変えられたい、でも変わりたくない...
昨年からずっと、心の内に問われていることがある。
それは私自身の生き方に関することであり、人との関わり方に関すること。
何度となく祈ってきたことだけれども、まだ葛藤のプロセスにある。
いま書こうとしていることは、現在進行形で私が苦悩している課題であり、私の正直な告白に他ならない。
私の心に留まり続けている問いかけとは、
あなたは、キリストに似た者になりたいと、どれほど思っているか。
あなたは、自分の周りにいる人たちにキリストに似た者になってほしいと、どれほど思っているか。
主よ、今はこの辺で勘弁してください...。
わかっています、いえ、わかりました...。
でもこれ以上、問いつめないでください...。
触れられたくない部分は穏便にやり過ごしたくても、主である神様は問いかけをやめてくださらないようだ。
礼拝メッセージ、ディボーション、日常の様々な出来事を通しても、この2つの問いは繰り返し心に迫ってくる。
この問いかけが私の心に投げられたのは、日本聖書学院のセミナーだった。
先生は、クリスチャン一人一人が神のことばである聖書を正しく学び、聖書に従って生きる真の信仰者として成熟していくために、熱心に聖書を解き明かしてくださる。
救いの恵みを喜び、キリストを愛し、御言葉を愛して止まない先生の情熱あふれるセミナーは、毎回私の魂を揺さぶり、新しい発見があり、信仰者としての深い喜びに満たされる恵みのときだ。
先生はこのように語られた。
ーーー私たちの信仰生活は、つまりは自分がどれほどキリストに似た者になりたいと思っているのか、また、自分の周りに置かれている人たちにキリストに似た者になってほしいとどれほど本気で思っているのかによって動かされているーーー
先生が使った言葉を正確に覚えてはいないが、私たちの心が本当に願っていることが私たちの生き方を実際は決定づけているという趣旨で語られたと私は理解している。
「周りの人たちにキリストに似た者になってほしい」という熱心が私にあると言えるか...と心を刺された。
この2つの動機に関する黙想はセミナー後もずっと続いた。
自分自身について言うなら、私はキリストに似た者になりたいと切に願っていますと答えることができる。しかし、周りの人にも同様の目的をもって熱心に関わっているかと聞かれたら、うまく返事ができない。
ところがさらに考えていくと、他者に対する熱心がないならば、自分自身についても欺かれていると気づかされた。
なぜなら、イエス・キリストこそ、他者(私たち)が神と和解し、キリストに似た者になるためにご自身をささげたお方なのだから。
この2つの動機(切望)はセットなのだ。
私は主の前に悔い改めて、神様が望まれるように私を造り変えてくださいと恵みを乞うた。
方向転換を願い祈った後の歩みの中で明確にされてきたことがある。
それは、私の内にある保身と恐れ、自己中心の思い。
キリストに似た者に変えられることこそ、本当の幸せだと信じている。
私はキリストに似た者に変えられたいと思っていることは嘘ではない。
だけど、他者に対してもその方向で関わることはしたくないのだ。
なぜなら、割に合わない苦痛を味わうのが嫌だから...。
ここ数年で痛い失敗がいくつもあった。
聖書の価値観でその人の回復や成長また教会の益を自分なりに考えて、立ち入った話をしたり、悔い改めを促したりした結果、真意は伝わらず、関係がおかしくなり、悲しみが残っただけで良い成果がなかったというケースが続いた。
もちろん、私のアプローチが下手であったことは否定しない。
それも含めて、やりきれない気持ちを抱えた私の中で「他者の罪には触れない方がいい」という思考が根付いた。
そして、誰かの実情やニーズを理解しようと意識的に近づくことも、その人の心や行動の変化のために働きかけることも怖くなり意欲を失っていった。
私にはわからない。
うまく助けられないから、首を突っ込まない方がいい。
下手に関わって地雷を踏むのも嫌だし、もう虚しい悲しみはたくさん...。
だから、無難な態度を保つ。
毒にも薬にもならない“やさしい”言葉で応じる。
信仰者らしく向き合って真剣に成長を目指すよりも摩擦を避けようとする。
つまり「自分の快適安全が一番」というのが本音だ。
十字架の道には、やっぱり深入りしたくないという保身。
苦い体験を繰り返したくないという恐れ。
私は、キリストを愛するより自分を愛していて、他者を愛していない...。
しかし、
そう答えるしかない私に、
なお、主キリストが問いかけてくる。
わたしは十字架のキリスト。
わたしを愛するか?
わたしに似た者になりたいか?
わたしがあなたのそばに置いた人たちを愛しなさい。
【主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。私のすべてのそむきの罪から、私を助け出してください。】詩編39:7