天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

恵みのおすそわけ

マタイの福音書28:1−10からディボーションの分かち合い。

何度となく読んできたイエス・キリスト復活の場面。前後の文脈を意識し、他の福音書の平行箇所も開き、御霊の導きを祈りながら観察していく。

Clayの解説からヒントを得て黙想を続ける。

天使が墓石を転がしたのは、イエスが墓の中から出るためではなく、イエスを信じる者たちが中に入って死体がないことを確認するためだと記されていた。

どんな墓でも復活のイエスを中に閉じ込めておくことなどできるはずがない、という事実に改めて目が留り、まさにその通りだと再認識した。

墓石がどけられたのはイエスを信じる者たちのための出来事---という観点で再び御言葉を観察し、黙想し、大きな喜びに包まれた。

 

長くなるけれども、あえて結論からではなく黙想のプロセスを分かち合ってみようと思う。

(これが正解...と思っているわけではないのですが、御言葉から教えられ、恵まれる黙想となったので参考までの分かち合いです。)

読んでくださる方々のディボーションの祝福の一助になりますように...。

 

 

1-4

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上に座ったからである。......番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。

 

女たちは、墓の中に置かれたイエスさまの遺体に香油を塗ろうとして向かったことが平行箇所(マルコ16:1)からわかる。巨大な墓石とローマの番兵たちが行く手を阻んでいた。イエスさまのご遺体に触れることは現実的に考えれば不可能だった。にもかかわらず、彼女たちは香油を買った。そして墓に向かったのだ。

2節の「すると」という言葉に注目した。この「すると」は、5節、9節、10節にも出てくる。この言葉から、その出来事が先の出来事と連鎖していると読める。

彼女たちの目的を阻んでいる大きな2つの障害は、彼女たちの到着に合わせるように御使いによって解決されていた。

女たちが来たことに関連して御使いが事を起こしていると考えると、次に続く御使いのセリフもその関連性を表現しているようだ。

 

5-6

すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。

 

彼女たちの目的を阻む障害は取り除かれていたので、彼女たちはイエスさまが安置されているはずの場所に立つことができた。しかし、「イエスさまに香油を塗る」という彼女たちの当初の目的は達成されていない。

 

8-10

そこで、彼女たちは恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」

 

彼女たちの目的は達成されなかったけれども、御使いから託された伝言を握って墓を後にする。大喜びで、急いで、走って...という言葉も彼女たちの方向転換を強調しているように読める。

墓は、キリストを愛する者たちの目的地でもゴールでもない。

 

すると...、彼女たちは復活のイエスさまに出会うのだ。

 

彼女たちに香油を塗ってもらうしかない死んだキリストではなく、語りかけてくださる生けるキリストに出会う!

 

ズタズタに痛めつけられたままのキリストの遺体にすがって泣くのではなく、新しい体をもって生きておられる勝利のキリストに触れて礼拝する機会を与えられる!

 

そして、主から「何をしたらよいか」明確な御言葉が与えられ、遣わされる。

「恐れてはいけない」という言葉とともに、福音にふさわしい生き方へ押し出される。

 

彼女たちの頭に、「せっかく買った香油が無駄になった」とか「私たちの計画通りにいかなかった」というような、つぶやきはよぎりもしなかっただろう。

 

 

復活のキリストに出会っていただけるという祝福。

なんという恵み!

復活のキリストから為すべき使命をいただける祝福。

これ以上の幸福があるだろうか...!

 

 

それらの驚くべき展開も、

最初の一歩は、非現実的とも思える発想であり、キリストへの純粋な愛による実行であった。

キリストの復活という御言葉の真理を悟ることができていなかったゆえの的外れさがあったにもかかわらず、神様は御遣いを送って彼女たちのために道を開き、方向転換させ、彼女たちの予想を超えた喜びの展開へと導いてくださった。

 

 

私たちの人生にも、同じことがきっとある!

いや、気づかなかっただけで、これまでも、このような神様の恵みの御手があって導かれてきた。

私はそう信じる。

 

なんという祝福...。

あり得ない特権...。


キリストへの愛によって、私はいま、どんな行動ができるだろう…。


その実行には連鎖的な恵みの展開がきっと備えられている。

導かれた先で、私は生ける神キリストをもっと深く知らされる…。

 

主よ、私はほんとうに幸いな者です...。

主よ、あなたを愛します。

あなたの御言葉に従います。

あなたの証し人として、どうぞ用いてください。

 

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