愛の神を疑いますか?
神様、厳しいなぁ...。
そんなふうに思う事、ありませんか。
悲しい出来事が重なるとき、苦しい状況が長引くとき、祈っても祈っても解決どころか追いつめられていくとき。
神様は何をしておられるのかと悩みますか。
神様の愛を疑いますか。
ほとんど無意識で自分本位の私たちは、自分を心地よくしてくれることを愛だと認識しやすいと思います。
しかし神様の愛は、時として「悲しませる愛」だと聖書は教えてくれます。
【霊の父(神様)は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、その時は喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。】ヘブル人への手紙12章
神様の愛は真実で、ご自身の子とされた信仰者たちを養育、訓練する働きにも全うされます。
神様は、正しくふさわしく懲らしめる。
私たちの内から罪の性質が取り除かれるため、キリストの性質が豊かに実るために。
私たちが神の聖さにあずかるためになら悲しみを通過させることをも良しとし、御言葉が教える正しいあり方を私たちが真に学ぶために懲らしめの手を中途半端に緩めることはない。
創造主なる神様こそが、私たちの益、つまり人にとって本当の幸せをご存知なので、それを与えるために「愛されていると思われない方法で愛すること」も最善をもって実行できる。
恵みの神であると同時に全知全能の神だからこそ、全うできる愛し方と言えるかもしれない。
神様は、愛することと甘やかすことを決して混同しない。
私たちの感情や態度に操作されることもない。
それが人間である私たちには、時として「厳しい、冷たい」と感じさせるのだろう。
しかし神様は、私たちの課題と共に、私たちの全てを完全に知っていてくださる。
あわれみ、慰め、支え、力づけ、御言葉をもって正しい方向へ導き続けてくださる。
そうして、それぞれの成長段階にふさわしい訓練を絶妙に与え、耐えられないような試練には会わせない。
私たちにはわからなくても、恵みの御手が必ず共にある...。
私は、疑いやすく、浮き沈みしやすい者だった。
自分はすべきことをしないくせに、都合よくやさしくしてほしい甘えから、神の沈黙にいじけたり怒ったりした。
しかし今は、十字架のキリストによって現された愛の神を疑うことは決してできない。
恵みによって、真に幸いな信仰の道を歩ませていただける感謝が尽きない。
聖書の真理をまっすぐに教えられる機会に恵まれ続け、まことの神がどのような方なのかを聖書から学び続けてきたからこそ今がある。
しかし、それでも、置かれている現実を前に弱りきってしまうこともある。
主の御名を呼んで涙をこぼしても、状況は変わらない。
状況は変わらないけど、主はご自身を御言葉で示し、慰めを与え、耐える力を与え続けてくださる。
涙をこぼしながらでも、主キリストを喜び、信頼と感謝を告白し、神様の素晴らしさを賛美する心が引き出されてくる。
私は、神の聖さにあずかりたい...。
解決は見えないし痛みも小さくはないけど、心の平安があり、喜びがある。
神の方法で訓練された人たちに約束された世界に導かれつつあると信じる。
私の周りにも、本当に熱心に主を愛して歩んでいるのに困難や課題を抱え続けて頑張っている信仰の仲間たちがいる。
彼らのことも助けを祈りながら、最後にはこの事にも神様の深い御計画と真実な愛があると信じる告白に導かれる。
なんとなく全部うまくいく、問題もなく快適で心地よい毎日...。
神様はクリスチャンにそんな生活を約束してはいないし、勧めてもいない。
私たちにはやさしく心地よく、望ましく思えても、ずっとそうであることは必ずしも祝福ではないのだ。
神様は愛する者を甘やかさない。
神の愛は完全で、明確な目的をもって実現していく。
その目的とは、私たち一人ひとりがキリストに似た者となって、主の栄光となるため。
神様、あなたの懲らしめを感謝します。
あなたが成すべきことをしてくださらないのではなく、
私がまだ気づくべきことに気づかず、成すべきことをしていないのです。
赦してください。あわれんでください。
主への信頼と忍耐を増し加えてください。
あなたがお望みになる通りに、私を造り変えてください。
【神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。】ローマ8章