小さなことから
先週、夫婦で北海道を旅行してきた。
その時のエピソード。
仙台空港から千歳へ向かう飛行機が早朝だったので、朝食は移動中にコンビニで買って済ませることにしていた。そのコンビニで私は朝食分に加えて1つ多くパンを買おうとしていると夫が一言。
「それも食べるの?」
「これは明日、山で食べる分。これ、あんまり置いてないから買っておくの」
(翌日は夫婦で大雪山に登る計画だった)
「あっちで買物するんだから、ここでわざわざ手荷物増やさなくていいでしょ」
「でも、このパンは一口サイズで山にはぴったりだし、好きなんだもん」
「だから、あっちで買えばいいでしょ」
「はーい」と、私はそのパンを棚に戻した。
私は夫の判断や助言には基本的に従うと、聖書の教えによって心を定めている。
だから、私の主張が却下されたことへのわずかな不服が残る心の中で祈った。
「神様、むきにならずに従うようにさせてくださり感謝します。あのパンが北海道で買えますように。」
千歳空港からレンタカーで移動中に旭川のイオンで様々まとめて買物。
しかし、あのパンは見つからなかった。
途中コンビニにも寄ったが、品揃えが違って、あのパンがない!!
ーーーほら、やっぱり朝のコンビニで買っておくべきだったんだよ〜!(心の声)
朝の一件など忘れたかのように目的地を目指して走行中の夫に私は言った。
「ねぇ、朝のパン、やっぱりこっちで売ってなかったよ。残念だなぁ。」
嫌味はなく、サラリと会話にした。
朝のやりとりを思い出して、「そっか、なかったか。残念だったね。」くらい言ってくれたら、「うん。でも他のを買ったから大丈夫。」と機嫌よく答える気持ちだった。
ところが夫は、買物や移動に時間がかかりすぎてホテルチェックインに遅れることが気になっていたらしく、そっけない口調でこう言った。
「あ〜、あれか。いいじゃん、そんなの。」
「!!!」(はぁ?そんなの?!...私は言葉を飲み込む)
確かに、他のパンでも問題ない。
しかし私には「パンはどれでもいい」というより、「妻の願いなんてどうでもいい」というメッセージとして伝わってきて、とても悲しくなってしまった。
ラジオの音声だけが空しく響く無言の車内で、心が曇っていく。
あーそう。私の気持ちなんで、どうでもいいってことね!
私の思考はどどっとネガティブモードに染まりかけた。
しかし、その時、聖書のことばが私の心に割り込むように働きかけてきた。
【怒っても、罪を犯してはいけません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。】エペソの手紙4章
ーーーそうだ。こんなことで不機嫌になったら、始まったばかりの旅行が台無しになるだけ。夫は旅行の全体を気にかけ、明日の山の天気や装備も考えながら、長時間運転してくれている。今朝は、聖書の教えに従って夫の言葉に従ったんだから、主がわかってくださっている。主は私の選択を喜んでくださる。それで十分じゃないの。こんなつまらないことで夫婦が険悪になったら、それを喜ぶのは悪魔の軍勢だけ。あぶないとこだった。神様、気づかせてくださって感謝します。ーーー
私は明るく話題を変え、翌日の登山計画を確認したりして和やかにドライブを楽しんだ。
無事にホテルに着いてくつろぎながら、夫の判断や言い方を責めたり、ふてくされた態度になったりしないように守られたことが嬉しくて、心から主に感謝した。
パンなんて、どうでもいいわ...心からそう思えた。
主が共にいてくださる。
この祝福こそ、最高なのだから。
食いしん坊な私のお粗末ぶりを披露したが、私の信仰生活はこのように小さなことの連続で導かれている。
一歩一歩、自分の足で上り下りする登山のよう。天を仰いでみことばを慕うか、足下ばかり見つめて自問自答を繰り返すかの違いは大きい。
主の介入がなかったら、私はいとも簡単に愚かな感情の奴隷になってしまう。
私たちの心は、たいてい、ささいなことを火種に強情になり、余計な一言を口にし、プライドも手伝って批判や対立へと、愛する道からそれてしまうのではないか。
そして、自分自身や正義を守っているつもりで、実は備えられている祝福を自ら放棄してしまうのかもしれない。
小さなことでへりくだって従順できないなら、もっと重要なことで、どうして夫に従う選択ができるだろうか。
小さなことで明け渡すこともできないのに、神様に信頼して自分の執着を手離すことなどできるだろうか。
失敗しても恵みの中。小さなことで日々練習できるのは、神のご配慮、深い愛。
【賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。】エペソの手紙5章