますように。私の願いはお話ししましたが、それでも私が最も望むことはあなたの御心が成ることです。どんなことが実現したとしても、それが祈りの答えであり、あなたの御心だと信じます。」
このような明け渡しの告白に至るときほど、御霊の全面的な助けを感じることはない。
神様に明け渡して祈ったということは、「もう私には関係ない。神様の勝手にしていいから!」と捨て台詞で放棄したのとは違う。
むしろ、神様のタイミングと神様のやり方に委ねて、心からの信頼と服従を告白したということ。
だから、「御心が成りますように」と祈った上で実現した結果にケチをつけず、その道から退散することを考えず、精一杯関わります、という決意も込めて祈っている。
その決意すら全うできない自分を予測して、「自分が願う方向と違う結果でも主に信頼してコミットできるように助けてください」と重ねてお願いしておいて、意図的に心を定める。
すると不思議なことに、それまで抱えていた苦しいほど感情的な執着から自由にされたことに気づくことがしばしばある。
もちろん、たった一度ですっきり解決することばかりではない。
再び拒否反応や執着心で思い悩み、繰り返し明け渡す祈りへと導かれることもある。
しかし、何度でも明け渡すことで心は確実に自由へと変えられていく。
そこには、なんといっても、主が私の主として共にいてくださることを知る幸いがある。
私のただ中で、主の勝利をはっきり見せられるからだろう。
神様がなさりたいことのために、用いられやすい者へと整えられることが私の願い。
なぜなら、我が神は、御子イエス・キリストを一方的に与えて、滅びに向かうしかなかった私を闇から光へと救ってくださった恵みの主なのだから…。