祈りのための祈り
イエス様が十字架へ向かう前、弟子たちと最後の晩餐を終えてからゲッセマネの園で祈りの格闘をされた。
その間、弟子たちは少し離れた所で祈っているように命じられる。
しかし、弟子たちはまともに祈ることができず眠りこけてしまう。もだえ苦しんで祈っていた主イエス様に眠っていたところを注意され、再び主が祈りに向かわれるとまた眠ってしまう。そんなことが三度も...。
イエス様は、こうおっしゃっている。
【それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」】マタイ福音書26章
この弟子たちの有様を、私は笑うことができない。
こんな時に情けない奴らだ...と憤ることもできない。
私自身、一時間でも祈っていられない者だと思うからだ。
イエス様を愛している心は嘘ではないのに、眠りこけてしまう自分が悲しくて、主の前でどうしていいかわからない弟子たちの気持ちに同情する。
祈っていたいのに、祈っていることができない...。
また、弟子たちを教え愛し、人々を愛して、ご自身を十字架で捧げ尽くすために血の汗を流してもだえ祈り続けたイエス様が、どんなお気持ちで、眠りこける弟子たちに祈りの促しを重ねたことか...と想像しては胸がつまる思いになる。
お祈りは好きですか?と聞かれたら、あなたはどう答えますか。
私は少し答えに困ります。
主の御名を呼んで、心を打ち明け、思うまま色々おしゃべりする...。
主イエス様を喜びほめたたえ、感謝したり、謝ったり、お願いしたり...。
それは私にとって、とても日常的で自然なことになっています。
確かに幸いなひとときです。
しかし、同時に、祈りはひどく億劫だったり、うまくいかない...と思うことも事実です。
雑念が入る、眠気に襲われる、そんなことも実にしばしばあります。
この時間を祈りのために特別に取り分けようとしているほど、意識がそれていき、あれこれ他のことが気になり始め、祈りがストレスになるというか、エンジンがかかるまである種の妨害にあっているような体験をします。
あぁ、私って「祈りの人」じゃないんだなぁ...。
そんな結論に落ち着いてしまいそうになるのです。
ところが最近読んだ『ジョン・バニヤンによる祈りの力』という本の中で、実にぴったりとくる文章に出会いました。
少し長くなりますが引用します。
自分のことを話すなら、なかなか思うように祈ることができないというのは、わたしの経験でもあるのです。これから祈りに入ろうとしながら、わたしの心はなかなかそういう思いになりきれないことが多いのです。そしてまた、神との交わりの中にいるときは、わたしの心はその交わりから離れていきたがります。祈りの中でわたしは何回も神に求めなければなりません---わたしの心を捕えてください、そして神から心が離れていかないように、キリストにあって助けてください、と。たましいが神のみそばにあるとき、そこからさまよい出ることがないようにお願いしなければなりません。(略)祈るときに私たちの心は、どんなに困難を覚えることでしょう。神の御前からなんとか逃れようとして、心はあらゆる策略を使い、数限りない言い訳を考え出します。上手な祈りができたとき、なんと心はおごり高ぶることでしょう。人の前で祈るとき、どんなに醜い偽善が忍び込むことでしょう。そして、聖霊が共にいて助けてくださらないなら、密室の中で神との交わりをほんとうに意識することが、なんと少ないことでしょう。
祈りの偉人と呼ばれる方々がおられます。
ジョン・バニヤンもその一人でしょう。
そういう方々こそ、祈れない自分をよく知っていて、なおさら御霊の助けを切に祈り求めながら祈りの生活をされていたのではないかと教えられました。
聖書には、御霊によって祈る、ということが繰り返し語られています。
私の内に与えられている助け主聖霊さまを信頼し、「あなたの助けによって祈らせてください」と祈ることを覚えていこうと思いました。
そうすれば、5年後、10年後、私の祈りの生活はどれほど変わっていることでしょう...。
【すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。】エペソ6章