大丈夫、大丈夫
サッチーこと野村沙知代さん突然死のニュースには驚いた。
テレビに映る野村元監督はすっかり憔悴した姿で、深い悲しみが見える。
記者から奥様のエピソードをと聞かれて、こんなふうに答えていたのが印象的だった。
「『大丈夫よ』というのが口癖で、何があっても『大丈夫よ!』といつも明るかった。その言葉にずいぶんと助けられた...」
「大丈夫」といつも言うかはともかく、肯定的な言葉を語り、動じない心で妻が夫に寄り添うとき、それは夫にとってどんなにか助けになるだろう。
妻が明るく安定していることの益は、お金に換算できない大きな力だろう。
聖書には、妻についてこのような言葉が記されている。
『しっかりした妻は夫の冠。恥をもたらす妻は、夫の骨の中の腐れのようだ。』箴言12:4
『良い妻を見つける者はしあわせを見つけ、主からの恵みをいただく。』箴言18:22
妻がどんな人物かは夫のしあわせに大きく関係していることがわかる。
(もちろん、妻の幸福が夫の影響を受けることも同じように言える)
身が引き締まる思いだ。
願わくは、夫に幸いを与える妻でありたい。
でも、私はサッチーさんのように気丈な女性ではない。
楽天的でもないし、自信家でもない。
なにかあれば動揺し、泣き言をこぼしやすい。
しかし!
よく考えたら、
私は確かな根拠をもって「大丈夫よ!」と言える者とされていることに気づいた。
だって、私はすでにキリストのものとされていて、全知全能の神様が私を愛して御子の贖いによりご自身の子としてくださった。
地上においても私を守り導き、すべてを働かせて信仰者らしい成熟のために益とし、永遠に至るまで、神である主が全責任をもって祝福すると約束してくださっている。
私が罪を犯してしまっても、良いことができなかったとしても、私のなにかによって、その約束が取り消されることは決してない。
これ以上の保証があろうか...。
だから、クリスチャンとは、
どんな状況になろうとも
死を前にしてすらも、
まことに心から、
キリストのゆえに「大丈夫、大丈夫」と言える者だ。
そういう心を確かにし続けて日々の生活を営むなら、
いざという時も「大丈夫よ」と穏やかな笑みで夫に寄り添うことができるだろう。
『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』ローマ8:28
『私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまず死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。』ローマ8:32
『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』第一ヨハネの手紙4:10
主よ、恵みの福音をありがとうございます。
真理を心に刻み、福音にふさわしく生きることができるように、日々助け導いてください。
キリストにある私のゆえに、愛する夫があなたの恵みを受けますように、私をさらにつくり変え続けてください...。