天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

真の友とは...

私は友だちに恵まれている...。

本当に、年々、そのことへの感謝が増し加わっている。

 

いつの時代も、心を通わせることのできる友が近くにいて、そして卒業後何十年と過ぎた今になっても互いを大切に思う関係が続いているのだから、なんという幸いだろう...。

今になって考えると、神様がこの友達関係の領域を特別に祝福して私が生きていけるように守っていてくださったとしか思えない。

 

若い頃、「友達、友達」とすぐ口にする私に親が何度か話してくれたことを今でも覚えている。誰でも一度は聞いたことがあるようなことかもしれない。

 

「本当の友というのは、生涯かけて一人か、せいぜい二人できるかどうかの宝のような存在で、自分のすべてを分かち合えるような人のことを言うんだよ。」

 

その当時はわかったつもりでいたけど、年を重ねた今、この言葉の重みがわかってきた気がする。

 

聖書に出会い、イエス・キリストを信じる信仰を与えられて、聖書から愛することを学びつつ生きるようになって、「友」というテーマは私にとってさらに大切なものになってきている。

 

 

ある本の一文が私の心をとらえた。少し長いけれどもここに引用させていただく。

 

霊的相乗作用の原則はクリスチャン生活のあらゆる面に適用するが、聖性の追求においては間違いなく助けになる。私たちには、心を通わせて共に祈り、励まし、必要ならば戒めてくれる人が、少なくとも一人は必要である。この人(または人々)もまた、その人自身の生活で罪を死に至らせる闘争に深く関わっていて、私たちの戦いにも参入することができ、私たちの底知れず深い罪の本質につまずかない者でなければならない。

ピューリタンたちは、《すべてを完全に打ち明けることのできる「真の友」を与えてください》と神に祈った、と言われている。私たちの生活における罪を死に至らせる闘争で私たちの助け手として、私たちが神に祈り求め、また捜し求めるべき友とは、このような友に他ならない。

(『恵みに生きる訓練〜聖性の追求を果たすために』ジェリー・ブリッジズ著より)

 

前後がわからないと理解しにくい言葉もあると思うが、私たちには真の友が必要であり、また真の友というものが、どういう人で何をし合う関係なのかを考えさせられた。

 

この友は、心と生活から罪の性質が取り除かれ、キリストに似た者として聖くされていくことに具体的に取り組み、その目的(切なる願い)が共有されている関係

そのために ---まさにそれを「戦い」と表現しているわけだけれども---  共に祈り合い、正直に語り合い、励まし合い、助け合うことができる人。

そのように同じ戦いを戦っている味方として同じ目的と同じ基準に生きるがゆえに、「必要ならば戒めてくれる人」なのである。

 

愛や信頼関係の真価が問われるのは、互いの間に違和感や葛藤が生じた時なのではないだろうか。

共有している目的のために、一時的に互いの間に緊張や摩擦が生じるとしても真実な忠告や戒めの言葉を告げることができるのが真の助けであり、真の友であろう。

 

聖書にもこのように書かれている。

【あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。】箴言27:5−6

【あざける者はしかってくれる者を愛さない。知恵のある者にも近づかない。】箴言15:12

【訓戒を無視する者は自分のいのちをないがしろにする。叱責を聞き入れる者は思慮を得る。】箴言15:32

 

耳に痛い聖書の真理だ。

 

戒める者は愛と真実をもって知恵深く語り、聞く側もへりくだって耳を傾ける。

衝動や感情に支配されず、誠実な対話をしようとする

素直に心から謝ることもできる。

動機は愛だと、互いに信頼しているから…

 

そうして御霊によって悔い改めに導かれたり、双方共に真理に気づかされたり、心を一つにして最善を祈り求めることができるだろう。

 

もう一つ重要なことは、著書の言葉を借りるなら「互いにある底知れず深い罪の本質につまずかない者」ということではないか。

 

私たちは互いに、ふさわしく助けたり忍耐強く愛するよりも、裏切ってしまったり、大切な人ですら傷つけたり失望させたりしてしまう罪深さを持っている者同士だ。

だから、戒め合うことだけでなく、キリストを互いの間において「赦し合う」ことができる関係でなければ、どうして正直に深く関わることなどできるだろう。

 

私たちはみな、神の御子であるキリストが十字架で身代わりに処刑される以外に救いの道がなかったほどの罪人である。

絶望的に堕落している。

責任転嫁、自己防衛、自己中心がしみついている。

 

赦し合うことを抜きに、どうして真の友となり得るだろう

赦しがあるから、真に愛し合うことを追求し続けることができるのではないか。

 

傷つく、期待がはずれる、願いに応えてもらえない、イライラさせられる、誤解された、責められた、忙しい、時間がとれない、疲れる、嫌な面が見える、話が合わない、感じ方や考えが違う、気持ちを理解できない、感情的になる、隠す、ごまかす、すれ違う、忍耐できない、環境や立場が変わる、などなど...。

人間関係において、そういうことを完全に避けては通れまい。

 

そんなことで関係が壊れるなら、厳しい言い方をするなら、それは利害や興味の一致によって成立したただの「仲良し」に過ぎなかったのではないか。

 

 

 

---友であることを追求することは、キリストの愛を追求すること---

これは私の友がクリスマスカードに書いてくれた言葉。

彼女は超多忙な生活にあっても、この言葉どおりに「友であること」を追求してくれている。

 

また、赦しの友もいる。

かつて私は、被害者意識と不平不満で精神状態を狂わせた時期があった。

心配して自宅を訪問してくれた彼女を前にして「今の私には友だちがいない」と冷たく言い放ったことがある。

しかし、彼女は傷つきながらも私から距離をとるどころか、弁解も反発もせず、友を孤独にさせた自分のあり方を変えようとし、言葉のナイフを振り回しているような私になおも近づいて愛を示してくれた。私には真似できない...と今でも頭が下がる。

彼女の誠実と忍耐と寛容が和解を導き、その愛と祈りによって真の友への扉が開かれた。

彼女は、私が信仰によって回復できるように、心を砕き力を尽くしてくれた。

 

 

私は本当に、友に恵まれている...。

神様、ありがとうございます...。

 

愛するとはどういうことかを聖書を通して正しく知り、キリストに従っていく歩みは、一人ではできない。

 

神のことばである聖書と十字架のキリストを中心にして互いの人生を分け合う真の友を感謝し、ますます神様に乞い願い続けよう。

私自身が真の友となり得るよう、主にある成熟へと助け導いてください...。

 

【鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。】箴言27:17

 

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