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天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

大勢が選ぶ道なら安心?

今月の連休に福島県にある安達太良山に夫婦で登った。

ロープウェイもあるので初心者でも楽しめる山だ。

早朝に自宅を出発して日帰り計画。

快晴無風の好天に恵まれた登山日和だった。

 

安達太良山は紅葉シーズンが最高で以前登っているが、ゴールデンウィークは初めて。

私たち夫婦は初めて残雪の登山を体験した。

道は認識できない。

木々の根元が埋まっている様子から恐らく雪が1メートル以上は積もっていると見える。所々雪が溶けてぽっかり穴があき、その雪の下を雪解け水が流れている。

美しい!

楽しい!

でも、もし悪天候なら怖くて歩けないな〜と思いながら、ストックを使ってシャーベット状になった雪の上をザクザクと足を進める。

ルートは木々の枝に目立つ蛍光ピンクのリボンが結んであって、それを目印に辿っていく。周りに他の登山客がたくさんいるし、空は真っ青に澄んで気温も暖かいから大丈夫!

 

休憩しても登山者の流れから大きく離れないようにしながら、私たちは今年初の山を楽しんでいた。

 

ところが、向こうに山頂が見え隠れするあたりまで来て、ハプニングが起きた。

私たちの前を進んでいた登山グループ(全員がグループかわからないけど)が立ち止まり、ざわついている。

止まっている人たちを追い抜いて私たちが進むと、先頭あたりをリードしていた男性2、3人がスマホや地図を見ながら「この道じゃまずいな」とか、「どこから外れたんだ?」とか相談している。

私は急に不安になった。

確かに、回りにピンクのリボンは見当たらない。

この先には雪の上に人の歩いた跡はあるにはあるけど、極端に少ない。

 

私の夫も立ち止まり、何か考えている様子。

私は、何やら相談し自分のグループの人たちに声をかけて回っている男性の一人に声をかけた。

「この道は間違っているんですか?」

「メインの登山道から外れているから、山頂には行けると思いますが、えらく遠回りしている感じですね。いや〜、ベテランでもこういう間違いがあるってことで...」

と照れ笑いして、来た道を戻って行く。

 

その人についていくように、周りで休んでいた人たちもブツブツつぶやきながら、足取り重くゾロゾロと引き返して行ってしまった。

 

もう周りに他の登山者はいなくなる。

私も足の向きを変えながら夫に言った。

「私たちもあの人たちに付いて戻ろう。あの登山ガイドみたいな人が遠回りだって言ってたよ」

「あの人、本当に登山ガイドなの?」

「ガイドかはわからないけど、自分のことをベテランって言ってたよ」

「ふーん」

夫は何か考えている...。

「どこから外れたんだろう。ピンクのリボンを確認しながら登ってきたんだけどな...」

 

その時、私は気づいた。

私は何も考えずに大勢の人が進む方向に流れながら自然を楽しんでいたけど、夫は自分で考えて前回登ったルートと確認しながら、それなりに夫婦登山のリーダーとして責任をもって歩いていたのだ。

夫も私も登山のベテランなどではない。

だから、私たちが登る山は、難しくない日帰りコースを夫なりに調べてくれている。

ありがたいな、頼もしいな、と改めて感謝した。

 

とはいえ、私は黙って夫の判断を待ちながらも、心の中では相変わらず焦っていて、「あの引き返した人たちが見えなくなる前に、私たちも戻ろうよ」と思っていた。

 

夫は意を決したように「やっぱり、このまま上に行ってみよう」と足を踏み出した。

私は「ホントに?」と一言だけ確認したけど、夫に従って行こうと心を定めた。

人ひとりがやっと通るような狭い獣道のような所を低木をかき分けて進む。

 

黙々と足を進めているけど、夫の背中を見つめながら私の心はお祈りモード全開だ。

 

もしどんどん道が怪しくなるなら、引き返す判断を夫がしますように...

夫が引き返すと言ったとき、ぶつぶつ言ったりせず、気持ちよく従えますように...

もし山頂が遠くになっても、時間がすごくかかっても、最後まで夫婦登山を楽しみ、安全に下山できますように...

私はあなたに信頼して、夫に従います。私の夫を助け導いてください。

晴天が守られていることを感謝します。遭難しませんように...

 

そうしているうちに、ピンクのリボンを発見!

なんと、私たちはあっさりメインの登山道に合流した。

 

私は、神様に感謝して祈り、夫に尋ねた。

「どうして、この道で大丈夫って思ったの?」

「先に登っていた人が戻って来なかったからさ」

夫は私の知らない判断材料で考えていて、決して直感とか無謀な意地で決めているわけではないと、ここでも気づかされた。

夫への尊敬をこめて、感謝の褒め言葉を贈った。

 

引き返した登山グループは山頂で私たちの後から無事追いついてきた。

 

私自身は、色々と自分自身を振り返って聖書の言葉を思いめぐらす出来事となった。

主に信頼して夫に従う...という聖書原則に心を定めていることの守りと平安。

あと、大勢が行く道や、わかっているように語る人だからといって、正しいとは限らないこと。

自分自身が主体的に判断する意識を持ち、判断の基準を持っていないと、知らないうちになんとなく多数派に流されてしまう私なんだなぁ〜とも再認識した。

 

(もちろん、山は山なので霊的原則と同じでないし、山の安全知識は不可欠です!)

 

とはいえ、一つの御言葉がこの体験と結びついて心に刻まれたのでした。

 

【狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。】マタイの福音書7章より

 

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悔い改めに導いてくださる神

日曜日の朝の出来事。

駐車場からチャペルまで行く歩道の隅に空き缶が転がっているのが目に入った。

鮮やかなブルーと白の模様に泥がべったりついたカルピスの缶。

通り過ぎた瞬間、その空き缶が強烈に気になった。

 

拾いに戻ろう...

いや、ま、いっか...

でも、やっぱり拾った方がいい...

 

躊躇しているうちにチャペルの玄関に着いた。

戻ったとしても1分もかからない。

神様は私に拾うように促しておられるような気持ちがしていた。

しかし、私は戻らなかった。

 

申し訳程度に、玄関横に落ちていた紙くずを拾って中に入った。

これでチャラだ...と思ったわけではないが、

私には受付の用意があるから仕方ない、と気持ちを切り替えた。

 

ほどなく、牧師先生が玄関から入ってこられた。

その手には、あのカルピスの空き缶が握られていた。

 

先生は、私と挨拶を交わして通り過ぎるとキッチンに入り、空き缶を洗って捨てて何事もなかったように出てこられた。

 

私の心はうなだれ、自分をひどく恥じた。

 

 

御言葉が心に響く...。

【あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。】ルカ22章

 

 

神様が私に語っているように思われた。

 

「わたしの宮にふさわしくない空き缶を、わたしはあなたに拾わせようとしたが、あなたがそれをしなかったので、わたしはわたしに忠実な他のしもべに拾わせた。

彼はわたしとわたしの教会を愛しているから。

手にあった空き缶を見たか。

あなたがやらなくても、わたしの目的は成し遂げられる。

しかしわたしは、あなたに拾わせたかったのだ...。」

 

 

 

主の前でできる言い訳などあるはずがない。

私は気づいていたし、拾おうとさせる促しを心にいただいていたのに、自らの意志でそれを無視した。

その結果、あろうことか、牧師先生に拾わせることになろうとは...。

 

 

面倒くさかったのか、汚くて触りたくなかったのか、はっきりとした理由すらわからない。いずれにしても、私は拾うことを躊躇し、戻ることを拒んだ。

 

 

自分のしたことを、主は、はっきりと私にわからせてくださった。

主を礼拝するその喜びの朝に、この私自身が主の前にかたくなな心で歩んだことを知らされて心を打ち砕かれた。

 

 

私は自分自身を悲しみながら心の中で祈った。

 

「神様、赦してください。

あなたの御心に背いて、自分のペースを変えようとしなかった私の罪をあなたはご存知です。

私をあわれんでください。

次は私が拾います。

あなたのさらなる恵みによって、私に拾わせてください。

私も、あなたとあなたの教会を愛しています。

聖霊の促しを敏感に悟り、すぐさま応答する忠実なしもべに私を変えてください。」

 

 

 

汚れた空き缶一つに躊躇していて、どうして罪人の魂に仕えることができよう。

「御心に従います。私を用いてください。」と祈っている私を、主は試される。

失格にするために試すのではないのだ。

失敗しては砕かれ、恵みによって悔い改めに導かれ、実践で練られ、誰も知らない所であっても真心から御心に従う神の手足となるために、主は日々私に働きかけてくださる。

 

神の愛、特別な霊的祝福...。

私はそう信じて疑わない。

私はいつも主キリストの内にあり、一日一日、主が共に歩んでくださる!

 

 

私を絶えず導いてくださる恵みの神様。

私はキリストの血潮によりあなたのものとされました。

私はしあわせな者です。

あなたを愛し、御言葉を慕い求めます。

あなたにお従いします。

私を整えて用いてください。

私たちの教会に与えられた御言葉に生きる牧師を心から感謝いたします。

あなたの聖なるご性質が教会を通して表され、御名が賛美されますように!

 

【わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。】ヨハネ10章

 

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幸せは心のメンテナンスから

初めて肉眼ではっきりとウグイスを見た。

なんだかとっても嬉しかった...。

木々の茂る道を歩いていたとき、すぐ頭上であの美しい鳴き声が聞こえたので見上げて目をこらすと、小さな薄緑色の鳥がホーホケキョと喉をふるわせる姿を見せてくれた。

 

真っ青な空に新緑の緑、鳥のさえずり。

満開を過ぎて山桜の花びらがやさしく風に舞い散っている。

 

ゆったりした時間、平和な空間、穏やかな心...。

 

この幸いに感謝せずにいられようか。

 

美しいものを美しいと思えること。

小鳥の歌声に立ち止まるゆとりがあること。

私たちの周りに満ちあふれている創造主なる神の恵みに気づくこと。

自然との関係を楽しみ、感謝できること。

 

 

自分の心が曇って心配事や不満でいっぱいだったら、見えるものも見えない。

同じ恵みに囲まれていても、手の届く幸いがあっても、気づかないなら受け取ることもできない。

 

気持ちにゆとりがあるか。

心が澄んでいるか。

あたたかい光が心にあるか。

とっても大事だ。

 

 

体が汚れたらお風呂に入ればすっきりする。


では、心が曇って息苦しいとき、どうするか。

嫌な感情がぐるぐる悪循環して頭がいっぱいになっていたら、どうするか。

 


私は、救い主イエス様のところへ向かう。

重くなっている心を認めて主の御名を呼ぶ。

 

あれこれ、心に渦巻いている醜い思いや罪悪感を引き起こしている事柄、悲しい気持ち、心配事、一つ一つお話する...。


正直に、具体的に告白する。

できれば声に出す方がいい。

 

イエス・キリストのあがないが私のためであることを信じ、完全な赦しを受け取る。


私をきよめ、慰め、力づけ、変えることができる神の力を信じて告白する。


救いの恵みを感謝し、キリストをたたえる。

 

この繰り返しが私の日常だ。

 

キリストのいのちが私を何度でも瑞々しくしてくれる。

 

ご自身の恵みできよめてくださるお方、主の御名があがめられますように!

 

【神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。】ヤコブの手紙4章

 

【もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。】ヨハネの手紙第一1章

 

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孤独に差し込む光

『世界で一番恐ろしい病気は孤独です。』

 

マザー・テレサの言葉です。

 

孤独は、肯定的にとらえられる面もありますが、関係の中に生きるように創造主によってデザインされた人間にとって、愛し合う関係を失った状態にある孤独は、やはり、見えない難病、深刻な問題と言えるでしょう。

 

このような苦しい状態を、聖書では罪の結果、つまり人間が創造主なる神に背を向け関係が断絶しているゆえの惨状だと教えています。(絆の回復 - 天国途上 〜生きること思うこと〜

 

 

孤独といっても、その背景や状況は様々でしょう。

世界情勢や社会問題として孤独に追いやられている人々のことをここで論じるつもりはありませんし、確信をもって語れる知識も私にはありません。

しかし、私は、どんな孤独の深みにさえも共にいてくださるお方、慰めを与えることがおできになる救い主を知っています。

だから、そのお方を心から紹介したいのです。

 

もちろん、難しい時代における国家のリーダーたちの働き、社会の支援システムの発展、何より家庭というものが健全にあたたかく機能するように、神の恵みを乞い祈りたいと思います。

 

 

このブログは、私自身の正直なエピソードをもって、生ける神イエス・キリストを証ししたいと願って書き続けています。

イエス・キリストを信じて、神のことばである聖書を学び、その真理に生きる中で私の心と人生が変えられ続けているからです。

私の内にある暗闇の部分がまことの光によって照らされて、想像もできなかった大逆転が起き続けているからです。

 

 

私自身、幼い頃から心の奥に孤独を抱えて育った者でした。(傷の癒し - 天国途上 〜生きること思うこと〜

 

しかし今は、孤独感が襲ってくることはあっても、孤独に飲み込まれることはありません。

何が起ころうとも主が共にいてくださると、聖書が約束している通りに信じているからです。

 

 

私は、一人密室の祈りにおいて、意識的に「アバ、天のお父さん」と呼びかけます。

 

【あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。】ローマ8章

 

「アバ」という言葉は聖書を学ぶまで聞いたこともありませんでしたが、聖書の舞台となっているユダヤの言語であるアラム語で「お父ちゃん」というような意味で、幼い子が父親を親しく個人的に呼ぶ時の言い方だと教わりました。

「アバ」でなくても、自分が小さかった頃に父親に対して使っていた呼びかけを、天の神様に対して親しく使えばいいとも学びました。

 

私は、肉親との関係が希薄だったので、この神の子としての呼びかけが自分のものになるまでとても長い時間がかかったと思います。

 

私は「パパ」と呼んでいたのですが、これを神様に対して使うのはどうしても馴染みませんでした。

だから、「父(ちち)」「お父さん」で一人の時に練習してみました。

でも、なんだか、やっぱり「人間」のイメージから抜けられず、大いなるお方に心が開かれていかないので、ある時から「アバ」を使って練習しました。

最初はもちろん違和感です。

しかし、密室で毎日のようにそう呼びかけて過ごしていると、「アバ」と呼んでいい親密な関係、大いなる父としての神、私の安らぎの懐である神がリアルになり、神様にもっと甘えて近づいていいんだというような解放感が心に広がるようになっていきました。

 

今では「アバ」の呼びかけを口にすると、むしろ大人のガードのようなものが解かれ、この自分が「神の子」とされている恵みが嬉しくて、神様にしっかり抱きとめられているようで胸が熱くなります。

 

全部わかってくださる方がいる。

永遠まで守ってくださる方がいる。

全責任を負って助け導いてくださる方がいる。

決して見捨てない、24時間365日ずっと共にいてくださる...。

 

私は、いつでもどこでも、心の中でも声に出しても、呼ぶことのできる名前を持っています。その呼びかけは空しい独り言ではなく、確かに聞かれ答えられることも知っています。

 

この真理が私から孤独感を締め出しているのです。

 

【主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。」】ヘブル13章

 

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脱・タラレバ娘

私たちの日常の中に、主なる神の御手はどれくらい働いているのだろう?

 

いや、むしろ、神の御手に関わり無く動いているものなどあるのだろうか?

 

 

 

私は、天地万物の創造主、すべての主権者、全知全能の神の意図により、その御手があらゆることに緻密に働いていると堅く信じている。

それは、私たちにとって都合よく物事が動くはずとか、一般的に喜ばしいと捉えられる結果を指しているのではなく、まさに人知を越えた神のご計画が、聖なる御手によって世界のすべて日常の隅々まで及んでいるという確信だ。

 

私自身の愚かさや失敗、人間たちの思惑や罪の結果も含めて、神様にとって想定外の出来事など何一つない。

混乱が深まる社会にあって、この真理にこそ、私は慰めや希望を見出す。

 

 

聖書に出会う前の私は、いわゆる日本文化の中で育ち、神社仏閣あるいは仏壇から夜空の星まで、なんとなく拝み、なんとなく願い事をしたりしていた。

しかし、その効力を本気で期待していたか振り返るなら、そんなことはないと思う。

思いがけず嬉しいことがあれば、単に「ラッキー」だった。

(そう、私は本当に感謝の心が欠落していた。恥ずかしい...。)

 

嫌なことがあると人のせいにしたり、運命を嘆いたり、自分を責めたりした。

 

心の奥では「不幸な運命」というものを漠然と信じていたと思う。

 

そんな私が、こうして聖書の真理を信じる道に導かれ、イエス・キリストを愛し、喜びと平安を深めながら年を重ねるようになっているとは、人生の大逆転だ。

私には奇跡としか思えない。

とはいえ、この奇跡は、ごく一般的に見える出来事の連続で覆われていて、奇跡と認識させるような派手な装いはない。

 

 

たとえば、私は母子家庭で育ち、経済的な事情もあって進学の選択肢には制限があった。高校も大学も、第一志望の道は叶わなかった。

しかし、あの高校でなければ、あの大学を知ることはなかっただろう。

私が進学したのは、高3の担任教師が「奨学金制度が充実している」と推薦受験を勧めてくれた通学にも便利なキリスト教主義の短大だった。

そこで私は初めて聖書に出会い、クリスチャンの先生に出会うことになる。

賛美歌を歌い、聖書のメッセージを聞く世界に触れる。

 

もっと頭が良かったら、他に才能があれば、家が裕福だったら...、違う進路があっただろうか。

今ならわかる。

御手が働いて、私はあの短大に必然的に入学したのだ。

 

就職した会社もまた、私がやりたい仕事とは言えなかった。

仕事がうまくいかず、悩んだ末に短大時代の恩師に相談したら、ちょうど欠員が出た事務職員の採用募集をしているタイミングだった。

なんと私はキリスト教主義の母校で事務職員として勤務することになる...。

その職場で働いていなかったら、私は今の夫に出会うことは決してなかった。

夫と結婚していなければ、私が今の教会につながることも、信仰で生きるようになることもあり得なかった...。

 

一つ一つのタイミング、出会いが、実は神様の布石であり、奇跡の連続ではないか...。

 

 

願いが叶ったことも不本意な結果も含めて、最悪だと感じた出来事すらも通して、不思議なかたちで御手が働いていて確かに私は導かれてきた。

神様の壮大かつ繊細な、完璧な御手の計らいがどこにあったか、天国に行けば全貌がわかるだろうか。

 

 

 

あの日ああしていれば...、もしこうでなかったら...。

昔の私はそういう無い物ねだり思考が強く、考えても仕方がない「タラレバ」で愚痴をこぼしてばかりいる者だった。

 

クリスチャンになってからも、すべて順調なんてことはない。

悲しいこと、願う通りにいかないことはもちろんある。

しかし私は、その中でもはっきりと希望を告白することができる。

 

恵みの神様の御手がこの事にも働いていて、主権者である神様の計らいにより最善が進められている。

聖定のみこころだけが実現する。

神様が何をしているのか、私にわからなくても問題ない。

私は主に信頼し、御言葉に生きます。

 

 

 

聖書の真理をコツコツ学び、創造主なる神を知るようになり、時間は結構かかったけど、「不幸な運命」なんて実体がないとはっきりわかった。

そんなものは、もはや、私になんの関係もない。

 

「不幸な運命」と「恵みの福音」を同時に信じるなんて不可能なのだ。

 

恵みの福音を味わうほどに、かつて私を苦しめていた偽りは砕かれていった。

タラレバのつぶやきもいつしか消えていった。

 

いま私は、聖書で約束されている「永遠の祝福」を信じて、恵みのただ中で生かされている。

 

私が苦しむことを通しても、喜ぶことを通しても、

逆風に見える時も順調に感じる時も、

すべてのことを通して神のみこころが成就し、

聖なる主の御名だけがほめたたえられますように!

 

【あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。】箴言3章6節

 

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祈りのための祈り

イエス様が十字架へ向かう前、弟子たちと最後の晩餐を終えてからゲッセマネの園で祈りの格闘をされた。

その間、弟子たちは少し離れた所で祈っているように命じられる。

しかし、弟子たちはまともに祈ることができず眠りこけてしまう。もだえ苦しんで祈っていた主イエス様に眠っていたところを注意され、再び主が祈りに向かわれるとまた眠ってしまう。そんなことが三度も...。

 

イエス様は、こうおっしゃっている。

 

【それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」】マタイ福音書26章

 

 

この弟子たちの有様を、私は笑うことができない。

こんな時に情けない奴らだ...と憤ることもできない。

私自身、一時間でも祈っていられない者だと思うからだ。

 

イエス様を愛している心は嘘ではないのに、眠りこけてしまう自分が悲しくて、主の前でどうしていいかわからない弟子たちの気持ちに同情する。

祈っていたいのに、祈っていることができない...。

 

また、弟子たちを教え愛し、人々を愛して、ご自身を十字架で捧げ尽くすために血の汗を流してもだえ祈り続けたイエス様が、どんなお気持ちで、眠りこける弟子たちに祈りの促しを重ねたことか...と想像しては胸がつまる思いになる。

 

 

 

 

お祈りは好きですか?と聞かれたら、あなたはどう答えますか。

 

私は少し答えに困ります。

主の御名を呼んで、心を打ち明け、思うまま色々おしゃべりする...。

主イエス様を喜びほめたたえ、感謝したり、謝ったり、お願いしたり...。

それは私にとって、とても日常的で自然なことになっています。

確かに幸いなひとときです。

 

しかし、同時に、祈りはひどく億劫だったり、うまくいかない...と思うことも事実です。

雑念が入る、眠気に襲われる、そんなことも実にしばしばあります。

 

この時間を祈りのために特別に取り分けようとしているほど、意識がそれていき、あれこれ他のことが気になり始め、祈りがストレスになるというか、エンジンがかかるまである種の妨害にあっているような体験をします。

 

あぁ、私って「祈りの人」じゃないんだなぁ...。

そんな結論に落ち着いてしまいそうになるのです。

 

ところが最近読んだ『ジョン・バニヤンによる祈りの力』という本の中で、実にぴったりとくる文章に出会いました。

少し長くなりますが引用します。

 

自分のことを話すなら、なかなか思うように祈ることができないというのは、わたしの経験でもあるのです。これから祈りに入ろうとしながら、わたしの心はなかなかそういう思いになりきれないことが多いのです。そしてまた、神との交わりの中にいるときは、わたしの心はその交わりから離れていきたがります。祈りの中でわたしは何回も神に求めなければなりません---わたしの心を捕えてください、そして神から心が離れていかないように、キリストにあって助けてください、と。たましいが神のみそばにあるとき、そこからさまよい出ることがないようにお願いしなければなりません。(略)祈るときに私たちの心は、どんなに困難を覚えることでしょう。神の御前からなんとか逃れようとして、心はあらゆる策略を使い、数限りない言い訳を考え出します。上手な祈りができたとき、なんと心はおごり高ぶることでしょう。人の前で祈るとき、どんなに醜い偽善が忍び込むことでしょう。そして、聖霊が共にいて助けてくださらないなら、密室の中で神との交わりをほんとうに意識することが、なんと少ないことでしょう。

 

 

祈りの偉人と呼ばれる方々がおられます。

ジョン・バニヤンもその一人でしょう。

そういう方々こそ、祈れない自分をよく知っていて、なおさら御霊の助けを切に祈り求めながら祈りの生活をされていたのではないかと教えられました。

 

聖書には、御霊によって祈る、ということが繰り返し語られています。

私の内に与えられている助け主聖霊さまを信頼し、「あなたの助けによって祈らせてください」と祈ることを覚えていこうと思いました。

そうすれば、5年後、10年後、私の祈りの生活はどれほど変わっていることでしょう...。

 

【すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。】エペソ6章

 

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老いの重荷、加齢に伴う恵み

同年代の女性たちでおしゃべりすると、物忘れネタで盛り上がるようになった。

「あるある〜!」

「わかる、わかる〜!」

それぞれが自分のエピソードを持っていて、次々に披露して笑い合う。

 

自分だけじゃないんだ...とちょっとホッとしたりもする。

 

だけど、それぞれ自虐ネタで笑ってはいても、まだ半分は受け入れきれない気持ちがあるのだと思う。

そんな自分が情けない、これからが心配、自分のしたことがショックで落ち込む、余計な時間がかかって予定が狂う、イライラするしなんだか焦る...。

誰かに何か言われようものなら傷ついてしまう...。

 

「私もそうだよ〜」と笑って慰め合っても、やっぱり心の底では悲しんでいる。

あ〜、嫌だなぁ〜と最後はため息まじりになる。

 

 

この世に生まれた瞬間から、私たちはみな等しく年をとっていく。

成長と呼べる時期を過ぎると、加齢とか老いとかの言葉で表現される段階に来る。

人生のピークをどこと考えるかは人それぞれだろう。

しかし、老いも死も、避けられる人はいない。

そんなことは当然と思いながらも、ある年齢までは自分とは関係ない感覚で生きているのではないか。

 

私の場合は40歳を過ぎた頃、まだ世間では働き盛りと言われる年代だと思うけれども、「もう若くない」という実感を強くした。

「このまま世代交代が来て、やがて表舞台から消えていく存在だ」という現実を考えることが続いて空しさに襲われた。

 

まだまだ現役、私はこれからだ!

...と意欲を燃やすことができればいいのに、実際は元気なアラフォーだというのに、不自由になった老人のように気持ちがしぼんだのを思い出す。

 

 

そんな頃に一つの詩に出会い、心が変えられていくキッカケとなった。

それ以来、折々に思い出して味わう。

 衰えから目をそらせる何かに没頭するのでも、老いを避けるべきものと見るのでもなく、人生後半に備えられた神様の恵みと共に自分の現実と向き合っていくため。

自分がどこに向かって生きているのか...ゴールを確認し、避ける事のできない悲しみがあっても希望と平安をもって歩むことを教えられるからだ。

 

 

『最上のわざ』 (ヘルマンホイヴェルズ作)

この世で最上のわざは何?

楽しい心で年をとり

働きたいけれども休み

しゃべりたいけれども黙り

失望しそうな時に希望し

従順に平静に己の十字架を担う

若者が元気いっぱいで神の道を進むのを見ても妬まず

人のために働くよりも

謙虚に人の世話になり

弱って、もはや人の為に役立たずとも

親切で柔和であること

老いの重荷は神の賜物

古びた心に、これで最後の磨きをかける

まことのふる里に行くために

(後略)

 

 

何かが「できる」ことは嬉しいことだ。

誰かの役に立つことができれば、なおありがたい。

だけど、そもそも、私たちは自分の力で生きているわけではない。

心臓の鼓動一つ一つが、神の恵みによって支えられている。

 

できないことが増えていくと確かに悲しいし不便だけど、そもそも全部助けられていたことを知り、主の恵みにゆだねる姿勢で謙遜にされていくなら、それは「最後の磨き」なのだろう。

 

できるだけ元気で年を重ねたいと思う。

でも、若い頃に戻りたいとは全く思わない。

 

何かができることよりも、人に評価されることよりも、ずっと喜ばしいことがある。

こんな自分がイエス・キリストのものとされていること。

自分の名が、天にあるいのちの書に記されていること。

イエス・キリストの犠牲と引き換えに永遠のいのちが与えられていて、まことのふる里でわが主にお会いする日が約束されていること。

 

この喜びは、生涯を通して決して消えることはなく、むしろ年をとっていくにつれて益々大きくなり深まっていくはずだ...。

 

 【私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。】第二コリント4章

 

 

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