自分は何者なのか
毎週の礼拝は私の喜びだ。
これは本当に恵まれたことだと思う。
もちろん、疲れていたり、調子が悪い日もある。
でも、私は知っている。
心を主に向けて賛美をささげ、聖書のメッセージを受け取ることで、自分が健やかになること、考えが軌道修正されたり、心に希望や感謝や知恵が与えられて新たな決意が導かれることを...。
聖書が正しく解き明かされ、私たちの生活や心の変化につながる恵みの真理を教えられる教会、信仰生活の中心軸としての礼拝に喜んで集える幸いを、当たり前でない恵みとして年々ますます感謝している。
愛情と手間ひまをかけてよく準備された健康的なおいしい食卓で育てられる子どものようだ。
クリスチャンでもみながそうとは限らないことを私は知っている。
だからこそ、恵み慣れしてはいけないと思うし、恵まれていることに感謝し、恵みを分かち合うために恵まれているのだと考えるようになった。
今週はアイデンティティーについて特に教えられた。
アイデンティティーとは、自分をどんなものだと言うか、自己認識、といえるような言葉。
『私たちが神の子どもと呼ばれるために、---事実、いま私たちは神の子どもです---御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。』ヨハネの手紙第一3章
「神の子」というアイデンティティーを確信することから変化は始まる。
アイデンティティーは、その人の生き方、人格、態度や言動の土台となる。
どんなアイデンティティーを持っているかで、最終的には人生が左右されていくことになる...。
メッセージを聞いて、私は自分の中にある自己認識を考えてみた。
最近では自己紹介する場面があれば、
「私はクリスチャンです。毎週、教会の礼拝に通っています。」と言う。
反応が良くても悪くても、この点を抜きに私という人物はもはや語れない。
もっと言うなら、心にある自己認識は、「神の子」「キリストのしもべ」という肩書きで自分自身をとらえていて、感謝したり、勇気を出したり、慰められたり、安心や希望を得たりしている者なのだ。
いつからだろう?
バプテスマ(洗礼)を受けてすぐでないことは確かだ。
最初は、聖書から教えられることよりも、自分にしみこんだそれまでの思考が私を動かしていた。
信仰を持つ前のアイデンティティーを思い返すと...、
「不幸な運命に生まれた者」
「必要とされない者」
特別頭がいいわけでもなく、スポーツも音楽もできない「なんの取り柄もない者」
つまり、自分自身を「価値がない者」「幸せになれない者」と見ていた。
これは必ずしも現実そのものではなかった。
友達にも恵まれて、活動的な生活をしていたのだから。
とにかく現在がどうであろうとも、自分自身がそのアイデンティティーを握って手離そうとせず、堅く信じていたのだと今ならわかる。
そのアイデンティティーは、結婚生活にも信仰生活にもかなり影響を及ぼした。
「クリスチャンになっても運命は変わらない」
「自分はダメクリスチャンだ」
何度つぶやいたことか...。
しかし...
そんな私でも、確かに変えられてきた...。
何によってか。
聖書を繰り返し学ぶことによってだと思う。
自分がどう感じるか、誰がどう言ったかではなくて、
聖書が語っていることこそ真実だと、御言葉を握るように導かれてきた。
良いことができているとか、正しいことができないとか、私たちの行いによって、神の子になったり、神の子リストから消されたりするようなことは決してない。
誰かとの比較でもない。
キリストが成してくださったことのゆえに、ただ恵みによって、
私は神の子とされた!
何があっても、何がなくても、その事実は決して変わらない。
私が正しい者でないことを私以上にいや完全に100%見抜いておられるお方が、私を愛してご自身の子とすると決め、キリストを与えて救いを実行してくださった。
この福音を何度も聞かされ、理解を深め、味わい、神様と祈りによってお話して、聖書を神のことばとして読み続け、少しずつ自分を御言葉に合わせてきた。
そうして、私のアイデンティティーは変化してきたのだと思う。
願うようにいかない悲しみや自分の罪深さに直面しながら、御霊に助けられて聖書のことばに信頼を置くようになり、キリストだけを望みとする心が芽生え始めた。
時間がかかったものだ...。
バプテスマを受けてから20年になる。
しかし、早さが重要なのではないだろう。
表面ではなくて本質的な変化、確かなアイデンティティーが重要だ。
私はようやく、自分に確かな明るい未来を描いて生きるようになりつつある...。