天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

夫の救いを祈る日々に

三年前、このブログをまだ始めていない頃、私はこんな事をSNSに書いていた。

 

 

三浦綾子さんのエッセイ『丘の上の邂逅』を読んでいて、随所で心を打たれる。
少し長いけど、そのまま一部引用。

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「北海道のよさは何か」と尋ねられた。わたしはためらわずに、寒いことだと言った。

もしこの旭川が、きびしく長い冬を持たなかったら、それは何とつまらぬ所であろう。長い冬の中で、人々は耐えるということを学ぶ。自然の厳しさに耐えるということである。それはまた、人生の厳しさに耐えるということでもある。
しかも、ただ漠然と耐えているのではない。
そこには、春を「待つ」という積極的な姿勢がある。
希望がある。待って待って、待ちくたびれるほどに待った果てに春が来る。
春を迎える喜びは、北国の者でなければわからない。
むさぼるように春を楽しむ。道ばたに咲くタンポポにも、庭にふくらむ木の芽にも、大いなる驚きと喜びとをもって、わたしは体全体に春を感ずる。
(中略)
かくして、長い冬を持つわたしたちは、一年の四季それぞれを緊張に満ちた思いで過ごすのだ。つまり寒さが旭川に生まれ育ったわたしを育ててくれた最も大きなものなのだ。
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私は東京で生まれ育ったが、結婚して宮城県民になった。
海も山も近くにあり自然が美しく、街も発展し、食べ物がおいしいこの地が、私は大好きで東京に戻りたいと思ったことは一度もない。


北海道とは比較にならないが、私もここに暮らすようになって「東北の夏は短く、冬は長い」とつくずく思っていた。
どんな天候でも朝夕に愛犬フジの散歩をした13年間。
寒さがゆるんでくる気配、冬枯れの地面に小さな雑草の緑を見つけた時の嬉しさ、つくしが顔を出しタンポポの黄色が広がる幸せを、この東北に来て知った。
だから、私も「春を迎える喜びを知る者」の端に加えてもらえるだろうか...。

 

それにしても、三浦綾子さんのこの文章を読み終えて私の心に広がったのは、
私が待って待って、待っている「春」は、
教会から離れて長い私の夫の救いだ....という思いだった。
夫と共に、主なる神を心から礼拝し、まことに賛美をささげるそのときが、私の待ち焦がれる春だ。
私は確かに春を待っている。
積極的に冬を耐え、信仰をもって待つことを教えられていると思う...。
祈りが心にあふれ、三浦綾子さんの言葉に深く慰められた。

 

聖書のことばが思い浮かぶ。


『それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』ローマ5:4-5

 

三浦綾子さんはこのみことばのような方だ...と思わずにいられない。
私も、10年、20年かかっても、このような人に変えられていきたい。

 

 

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三年経った今、私は同じような思いで、いやますます切なる思いで「春」を待ち望んでいる。

このブログにも以前、夫の救いを待ち望んでいることを書いた(神の時を待ち望む - 天国途上 〜生きること思うこと〜)。

 

私はまだ「春」を見ていない。

 

しかし、神様が必ず私の春を備えてくださっているという確信は、私自身が信仰に恵まれている喜びと感謝とともに、三年前よりも圧倒的に増していると言える。

良い兆しがないまま三年が過ぎて、あきらめに飲み込まれるどころか、

必ず神様の時が来る!

最善の時が備えられている!

...という希望が私の心を覆い満たす。

 

それは、私の希望の根拠が純化されてきたからではないかと思う。

漠然とした楽観や人に対する期待ではなく、ひたすらに恵みの神様だけに望みを賭けるようにされたからだと思う。

それ以外に賭けた望みは一つ一つ砕かれてきた10年だったとも言える。

 

いま、私の希望の拠り所は、神様のみことばにある

だから、人や状況が私を一時的に悲しませたり疲れさせたりできたとしても、私の希望を奪い去ることは決してできなくなったのだ。

 

この希望は失望に終わることがない...と私は知っている。

 

また、夫の救いを願う動機も苦しみの中で問われ、私の本音が明らかにされ、悔い改めに導かれ続けた。

最初は、突き詰めると「自分がいい思いをしたいから」だった。

次は、かけがえのない夫に幸いを得てほしいから...となり、今はそれ以上に主のために、教会のために、夫婦で心を一つにして仕えたいという願いが強い。

主の栄光の証しとなりたい、人々に主キリストを賛美してほしいから...。

 

今が長い冬だとするなら、

三浦綾子さんの言葉を借りるなら

「長い冬の中で、人々は耐えるということを学ぶ。...春を迎える喜びは、北国の者でなければわからない。」

と言い得えるような、ほんとうの幸いを味わい知るために不可欠な恵みの時そのものを私はじっくり歩ませていただいているのかもしれない。

 

三年前に私は、「このような人に変えられたい」と祈りをもって結んでいる。

神様はその願いに真実に応えて、これまでの時を導いてくださったのではないか。

春が神様の恵みならば、冬もまた尊く備えられた恵みに他ならない。

 

 

主よ、冬が早く終わるように、そればかり考えて一喜一憂し、

厳しい季節に込められたあなたの測り知れない恵みに鈍感で感謝が乏しかったことを赦してください。

冬がなければ、どうして春の感動を知ることができるでしょう。

主よ。

私に待って待って待ち望む忍耐の期間を与えてくださって感謝します!

 

 

ブログを読んでくださった皆さん、ありがとうございます。

お祈りくださっている方々に感謝します。

あなたがいま歩んでおられる人生のシーズンに込められている神様の恵みに、あなたの目が開かれ、喜びと希望が増し加えられますように祝福をお祈りします!

来年もよろしくお願いいたします。

 

創造主であり主権者である神、聖なる主の御名がほめたたえられますように!

 

そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。焼けた地は沢となり、潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。】イザヤ35:5−7

 

見よ。わたしは新しい事をする。、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。】イザヤ43:19

 

 

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