生き方をトレーニングする
「敬虔」と聞いて、あなたは何を思うだろう。
特別に宗教熱心、修道院に入りそうな生真面目な信仰というのが一般的印象かもしれない。
ちなみに私は、敬虔という言葉が聖書に出てくる時、自己中心と反対方向にある「神様中心(の生き方)」という理解で読んでいる。
聖書が勧める敬虔を、神をうやまうことを示す宗教的活動であるとか、俗世を遠ざける聖人とか、あるいは誰をも敵にしないような善人をイメージしないでほしい。
「神様中心」とは、聖書に従って神を愛し、神が私たちを愛してくださったように人を愛そうとする具体的な生き方だ、と私は考えている。
基準は、人がどう思うかではなく、神様がどう思われるかであり、その答えを神のことばである聖書に求める生き方。
聖書を基準にした「正しい生き方」「神様に喜ばれる選択」が、一般的にも喜ばれ、肯定的に認められるとは限らない。
聖書に従って愛する選択をしたつもりでも嫌われることがある。
理解されず、不本意な悲しい反応に耐えなくてはいけないこともある。
リスクのある選択での失敗が予想外の痛手となることもある。
そういう時、つらくないと言えば嘘になる。
しかし、それでも私は、神に喜ばれる選択を鍛錬し続けたい。
敬虔という生き方は、単なる想像では的外れになるし、クリスチャンになれば自動的にわかるというものでもない。
前回、「敬虔のための鍛錬」というのはすべての人の一日に絶え間なく繰り返されるあらゆる選択において、神に喜ばれる選択を主体的に繰り返していくことだと紹介した。
生活全体が敬虔のための鍛錬になっていくという視点が、私にもたらし始めている充実感を書いたつもりだ。
私には筋トレのイメージが浮かぶ。
一回の主体的な選択はダンベルを一回持ち上げたこと。
ダンベルの重量は選択の難しさに例えられるかもしれない。
自分のコンディションや時と場合により難易度や負担感は異なるだろう。
決意をもってトレーニングを始めたとして、最初は軽いもので十分。
重いのが持ち上げられなくて当然だし、怪我や事故を避けるためにもふさわしい助言に耳を傾けながら、段階的なステップアップの見通しをもつ必要がある。
後が続かないような非現実的目標は持たない方がいい。
一日にある無数の選択がダンベルを持ち上げるチャンスだとすると、一回を軽んじることはできないが、とはいえ、その一回で全てが決まるわけでもない。
好調でも不調でも地道にコツコツと継続的に反復することで、少しずつ霊的筋肉のようなものが確実についていくイメージ。
もちろん、使わないでいれば、その霊的筋力はまた弱くなっていく。
つまり、神様に喜ばれる選択を放棄し続けるなら、信仰者らしい言葉を時々使ったとしても、敬虔な生き方の実体はほとんどなくなっていくということ。
しかし、なまった肉体も再び鍛えることが可能なように、敬虔も信仰の決意(悔い改め)によって何度でも鍛錬し直すこともできるから恵みだ。
「敬虔」とか「信仰」という漠然とした概念を、「成長させる」とか「磨く」とか「鍛錬する」いう、これまた漠然とした言い方で表現されるテーマについて筋トレに例えて具体的にとらえてみた。
どんなことでもそうだと思うが、何かの成功などある目的のために具体的に取り組むことをステップとして明確にすることは、目的達成と切り離せない重要事項だろう。
少し極端に例えて言うと、
宇宙飛行士を夢みている少年が、宇宙飛行士になるために自分がこれから具体的に何を身につけていく必要があるかを考えることがないままなら、宇宙の写真を毎日眺めていたとしても、彼が現実に宇宙飛行士になることは決してない。
同じように、「信仰が強くなりますように」とか「神様のために生きたい」と漠然と願っていても、それが何を意味していて、そのために何をしたらいいのか具体的に考えることもなく、具体的なチャレンジを何も実行もしないなら、その願いは「宇宙の写真」と変わらないのではないか。
鍛錬された敬虔なクリスチャンライフは、恵みにあふれた幸いに違いない。
神に喜ばれる選択を主体的にしていくためには、何が神に喜ばれるのかを知っていることが前提となる。
すべては聖書を学び続けることを土台に、生活の中で意識的選択を重ねていく鍛錬抜きに近道などないと、私自身、再確認しているのだ。
そして聖霊は、神様に喜ばれることを成そうとする取り組みにこそ、豊かに働いておられるはずだ。
何をすべきかが具体的になる...それだけで目標に向けて一歩踏み出したということなのだから、課題だらけであり、苦労や失敗が避けられないとしても、喜びと希望が私の背中を押している。
光の子どもらしく歩みなさい。
--光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです--
そのためには、主に喜ばれることが何であるのかを見分けなさい。
エペソ5章