スタートライン
「初心忘れるべからず」
「原点に帰る」
誰もが知っている言葉であり、その重要性をなんらかの形で経験したこともきっとあるだろう。
先日、クリスチャン映画『復活』(ケヴィン・レイノルズ監督 ジョセフ・ファインズ主演)を観た。
座席5列ほどの小さな劇場で、観客は私を含め7−8名。
採算がとれないかもしれないのに仙台で上映されたこと、一人静まって鑑賞できたことに、私は神様の計らいを深く感謝した。
私には「原点に帰らされる」ような時間だったからだ。
創造主である神に背を向けて自らの罪のために不自由に生きるしかなく、どんな人生を歩もうとも死後の裁きから逃れることができない人間のために、裁き主である神が人となってこの地に降りて来られ、救い主として十字架で身代わりに裁きを受けて、神の完全な愛と義とを立てられた。
主は、救いの業を完了され、死に勝利し、復活して今も生きておられる。
イエス・キリストを信じるなら、人生も死も本質が変わり、神の永遠の裁きを恐れる必要もない。
このような神がおられる。
ご自身の言葉をことごとく成就される真実なお方がおられる。
尽きることのない赦しと惜しみない恵みをもって、導いてくださる救い主がおられる。
映画を観ながら、復活のイエスに出会った人々のあふれる喜びや満ち足りた確信の眼差し、その真実に衝撃を受け変わっていく姿が心に迫ってきた。
イエス様がまことの生ける神であり、主がどんなに素晴らしいお方であるか、その感動が私の心を突き上げた。
私は、主ご自身をただ慕い求め、主の麗しさに満ち足りて、主と共にある人生を単純に瑞々しく喜ぶことを忘れていたのではないか...。
いつか必ず主に直接お会いできる、主は私をはっきりと知っていてくださる。
私は、このような素晴らしい主と共に永遠に生きることができる。
そんな幸いをいただく資格は何もなかったのに、むしろ絶望的な失格者でしかなかったのに、ただ一方的な恵みによって、私は主の十字架によって罪を赦され、永遠に住まう世界が闇から光へと変えられた者なのだ。
私の希望は、復活の主、イエス・キリスト。
今週の礼拝メッセージでは、神のしもべとして神のミッションに仕える生き方が語られた。その歩みを妨げる恐れ、直面する苦しい現実が確かにあることも。
そして、厳粛に、このような問いかけで結ばれた。
「あなたにとって、福音の価値はどのくらいですか?」
嫌な思いをするくらい何でもない、と言えるほどの価値もないのか...。
疲れるとか、傷つくとか、誤解されたり恥ずかしい思いをするとか、摩擦が生じたり反発されたり避けられたりするとか、納得いかなくても理解に努め譲歩すること、失敗の痛みを負い、腹立たしくても赦す選択、孤独を味わうこと、自ら不自由に甘んじること、報われない空しさに耐えるとか...。
聖書の価値観で生きようとしているのに成果が見えなくて、悲しい、つらい、うまくいかない、という現実は確かにある。
笑いが止まらないような冒険とは違う、地味な葛藤の日々。
だから...?
それなら、もうやめるの?
気の向くまま嫌なことは避け、自分の罪をごまかし、保身に逃げるのか...。
苦しむほどにはキリストに従いたくないのか...。
イエス様に似た者に変えてくださるという神の約束を信じて、恵みに頼りながら祈り、日々チャレンジしていく歩みを、ここで投げ出すのか...。
神様のことばを聞き流し、主の前に顔を伏せて、自分を変えようとしないテキトー路線を走るのか...。
「あなたにとって、キリストであるわたしの価値は、どれくらいか?」
映画のエンドロールが流れ、真っ暗な劇場の中で、私はその問いかけを受けたような気がした。頭を垂れ、心に浮かぶこと一つ一つ、悔い改めの祈りをささげた。
福音の価値、キリストの素晴らしさ、救いの圧倒的な恵み。
それが私のスタートライン。
主よ。このスタートラインに、いつも私を立たせてください。
イエス様、私はあなたを愛します。