脱・タラレバ娘
私たちの日常の中に、主なる神の御手はどれくらい働いているのだろう?
いや、むしろ、神の御手に関わり無く動いているものなどあるのだろうか?
私は、天地万物の創造主、すべての主権者、全知全能の神の意図により、その御手があらゆることに緻密に働いていると堅く信じている。
それは、私たちにとって都合よく物事が動くはずとか、一般的に喜ばしいと捉えられる結果を指しているのではなく、まさに人知を越えた神のご計画が、聖なる御手によって世界のすべて日常の隅々まで及んでいるという確信だ。
私自身の愚かさや失敗、人間たちの思惑や罪の結果も含めて、神様にとって想定外の出来事など何一つない。
混乱が深まる社会にあって、この真理にこそ、私は慰めや希望を見出す。
聖書に出会う前の私は、いわゆる日本文化の中で育ち、神社仏閣あるいは仏壇から夜空の星まで、なんとなく拝み、なんとなく願い事をしたりしていた。
しかし、その効力を本気で期待していたか振り返るなら、そんなことはないと思う。
思いがけず嬉しいことがあれば、単に「ラッキー」だった。
(そう、私は本当に感謝の心が欠落していた。恥ずかしい...。)
嫌なことがあると人のせいにしたり、運命を嘆いたり、自分を責めたりした。
心の奥では「不幸な運命」というものを漠然と信じていたと思う。
そんな私が、こうして聖書の真理を信じる道に導かれ、イエス・キリストを愛し、喜びと平安を深めながら年を重ねるようになっているとは、人生の大逆転だ。
私には奇跡としか思えない。
とはいえ、この奇跡は、ごく一般的に見える出来事の連続で覆われていて、奇跡と認識させるような派手な装いはない。
たとえば、私は母子家庭で育ち、経済的な事情もあって進学の選択肢には制限があった。高校も大学も、第一志望の道は叶わなかった。
しかし、あの高校でなければ、あの大学を知ることはなかっただろう。
私が進学したのは、高3の担任教師が「奨学金制度が充実している」と推薦受験を勧めてくれた通学にも便利なキリスト教主義の短大だった。
そこで私は初めて聖書に出会い、クリスチャンの先生に出会うことになる。
賛美歌を歌い、聖書のメッセージを聞く世界に触れる。
もっと頭が良かったら、他に才能があれば、家が裕福だったら...、違う進路があっただろうか。
今ならわかる。
御手が働いて、私はあの短大に必然的に入学したのだ。
就職した会社もまた、私がやりたい仕事とは言えなかった。
仕事がうまくいかず、悩んだ末に短大時代の恩師に相談したら、ちょうど欠員が出た事務職員の採用募集をしているタイミングだった。
なんと私はキリスト教主義の母校で事務職員として勤務することになる...。
その職場で働いていなかったら、私は今の夫に出会うことは決してなかった。
夫と結婚していなければ、私が今の教会につながることも、信仰で生きるようになることもあり得なかった...。
一つ一つのタイミング、出会いが、実は神様の布石であり、奇跡の連続ではないか...。
願いが叶ったことも不本意な結果も含めて、最悪だと感じた出来事すらも通して、不思議なかたちで御手が働いていて確かに私は導かれてきた。
神様の壮大かつ繊細な、完璧な御手の計らいがどこにあったか、天国に行けば全貌がわかるだろうか。
あの日ああしていれば...、もしこうでなかったら...。
昔の私はそういう無い物ねだり思考が強く、考えても仕方がない「タラレバ」で愚痴をこぼしてばかりいる者だった。
クリスチャンになってからも、すべて順調なんてことはない。
悲しいこと、願う通りにいかないことはもちろんある。
しかし私は、その中でもはっきりと希望を告白することができる。
恵みの神様の御手がこの事にも働いていて、主権者である神様の計らいにより最善が進められている。
聖定のみこころだけが実現する。
神様が何をしているのか、私にわからなくても問題ない。
私は主に信頼し、御言葉に生きます。
聖書の真理をコツコツ学び、創造主なる神を知るようになり、時間は結構かかったけど、「不幸な運命」なんて実体がないとはっきりわかった。
そんなものは、もはや、私になんの関係もない。
「不幸な運命」と「恵みの福音」を同時に信じるなんて不可能なのだ。
恵みの福音を味わうほどに、かつて私を苦しめていた偽りは砕かれていった。
タラレバのつぶやきもいつしか消えていった。
いま私は、聖書で約束されている「永遠の祝福」を信じて、恵みのただ中で生かされている。
私が苦しむことを通しても、喜ぶことを通しても、
逆風に見える時も順調に感じる時も、
すべてのことを通して神のみこころが成就し、
聖なる主の御名だけがほめたたえられますように!
【あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。】箴言3章6節