弱り果ててはならない
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。
それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。
あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。
そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。
「わが子よ。
主の懲らしめを軽んじてはならない。
主に責められて弱り果ててはならない。
主はその愛する者を懲らしめ、
受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
訓練と思って耐え忍びなさい。
神はあたなを子として扱っておられるのです。
(ヘブル人への手紙12章より)
最近、この御言葉が私の心に語りかけ続けている。
日々の生活の中で繰り返し黙想している。
弱り果てるとはどういうことだろう?
懲らしめられているのだから、平気ではいられなくて当然だ。
苦しくつらい状況に追い込む懲らしめを与えていながら、弱り果てるな...とはどういうことか?
悲しくても笑顔でいなければならないのだろうか?
悩んで落ち込んだり、愚痴をこぼしたり、眠れなくなったり、食欲がなくなったり、うつむいて涙を流したり、人を遠ざけたくなったりしてはいけないということだろうか?
祈りが弱々しく、口が重く、言葉がたどたどしくなってはいけないのだろうか?
そんな強靭でびくともしない神経と肉体を持て...と神様は求めておられるのだろうか?
神様は、私たちの弱さをご存知だ...。
キリストは私たちの弱さに同情できない方ではないと書いてある。(ヘブル4章)
ならば、弱らされても、弱り果てない...とは?
いま私が思うこと。
それは自分の弱さや無力さは当たり前と受け入れつつも、恵み深い主の強さに信頼することはやめない態度。
主の御名を呼ぶことすらもできないと考えるほど、自分の弱さに身を委ねてはいけないということではないかと思う。
主の御名を呼ぶ力は、御霊によって常に私たちの内にあるのだから。
だから、それをあきらめるほど弱り果ててはならない...のではないか。
自分で自分を立て直すことができないこともある。
しかし、主は、懲らしめの目的を達成し、時がきたら、速やかに私を立たせることがおできになる。
私の弱さも、私を弱らせている問題も、主の前にあって決して致命的ではないという真理を意識的に思い起こすこと。
自分自身も自分の人生も、どなたのものなのか...。
私を引き受けてくださった主は、どのようなお方なのか...。
その真理を思い出し、その真理に希望を見出すなら、弱り果てる理由がないではないか...。
しばらくぶりにブログを書きました。
なかなか更新できない間も、主は私と共にいてくださり、私の歩みは支えられ、導かれ続けています。
信仰に立つのか、目の前の現実に反応し感情に身を任せるのか...。
私の心はつねに選択を迫られているような気持ちで揺れ動き、心の中の格闘で消耗し、アクティブなエネルギーが自分から失われていくのをどうにもできない。
そんな弱さの中を歩んでいます。
弱さの中ですが、だからこそ、私の弱さに主の強さがまぎれもなく働いていることを、むしろ豊かに体験させられているのも事実です。
それで、私は、弱りながらも、やっぱり主をたたえています。
私の望みは主キリスト...と告白して、満たされ賛美しているのです。
具体的なことは不特定多数の方々に分かち合うのが難しくて、リアルタイムで文章に公開できませんが、いつか、もしかしたら、主が機会を与えてくださって誰かの励ましや慰めのために用いてくださるかもしれないと日記に綴っています。
こう聖書に書いてあるからです。
私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。
こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。(第二コリント1章)
一ヶ月以上も更新されなくても、それでもこのブログを開いてくださる方々がたくさんいて、申し訳なく、また本当にありがたく、皆さんの存在を通しても、私は主の恵みを思って慰められています。
このブログを読んでくださっているあなたに、また祈ってくださっているあなたに、心から感謝します。
主の恵みは尽きることがないので、細々とでも分かち合いのブログを続けていきたいです。お祈りいただけたら嬉しいです。