悔い改めに導いてくださる神
日曜日の朝の出来事。
駐車場からチャペルまで行く歩道の隅に空き缶が転がっているのが目に入った。
鮮やかなブルーと白の模様に泥がべったりついたカルピスの缶。
通り過ぎた瞬間、その空き缶が強烈に気になった。
拾いに戻ろう...
いや、ま、いっか...
でも、やっぱり拾った方がいい...
躊躇しているうちにチャペルの玄関に着いた。
戻ったとしても1分もかからない。
神様は私に拾うように促しておられるような気持ちがしていた。
しかし、私は戻らなかった。
申し訳程度に、玄関横に落ちていた紙くずを拾って中に入った。
これでチャラだ...と思ったわけではないが、
私には受付の用意があるから仕方ない、と気持ちを切り替えた。
ほどなく、牧師先生が玄関から入ってこられた。
その手には、あのカルピスの空き缶が握られていた。
先生は、私と挨拶を交わして通り過ぎるとキッチンに入り、空き缶を洗って捨てて何事もなかったように出てこられた。
私の心はうなだれ、自分をひどく恥じた。
御言葉が心に響く...。
【あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。】ルカ22章
神様が私に語っているように思われた。
「わたしの宮にふさわしくない空き缶を、わたしはあなたに拾わせようとしたが、あなたがそれをしなかったので、わたしはわたしに忠実な他のしもべに拾わせた。
彼はわたしとわたしの教会を愛しているから。
手にあった空き缶を見たか。
あなたがやらなくても、わたしの目的は成し遂げられる。
しかしわたしは、あなたに拾わせたかったのだ...。」
主の前でできる言い訳などあるはずがない。
私は気づいていたし、拾おうとさせる促しを心にいただいていたのに、自らの意志でそれを無視した。
その結果、あろうことか、牧師先生に拾わせることになろうとは...。
面倒くさかったのか、汚くて触りたくなかったのか、はっきりとした理由すらわからない。いずれにしても、私は拾うことを躊躇し、戻ることを拒んだ。
自分のしたことを、主は、はっきりと私にわからせてくださった。
主を礼拝するその喜びの朝に、この私自身が主の前にかたくなな心で歩んだことを知らされて心を打ち砕かれた。
私は自分自身を悲しみながら心の中で祈った。
「神様、赦してください。
あなたの御心に背いて、自分のペースを変えようとしなかった私の罪をあなたはご存知です。
私をあわれんでください。
次は私が拾います。
あなたのさらなる恵みによって、私に拾わせてください。
私も、あなたとあなたの教会を愛しています。
聖霊の促しを敏感に悟り、すぐさま応答する忠実なしもべに私を変えてください。」
汚れた空き缶一つに躊躇していて、どうして罪人の魂に仕えることができよう。
「御心に従います。私を用いてください。」と祈っている私を、主は試される。
失格にするために試すのではないのだ。
失敗しては砕かれ、恵みによって悔い改めに導かれ、実践で練られ、誰も知らない所であっても真心から御心に従う神の手足となるために、主は日々私に働きかけてくださる。
神の愛、特別な霊的祝福...。
私はそう信じて疑わない。
私はいつも主キリストの内にあり、一日一日、主が共に歩んでくださる!
私を絶えず導いてくださる恵みの神様。
私はキリストの血潮によりあなたのものとされました。
私はしあわせな者です。
あなたを愛し、御言葉を慕い求めます。
あなたにお従いします。
私を整えて用いてください。
私たちの教会に与えられた御言葉に生きる牧師を心から感謝いたします。
あなたの聖なるご性質が教会を通して表され、御名が賛美されますように!
【わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。】ヨハネ10章