本当の幸いを知る道
【みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。...自分は宗教に熱心であると思っていても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。】ヤコブの手紙1章
クリスチャンとして誠実にみことばに向き合うなら、心を刺されずにいられない聖書箇所の一つではないかと思う。
痛いところを突かれて、後ろめたさや反発の感情が入り乱れるかもしれない。
だって...、でも...、っていうか...、などと言い訳が頭の中を駆け巡ることもあるだろう。
考えないことにしよう...という方向で不快感からの脱出を試みますか。
それとも、ダメな自分を見つめ、落ち込みやすいですか。
私自身、そういう誤った反応に陥りやすい者だと自戒をこめて振り返る。
しかし、聖書のことばに心を刺されたなら、それは祝福ではないか。
ダメ出しは確かに気持ちよくはない。
それでも、神様からの「変わりなさい」「悔い改めなさい」という迫りは、100%愛だと思う。
聖書のことばが力をもって迫ってくるのは、神様の恵みに他ならない。
神様は、ありのままの、つまり罪あるままの私たちを愛して、イエス・キリストという救いの道を備えてくださった。
しかし神様は、キリストを信じる者たちが、信仰を持つ前と同じままであるのを喜ばれない。信仰者らしく、イエス・キリストを自分の主とする者らしく、聖書で考えて聖書で行動するように、新しい生き方を教え、みことばに従うように命じている。
そこに、信仰者のいのちがあるからだ。
聖書が教えるように変えられていくことこそ、クリスチャンとして本当の幸いを知る道だと私は思う。
今週の礼拝メッセージで、私は罪について教えられた。
誰もが日常的にやっていることも、世の中で罪に問われるような大げさな悪事でなくても、私たちは聖書で罪を認識する必要がある。
明確に罪かわからない場合も、そのことが神様に喜ばれるかどうか、一呼吸おいて考えた時に疑問が残るなら避けるべきであろうと。
心刺されるメッセージであり、本当の幸いへと向かわせる真実な聖書の解き明かし。
数日後、私は早速、このメッセージの実践テストを受けることになった。
その日は用事があって車で外出。目的の会場には駐車場がないので、パーキングを探していたら広めの駐車場があるドラッグストアが目に入った。
「あ、ちょうどいい。ここに停めさせてもらっちゃおう。」(心の声)
一応そこで買物をして、店の袋がよく見えるように助手席に置いた。
「これでよし。もし店の人が不審に思って見に来ても大丈夫だよね。私は買物客だから。」
...あぁ、恥ずかしい。これが私のありのままの姿。
車から離れて歩き出してすぐ心がもやもやしてきた。
礼拝メッセージが思い出され、葛藤が始まる。
「いや、だって、買物したもん。広いし。二時間くらいだし...。」
心の中で飛び交う正当化の言い分を終わらせたのは、冒頭に書いたみことばだった。
降参だ...。
店の人が黙認してくれたとしても、直接だれかに迷惑をかけなかったとしても、神様がこのことを喜ぶとは決して言えない。
私は車に引き返し、さらに離れた所にある有料パーキングに入った。
たった数百円を惜しむ愚かな行動。
私の車一台くらい迷惑にならない、二時間なんて短いもんだと、自己中心的な基準で考えて罪に鈍感な自分の実体に気づかされ、悔い改めて祈った。
すると、先ほどのみじめな気持ちから一転、なんとも心が晴れ晴れして感謝があふれてきた。
よかった...。あのまま平気でズルして得した気分で終わらなくて、神様が方向転換させてくださった。ありがたい...。
神様のことばと神様の助けがなかったら、私は自分を欺いたまま、むなしい“信仰生活”しかできない者だ。
【あなたは、自分は富んでいる、豊かになった。乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。...わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。】黙示録2章
自分の心を欺いている...とは、こういうことなのだろう。
自分が何をしているのか、どんな状態なのか、本当のことがわからない。
持つべきものを持たず、罪にまみれているのに、まずまず合格のつもりで平然と過ごせる。
そのままで最終的に神の前に立つ時が来たら、一体どうなるのか。
みことばに心を刺されたら、失敗に気づかされたら、素直に認めて悔い改めよう。
そして「みことばを実行する人に私を変えてください」と、恵みの神に助けを求め続けよう。
私は変わることができる。
なぜなら、神様にはそれがおできになるからだ。