愛を表現していますか
笑顔の素敵な、かわいい女の子だな...と思って見ていたら...
後からあなただとわかった!
こんなふうに言われたら、どんな気持ちになりますか。
40代も終盤を迎えた私にはくすぐったいほどだけれど、このように伝えてくれた方が私へのお世辞を言う女性ではないことを知っているので、素直に嬉しかった。
何より、彼女に目撃されたシチュエーションが私にとっては重要な意味をもつ。
彼女が見かけたのは、夫が運転する車の助手席にいた私の姿。
夫と二人きりの空間で見せていた私の自然な表情について、
「素敵な笑顔」と客観的な評価をもらったことが本当に感謝だった。
キリストにあって夫を愛することを考え、具体的に意識した生活するようになって久しい。
一つは、夫と一緒にいる時の自分の表情を大事に考えるようになった。
たとえ会話が少ない日でも、同じ空間にいる時の自分の態度や目を合わせた時の表情で、大切な人に愛を表し祝福することができる。
よそ行きの顔とは違う。
神経を使った作り笑顔でもない。
大切な人に見せている、私の自然な表情。
言葉を使わずに次のことを伝えるとしたら、どんな方法があるでしょう?
「あなたといっしょにいて、私は幸せよ」
「あなたはほんとうに、かけがえのない人です」
「夫婦でいられて嬉しい、ありがとう」
私の内にある伝えたい気持ちだから、色んな方法で表現したい。
このような心掛けで、ある意味努力していたとしても、
それは夫婦二人の世界で密かにさりげなく流れている地味な取り組み。
その継続の成果と思われる面を私は確かに見せられているけど、
客観的な評価をもらうことはまずない領域。
だから、彼女の言葉は私には大きな喜びだった。
神様の祝福としか言いようがない。
恵みの神様、私に愛することを教え、その取り組みを続けるように導き支えてくださって、ありがとうございます。
愛そのものであられるあなたの御名があがめられますように!
『私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。』エペソ2:10
希望を伝えるために
私には希望があります。
その希望は、年々大きく確かなものとなっています。
その希望は、状況に左右されない喜びとなって私を支えています。
その希望が、私の心を変え、行動を変え、状況さえも逆に変化させています。
私の希望は、ただただイエス・キリストにある希望です。
だいぶ前、パートをしていたとき、同僚として親しくなった女性から色々と相談を受けるようになりました。
私は、聖書のことばとイエス・キリストという神の存在のゆえに、どのように心が変えられ、考え方や物事の見方が修正され、人間関係や夫婦関係が良くなり、職場でのあり方にも知恵を与えられていることなど、自分自身のエピソードを混ぜながら答えていました。
彼女はいつも興味深く聞いてくれていましたが、ある時、このようにお願いされました。
「あなたの体験していることは素晴らしいと思うのだけど、全部、クリスチャンじゃないと始まらないことばかりですよね?
もっと一般的な、信仰ではないポイントであなたの意見とかアドバイスを聞かせてほしいんです。そうでないと、私には、どれも手に入らないことなので...。」
いま振り返ると、当時の私の伝え方には多いに問題があったと思います。
彼女のその言葉を上手に受けて、彼女の方向転換を助ける答え方もあったはずと悔やまれます。
だけど私は、彼女の思いがけない言葉に考え込んでしまいました。
私の伝えることは彼女にとって現実的ではなく、結局役に立たないということか...と、なんだか落ち込んでしまったことを覚えています。
私には好意を持っていて考えを聞きたい、だけど、神様とか信仰は抜きで一般的に参考になる部分を話してほしい...。
その問いかけを受けて、私が逆に気づかされたことは、
神様も信仰も聖書も抜きで、なんとなく相手が励まされそうなことを話そうとしても、言葉が出てこないということでした。
それどころか、イエス・キリストを抜きにしたら私には希望が見えてこないことが、よりはっきりしました。
聖書を知らず、イエス・キリストなしに生きていた昔の私は、失望との闘いで、確かな答えもなく、いつも揺れ動き、もがいていたのです。
私がパートを辞めてからもしばらく連絡を取り合っていましたが、彼女もそれから結婚して遠くへ引っ越してしまって、いまはどうしているのかわかりません。
クリスチャンでない方にわかりやすく、自分に関係あることとして理解できるように、もっと思慮深いアプローチをするためには、どんな伝え方があるのか...。
いまだに私は自分自身の足りなさ、大きな課題を感じます。
下手でも、失敗しながらでも、少しずつでも、
やっぱり練習していくことが大切だと思わされています。
このブログを読んでくださる方が、もしクリスチャンでないなら、何が伝わっているのだろう。
ブログの読者が増やされるにつれ、私の意図とは違う色んな反応があることに直面した昨年でもありました。
私の伝えたい思いは、イエス・キリストに近づいてほしいということにすべてつながります。
それは、聖書の学びを通して始まり深まるということを信じています。
私を信頼して自分のことを話してくれる関係が与えられて、
その相手と共に過ごすことができるなら、
「自分に本当に必要なのは罪性の解決であり、その答えはイエス・キリストなのだ」
と気づいて求めたくなるような、影響力ある問いかけをする者に成長していきたい。
今の自分を見るとき、ハードルが高すぎて気落ちしそうになります。
しかし、自分自身の変化や人格的成長という点でも、イエス・キリストのゆえに、聖書の約束があるからこそ、私は希望を持ち続けることができますから、主に拠り頼んで感謝します!
『あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。』ヤコブの手紙1:5
私たちを結び合わせるもの
彼女と私は全く違うタイプだ。
「二ヶ月を時間にすると1440時間なのね。そのうちの2時間半っていうと、0.2%くらいなもの。一ヶ月で割り出したとしても0.5%にもならない。なのに、この2時間半が私に与えてくれる恵みの影響はなんて大きいんだろう!」
次々飛び出す数字に、私の思考はしばしフリーズ...(笑)。
私たちは互いのスケジュールを調整して土曜日の午前中2時間半と決めて、正直な気持ちで語り合い、互いのために祈り、聖書の学びをしている。
月1回の調整もつかなくて二ヶ月後になることもある。
彼女にとってはやっと確保できた休日だ。
貴重なオフを使って妻として母親としてやりたいことはたくさんあるはずだし、一人でゆっくりしたいと思っても当然なのに、彼女は休みがとれる見通しができると聖書勉強の計画を立てようとする。
だからこそ、話し足りない思いがあっても、昼食からは子どもたちと過ごせるように2時間半できっちり終了。
私たちは喜びと希望で胸をいっぱいにして解散する。
彼女は、その2時間半の価値と感謝を冒頭の言葉で語ってくれたのだ。
時間的にはほんのわずかなのだけれど...という内容をパーセンテージで数値化して表現するあたりが理数系の彼女らしい。
彼女は組織のコンピューターシステムをプログラム構築する仕事をしていて週の半分を出張することもある多忙な生活をし、会社の重役を務めるバリバリのキャリアウーマンだ。
バリバリ、キャリアウーマン...などという言葉しか出てこない私はすっかり時代遅れ感のある平凡な主婦。
私たちは、能力も性格もライフスタイルも全く違う。
だけど...
私たちには強い一致がある。
互いを必要とし合う絆がある。
私たちを一つに結び合わせるもの。
それは、
イエス・キリストを心から愛し、信じる信仰。
聖書の御言葉を慕い求め、御言葉に聞き従って生きたいと願う心。
イエス・キリストを中心にして信仰の交わりをし、聖書の真理に生きることを励まし合える関係は、健全なクリスチャンライフに必要不可欠だ。
かけがえのない信仰の友に私は支えられ、クリスチャンの祝福を享受している。
共に過ごす時間はごく限られていたとしても、それがキリストを知る愛の交わりであるなら、その数時間はそれぞれの現場で与えられている働きに取り組み続ける力を与え、悩みの種が絶えない毎日において健やかさを保ちながら歩む助けになる。
三位一体の神は交わりの神だ。
だから、クリスチャン生活は一人では成立し得ない。
イエス・キリストを愛して生きる者たちが、主にある交わりによって恵まれ、日々の生活の中で疲れ果ててしまうことや希望を見失うことから守られますように!
『愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っているのです。』第一ヨハネの手紙4:7
何のために存在しているのか
スピードスケート女子パシュートが金メダルに輝いた。
オリンピックのアスリートたちがインタビューで繰り返し語る「チーム」という言葉。
そこにある信頼関係や互いを認めて感謝している様子、甘えを捨てて高め合うために働きかけ懸命に努力してきたであろう姿に感動する。
個人種目であろうと団体戦であろうと、世界で戦うレベルまで極めてきたアスリートたちだからこそ、自分一人の実力だけでやれていると思っている人などいないのではないか。
いつからだろう...。
「チーム」という言葉を聞くと、私は胸が熱くなる。
私にとっては、子どもの頃から、仲間と呼べる存在は必要不可欠なものだった。
私は友達に恵まれて育った。
だからか、
「仲間がいない」と感じる状態に置かれると、
あっさりガタガタになるもろさもある。
今の私が「チーム」という言葉から真っ先に考えるのは「教会」だ。
キリストにある共同体。
同じミッションに召され、同じ目標を与えられ、キリストにある勝利のために、永遠の栄冠を受けるために力を合わせて働き、闘い、神様の素晴らしさを表して愛に生きるように集められたチーム。
私たちの主は、一人一人を導きながらもチームとして指揮しておられる。
私たちに与えられている召しは、個人レベルのものではない。
チームの全員が個々の特徴を生かし、互いに信頼し、助け合い、喜びも悲しみも分け合い、困難な時もチームであり続け、互いの成長のために励まし合いながらしっかり連携してベストを追求しなければ成し得ない。
個々の力が優れていてもチーム力がなければ、成果にはつながらない。
私自身は、ポイントゲッターではないタイプ。
所属していた部活でも万年補欠選手だった。
秀でた能力など何一つ持ち合わせていないと今でも思う。
だけど、不思議なものだ。
40代も終わりに近づいた最近になって、自分自身を再認識したことがある。
私には「チームであること」への特別な情熱が授けられているようだ。
そうなるような経験をも神様が備えてきてくださったと、今は思える。
私がまだ独身だった頃に、卒業後も親しくしていた恩師が言ってくれた言葉を思い出した。
「あなたは、のりのような人よ。あなたが入ると、人と人がくっついて仲間になる。」
その時はピンとこなかったし、むしろ「糊」なんて冴えない印象だった。
だけど、今は、なんともありがたく、恐れ多い気持ちだ。
糊は、それ単体では何の意味もなく、機能は全く発揮できない。
キリスト共同体のために、私は存在している。
教会のために、この恵みの賜物が用いられますように...。
一人一人が、神によって創造された自分自身を正しく発見すること。
あの人ようでなくていい、あなたはあなた自身として機能していくことが一番大事。
そのことは力強い教会が建て上げられていくために不可欠なのではないだろうか。
主であるキリストが、私たち一人一人を召し集めてくださったのだから...。
『キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。』エペソ4:16
ウチの子になったね...
ウチには猫が一匹いる。
この子は昨年の夏に我が家に来た。
保護された捨て猫の譲渡会で出会った。
生後二ヶ月ほどの子猫だったが、ゲージの隅でじっと動かない臆病な子だったからか、なかなか貰い手が決まらずに最後に残っていた一匹だった。
ウチに連れて来てキャリーから出すと、即座に人の手が届かないソファーの下に逃げ込んで出てこない。覗き込むと、おびえた顔で警戒している。
そっとしておこうと他のことをしている間にどこかに隠れてしまった。
エサを置いても食べに現れない。
そんなスタートだった。
ここに来るまでに怖い思いをしたのかな...。
果たして人に懐くのだろうか...。
逃げ隠れしないで部屋にいるようになってからも、自分からは近づいてこない時期が続いた。
何かの拍子に、子猫ながら精一杯背中を盛り上げながら毛を逆立てた威嚇のポーズをとる。
何が怖い?
怖くないよ。
名前を呼んでやさしく声をかけ、こっちを見ている時は意識的ににっこり笑顔を向けるようにしていた。
初めて私の膝に乗って来たときは感動した。
飼ってから一ヶ月ほど過ぎた頃だっただろうか。
そっと背に触れ、なでてやると、グルグルと喉を鳴らして体をリラックスさせた。
それ以来、みるみる懐いた。
私の後を追いかけてくる。
困らされることもあるけど、かわいくて仕方がない。
すっかり大きくなった猫ちゃんを抱きながら言う。
ウチに来てくれて嬉しいよ。
ありがとうね。
長生きしてね。
ちゃんと最期まで面倒みるから安心してここで一緒に暮らそうね。
神様、この子をありがとうございます。
今でも突然の物音に反応して逃げるとか、臆病な性格は残っているけど、普段はのびのびと好きにしている。
お客さんにまで甘えるようになった。
人間に対する認識が変わったのかもしれない。
そんな猫の変化を見ながら、私は思う...。
誰のもとで生きているのかが、知らず知らずに私たちの心理に大きく影響し、それが態度に現れてしまい、結果的に人生すら左右してしまう。
私は、恵みの神によって救われ、神の子とされた。
ご自身のいのちを捨てて私を救ってくださったキリストが、私の主となってくださった。
私を決して捨てず、永遠に共にいる...と約束してくださったお方のもとで、私は恵まれて生かされている。
イエス・キリストに出会っていただく以前の私にあった傾向は、完全になくなったわけではない。
しつこく残っている性質もまだある。
だけど、私は、安全と安心を知る者にされた。
びくびく、おどおどすることよりも、のびのびとし、喜々としていることが増えた。
私に向けられた主の恵みの眼差しが、いつまでも変わらない神の御言葉が、私を内側から変え続けているのだ。
主イエス様があまりに素晴らしいから、
私がどうであっても神様の愛が変わらないから、
安全と安心いう恵みの中に憩いながら、
主が喜んでくださる者へともっと変えられたいと願わずにいられない。
『お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあながたがを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。』エペソ4:32-5:1
安心していない心のまま行動を直そうとしてもうまくいかない。
まずは、神の子とされている真理をもっと味わい知ることが重要だろう。
私をご自身の子としてくださった神様はどのようなお方なのか、私をどれほど愛しているのか...。
それを正しく理解していくなら、私たちは心の底から喜びがあふれ、恐れは薄れていき、物事の見方も行動ものびのびと変えられていくに違いない。
そして、一つの願いが私たちを動かすようになる。
主ともっと近く、もっと親しく、ずっとずっと一緒にいたい...と。
あなたは、誰のもとで生きていますか?
どんな準備をしますか?
神の時は必ずやって来る。
その時のために、神に用いられる準備をしておくことは大切なことである。
その時が来たなら、状況は驚くほど早く、また無理なく進展する。
私たちも、「その時」のために今から自分を整えようではないか。
私が活用しているディボーションガイド・Clay(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ発行)の解説にあった言葉。
「神の時」「神の摂理」「神のご計画」という聖書の真理について、現代の私たちの人生にも働いている普遍的な原則としてこのところ繰り返し考えながら過ごすようになり、私は確かに力づけられている。
変わり映えしない主婦の毎日と望むことが閉ざされている現状に、ともすると曇りそうになる私の内面に光が差し込むのだ。
創世記のディボーションで、ヤコブの息子ヨセフを時間をかけて見てきている。
兄たちの悪意によってエジプトに売られて奴隷となったのが17歳、様々な試練の中で投獄されるも誠実に生き、ついにエジプト宰相として表舞台に立つのが30歳。
創世記の登場人物とその物語を丁寧に味わい、解説に助けられて恵まれている。
悲劇的と思える展開や予想外の出来事すらも、実現が遠くなる夢も、神様の摂理が働いていることを繰り返し教えられ励まされる。
不運ではない。
タイミングが悪いのでもない。
遅すぎず、早すぎず、全知全能の神だからこそできる絶妙さ。
その全貌なんて人には分かり得ない。
当事者としては「遅すぎる」と感じてしまう状況も、
祝福されているとは思えないような悲しい出来事も、
自分はもう終わりだ...とあきらめたくなる不遇な期間も、
神様の視点からは、用いるために召された者に必要な「集中治療室」であったり「特別訓練メニュー」なのだろう。
神の時は必ずやって来る!
あぁ、なんと力強く、良き知らせだろう...。
私は、神の時と神の方法に信頼する。
「その時」とは、究極的には主とお会いする携挙の時なのだろうが、それは大いに待ちこがれつつ、もう少し個人的な観点でディボーションの適用を考えてみた。
地上の人生において私が思い描いている「その時」、つまり閉ざされていた扉が開かれて物事が動き出すような時が来たら、どうしたいのか?
そのために、今、どんな準備をしながら生活できるだろうか?
信仰の兄弟姉妹との交わりを深めたい。
聖書の話、神様の話、キリストを中心に自身のことを正直に分かち合い、主の恵みとあわれみを求めて希望をもって祈り合いたい。
教会の様々なプログラムに参加し、仕えたい。
家をオープンにして若い人たちを招き、健康的な家庭料理でお腹を満たしてホッとしてもらって、さらに心も満たされるひとときを共にしたい。
家族ぐるみで付き合える仲間たちとお出かけしたい。
手助けを必要としてる人や孤独に耐えている人を訪問したい。
聖書を学びたいと願う女性たちと一緒に聖書勉強を重ねながら、聖書の真理を生きるために助け合う関係を築いていきたい。
夫婦そろって心から主を礼拝し、一緒にお祈りしたい。
キリストのために何かしようとする夫を助ける人生を体験したい。
そんな時が、ほんとうに来るだろうか?
現実的に考えてみてよ...もうあり得ないでしょ?
そんなささやきが心に浮かぶのも事実だ。
しかし私は、生きて働く全能の神を信じる。
神様の絶妙なご計画に期待する。
神の時が必ず来る、私に与えられた信仰と経験が用いられる状況が開かれる時が来ると信じて、ただひたすらに待ち望む。
だから、信じている者らしく準備しよう。
聖書勉強に時間を取り分けて、毎日の中で御言葉と祈りの充実に努めよう。
お料理のレパートリーを増やそう。
体力維持のための運動も習慣づけよう。
家庭が心地よく整えられているように家事を見直そう。
自分を欺いて他の何かで満足を得ようとする心を見張ろう。
そして何より、
助け手らしい妻としてのあり方を考えて練習し、夫の救いのために祈り続けよう...。
神様の時は、実現するまではいつなのか分からない。
だから自分の夢や計画を押し進めるのとは違う。
ただ神様の最善を信頼して、いつまで続くかわからない準備期間を誠実に歩む。
信頼して準備している生き方と、あきらめて成り行き任せにしているのとは、違いが明確に現れるはずだ...。
『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』
ヘブル11:1
大丈夫、大丈夫
サッチーこと野村沙知代さん突然死のニュースには驚いた。
テレビに映る野村元監督はすっかり憔悴した姿で、深い悲しみが見える。
記者から奥様のエピソードをと聞かれて、こんなふうに答えていたのが印象的だった。
「『大丈夫よ』というのが口癖で、何があっても『大丈夫よ!』といつも明るかった。その言葉にずいぶんと助けられた...」
「大丈夫」といつも言うかはともかく、肯定的な言葉を語り、動じない心で妻が夫に寄り添うとき、それは夫にとってどんなにか助けになるだろう。
妻が明るく安定していることの益は、お金に換算できない大きな力だろう。
聖書には、妻についてこのような言葉が記されている。
『しっかりした妻は夫の冠。恥をもたらす妻は、夫の骨の中の腐れのようだ。』箴言12:4
『良い妻を見つける者はしあわせを見つけ、主からの恵みをいただく。』箴言18:22
妻がどんな人物かは夫のしあわせに大きく関係していることがわかる。
(もちろん、妻の幸福が夫の影響を受けることも同じように言える)
身が引き締まる思いだ。
願わくは、夫に幸いを与える妻でありたい。
でも、私はサッチーさんのように気丈な女性ではない。
楽天的でもないし、自信家でもない。
なにかあれば動揺し、泣き言をこぼしやすい。
しかし!
よく考えたら、
私は確かな根拠をもって「大丈夫よ!」と言える者とされていることに気づいた。
だって、私はすでにキリストのものとされていて、全知全能の神様が私を愛して御子の贖いによりご自身の子としてくださった。
地上においても私を守り導き、すべてを働かせて信仰者らしい成熟のために益とし、永遠に至るまで、神である主が全責任をもって祝福すると約束してくださっている。
私が罪を犯してしまっても、良いことができなかったとしても、私のなにかによって、その約束が取り消されることは決してない。
これ以上の保証があろうか...。
だから、クリスチャンとは、
どんな状況になろうとも
死を前にしてすらも、
まことに心から、
キリストのゆえに「大丈夫、大丈夫」と言える者だ。
そういう心を確かにし続けて日々の生活を営むなら、
いざという時も「大丈夫よ」と穏やかな笑みで夫に寄り添うことができるだろう。
『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』ローマ8:28
『私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまず死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。』ローマ8:32
『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』第一ヨハネの手紙4:10
主よ、恵みの福音をありがとうございます。
真理を心に刻み、福音にふさわしく生きることができるように、日々助け導いてください。
キリストにある私のゆえに、愛する夫があなたの恵みを受けますように、私をさらにつくり変え続けてください...。