天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

人生の下り坂

最近、有料パーキングの駐車券を立て続けに2回紛失した。

出口で精算するための駐車券なので、当然パーキングから出ることができない。

どちらの場合も係の人を通じて管理会社に連絡をとり、身分証明などを経てほどなく駐車場を出ることができのたが、ぐったりと疲れ、心にある種のダメージが残った。

自分が確実に衰えているというダメージだ。

様々な機能が下降してきて、もはや「これまで通り」を維持できなくなる領域に入ったことを自覚させられるダメージ。

 

人の名前が思い出せない、漢字を忘れる、何を取りに来たのかわからない、新しいことがすぐ覚えられないなど、いわゆる物忘れは徐々に受け入れてきた。

しかし、ほんの数時間前に手に取り、確かに持ったはずの駐車券がどこにもない。財布、バッグ、手帳、ポケット、あちこち探してもない。

いつ手から離したのか、どこに置いたのか、そもそもどこにしまったのか、自分の行動が全く記憶にないというショック。

記憶の糸をたどる糸口すら覚えがないとは...。

50歳が近くなってきたとはいえ、異常ではないか。

先が思いやられる

健忘症か。

なんともいえない虚脱感に襲われた。

身体や行動だけでなく人格的な部分も司る「脳」の機能低下がこれほど恐ろしく感じるとは思わなかった。

 

衰えや老いは当然受け入れていくことだと漠然と考えていた。

親も老いて、病気を患い、病院で看取った。

13年間共に生活した愛犬も数年前に逝ってしまい、今は20歳になろうとしている老猫を最期まで世話すべく見守りながら、色々なことを考えさせられている。

 

これからは夫婦二人家族の老後が待っているのだ...。

そしていずれ、うまくできない、時間がかかる、頑張りが裏目に出る、そういうことが日常生活でも増えていくのだろう。

人の役に立つより、人の助けを素直に受けることを学ぶ必要に直面するのだろう。

嘆きや不平に陥るのではなく、弱さと共に感謝と謙遜さが身に付くことを心から神に願う。

 

 

健康こそが宝、健康第一。

そのような言葉に、いつしか私も敏感に反応するようになった。

確かに健康は尊い。

ますます意識して健康管理に努めたいと思う。

年輩になっても元気にもうひと花咲かせようという意欲も素晴らしい。

しかし、「健康」も「命」もいつかは必ず失われていくものだ。

それを健全に受け入れて生きるには準備が必要ではないか。

 

健康が「最後の砦」なら、その砦はいつか崩れ始め「死」が迫って来る。

あなたにとっての「最後の砦」は何ですか。

家族ですか、キャリアですか、財産ですか、プライドですか...。

私の「最後の砦」は、イエス・キリストなる神様だ。

この砦を乗り越えて私を絶望させることができるものは何もない。

人生後半、これからの喪失期を歩んでいく中で、

なおますます、神のことばは私の避け所、憩いの要となるのだろう。

今のうちに、もっともっと御言葉を内に蓄えておきたい。

 

  あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。

  あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。

  わたしはそうしてきたのだ。

  なお、わたしは運ぼう。

  わたしは背負って、救い出そう。(イザヤ書46章より)

 

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