天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

何のために存在しているのか

スピードスケート女子パシュートが金メダルに輝いた。

オリンピックのアスリートたちがインタビューで繰り返し語る「チーム」という言葉。

そこにある信頼関係や互いを認めて感謝している様子、高め合うために懸命に努力してきた姿に感動する。

個人種目であろうと団体戦であろうと、世界で戦うレベルまで極めてきたアスリートたちだからこそ、自分一人の実力だけでやれていると思っている人などいないのではないか。

 

 

 

いつからだろう...。

「チーム」という言葉を聞くと、私は胸が熱くなる。

 

私にとっては、子どもの頃から、仲間と呼べる存在は必要不可欠なものだった。

私は友達に恵まれて育った。

だからか、

「仲間がいない」と感じる状態に置かれると、

あっさりガタガタになるもろさもある。

 

 

今の私が「チーム」という言葉から真っ先に考えるのは「教会」だ。

キリストにある共同体。

同じミッションに召され、同じ目標を与えられ、キリストにある勝利のために、永遠の栄冠を受けるために力を合わせて働き、闘い、神様の素晴らしさを表して愛に生きるように集められたチーム。

 

私たちの主は、一人一人を導きながらもチームとして指揮しておられる。

私たちに与えられている召しは、個人レベルのものではない。

チームの全員が個々の特徴を生かし、互いに信頼し、助け合い、喜びも悲しみも分け合い、困難な時もチームであり続け、互いの成長のために励まし合いながらしっかり連携してベストを追求しなければ成し得ない。

個々の力が優れていてもチーム力がなければ、成果にはつながらない。

 

 

私自身は、ポイントゲッターではないタイプ。

所属していた部活でも万年補欠選手だった。

秀でた能力など何一つ持ち合わせていないと今でも思う。

 

だけど、不思議なものだ。

40代も終わりに近づいた最近になって、自分自身を再認識したことがある。

私には「チームであること」への特別な情熱が授けられているようだ。

そうなるような経験をも神様が備えてきてくださったと、今は思える。

 

私がまだ独身だった頃に、卒業後も親しくしていた恩師が言ってくれた言葉を思い出した。

「あなたは、のりのような人よ。あなたが入ると、人と人がくっついて仲間になる。」

その時はピンとこなかったし、むしろ「糊」なんて冴えない印象だった。

 

だけど、今は、なんともありがたく、恐れ多い気持ちだ。

糊は、それ単体では何の意味もなく、機能は全く発揮できない。

キリスト共同体のために、私は存在している。

教会のために、この恵みの賜物が用いられますように...。

 

 

一人一人が、神によって創造された自分自身を正しく発見すること。

あの人ようでなくていい、あなたはあなた自身として機能していくことが一番大事。

そのことは力強い教会が建て上げられていくために不可欠なのではないだろうか。

主であるキリストが、私たち一人一人を召し集めてくださったのだから...。

 

『キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。』エペソ4:16

 

 

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ウチの子になったね...

ウチには猫が一匹いる。

この子は昨年の夏に我が家に来た。

保護された捨て猫の譲渡会で出会った。

生後二ヶ月ほどの子猫だったが、ゲージの隅でじっと動かない臆病な子だったからか、なかなか貰い手が決まらずに最後に残っていた一匹だった。

 

ウチに連れて来てキャリーから出すと、即座に人の手が届かないソファーの下に逃げ込んで出てこない。覗き込むと、おびえた顔で警戒している。

そっとしておこうと他のことをしている間にどこかに隠れてしまった。

エサを置いても食べに現れない。

そんなスタートだった。

 

ここに来るまでに怖い思いをしたのかな...。

果たして人に懐くのだろうか...。

 

逃げ隠れしないで部屋にいるようになってからも、自分からは近づいてこない時期が続いた。

 

何かの拍子に、子猫ながら精一杯背中を盛り上げながら毛を逆立てた威嚇のポーズをとる。

何が怖い?

怖くないよ。

名前を呼んでやさしく声をかけ、こっちを見ている時は意識的ににっこり笑顔を向けるようにしていた。

 

 

初めて私の膝に乗って来たときは感動した。

飼ってから一ヶ月ほど過ぎた頃だっただろうか。

そっと背に触れ、なでてやると、グルグルと喉を鳴らして体をリラックスさせた。

 

それ以来、みるみる懐いた。

私の後を追いかけてくる。

困らされることもあるけど、かわいくて仕方がない。

 

すっかり大きくなった猫ちゃんを抱きながら言う。

ウチに来てくれて嬉しいよ。

ありがとうね。

長生きしてね。

ちゃんと最期まで面倒みるから安心してここで一緒に暮らそうね。

神様、この子をありがとうございます。

 

 

 

今でも突然の物音に反応して逃げるとか、臆病な性格は残っているけど、普段はのびのびと好きにしている。

お客さんにまで甘えるようになった。

人間に対する認識が変わったのかもしれない。

 

 

そんな猫の変化を見ながら、私は思う...。

 

誰のもとで生きているのかが、知らず知らずに私たちの心理に大きく影響し、それが態度に現れてしまい、結果的に人生すら左右してしまう。

 

 

私は、恵みの神によって救われ、神の子とされた。

ご自身のいのちを捨てて私を救ってくださったキリストが、私の主となってくださった。

私を決して捨てず、永遠に共にいる...と約束してくださったお方のもとで、私は恵まれて生かされている。

 

 

イエス・キリストに出会っていただく以前の私にあった傾向は、完全になくなったわけではない。

しつこく残っている性質もまだある。

 

だけど、私は、安全と安心を知る者にされた。

びくびく、おどおどすることよりも、のびのびとし、喜々としていることが増えた。

 

私に向けられた主の恵みの眼差しが、いつまでも変わらない神の御言葉が、私を内側から変え続けているのだ。

 

主イエス様があまりに素晴らしいから、

私がどうであっても神様の愛が変わらないから、

安全と安心いう恵みの中に憩いながら、

主が喜んでくださる者へともっと変えられたいと願わずにいられない。

 

 

『お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあながたがを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。』エペソ4:32-5:1

 

安心していない心のまま行動を直そうとしてもうまくいかない。

まずは、神の子とされている真理をもっと味わい知ることが重要だろう。

 

私をご自身の子としてくださった神様はどのようなお方なのか、私をどれほど愛しているのか...。

 

それを正しく理解していくなら、私たちは心の底から喜びがあふれ、恐れは薄れていき、物事の見方も行動ものびのびと変えられていくに違いない。

そして、一つの願いが私たちを動かすようになる。

主ともっと近く、もっと親しく、ずっとずっと一緒にいたい...と。

 

 

あなたは、誰のもとで生きていますか?

 

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どんな準備をしますか?

神の時は必ずやって来る。

その時のために、神に用いられる準備をしておくことは大切なことである。

その時が来たなら、状況は驚くほど早く、また無理なく進展する。

私たちも、「その時」のために今から自分を整えようではないか。

 

私が活用しているディボーションガイド・Clay(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ発行)の解説にあった言葉。

 

「神の時」「神の摂理」「神のご計画」という聖書の真理について、現代の私たちの人生にも働いている普遍的な原則としてこのところ繰り返し考えながら過ごすようになり、私は確かに力づけられている。

変わり映えしない主婦の毎日と望むことが閉ざされている現状に、ともすると曇りそうになる私の内面に光が差し込むのだ。

 

 

創世記のディボーションで、ヤコブの息子ヨセフを時間をかけて見てきている。

兄たちの悪意によってエジプトに売られて奴隷となったのが17歳、様々な試練の中で投獄されるも誠実に生き、ついにエジプト宰相として表舞台に立つのが30歳。

創世記の登場人物とその物語を丁寧に味わい、解説に助けられて恵まれている。

悲劇的と思える展開や予想外の出来事すらも、実現が遠くなる夢も、神様の摂理が働いていることを繰り返し教えられ励まされる。

 

不運ではない。

タイミングが悪いのでもない。

遅すぎず、早すぎず、全知全能の神だからこそできる絶妙さ。

その全貌なんて人には分かり得ない。

 

当事者としては「遅すぎる」と感じてしまう状況も、

祝福されているとは思えないような悲しい出来事も、

自分はもう終わりだ...とあきらめたくなる不遇な期間も、

神様の視点からは、用いるために召された者に必要な「集中治療室」であったり「特別訓練メニュー」なのだろう。

 

 

神の時は必ずやって来る!

 

あぁ、なんと力強く、良き知らせだろう...。

私は、神の時と神の方法に信頼する。

 

 

「その時」とは、究極的には主とお会いする携挙の時なのだろうが、それは大いに待ちこがれつつ、もう少し個人的な観点でディボーションの適用を考えてみた。

地上の人生において私が思い描いている「その時」、つまり閉ざされていた扉が開かれて物事が動き出すような時が来たら、どうしたいのか?

そのために、今、どんな準備をしながら生活できるだろうか?

 

 

信仰の兄弟姉妹との交わりを深めたい。

聖書の話、神様の話、キリストを中心に自身のことを正直に分かち合い、主の恵みとあわれみを求めて希望をもって祈り合いたい。

教会の様々なプログラムに参加し、仕えたい。

家をオープンにして若い人たちを招き、健康的な家庭料理でお腹を満たしてホッとしてもらって、さらに心も満たされるひとときを共にしたい。

家族ぐるみで付き合える仲間たちとお出かけしたい。

手助けを必要としてる人や孤独に耐えている人を訪問したい。

聖書を学びたいと願う女性たちと一緒に聖書勉強を重ねながら、聖書の真理を生きるために助け合う関係を築いていきたい。

夫婦そろって心から主を礼拝し、一緒にお祈りしたい。

キリストのために何かしようとする夫を助ける人生を体験したい。

 

 

そんな時が、ほんとうに来るだろうか?

現実的に考えてみてよ...もうあり得ないでしょ?

 

そんなささやきが心に浮かぶのも事実だ。

 

しかし私は、生きて働く全能の神を信じる。

神様の絶妙なご計画に期待する。

神の時が必ず来る、私に与えられた信仰と経験が用いられる状況が開かれる時が来ると信じて、ただひたすらに待ち望む。

 

だから、信じている者らしく準備しよう。

 

聖書勉強に時間を取り分けて、毎日の中で御言葉と祈りの充実に努めよう。

お料理のレパートリーを増やそう。

体力維持のための運動も習慣づけよう。

家庭が心地よく整えられているように家事を見直そう。

自分を欺いて他の何かで満足を得ようとする心を見張ろう。

 

そして何より、

助け手らしい妻としてのあり方を考えて練習し、夫の救いのために祈り続けよう...。

 

 

神様の時は、実現するまではいつなのか分からない。

だから自分の夢や計画を押し進めるのとは違う。

ただ神様の最善を信頼して、いつまで続くかわからない準備期間を誠実に歩む。

信頼して準備している生き方と、あきらめて成り行き任せにしているのとは、違いが明確に現れるはずだ...。

 

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

ヘブル11:1

 

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大丈夫、大丈夫

サッチーこと野村沙知代さん突然死のニュースには驚いた。

テレビに映る野村元監督はすっかり憔悴した姿で、深い悲しみが見える。

 

記者から奥様のエピソードをと聞かれて、こんなふうに答えていたのが印象的だった。

「『大丈夫よ』というのが口癖で、何があっても『大丈夫よ!』といつも明るかった。その言葉にずいぶんと助けられた...」

 

 

「大丈夫」といつも言うかはともかく、肯定的な言葉を語り、動じない心で妻が夫に寄り添うとき、それは夫にとってどんなにか助けになるだろう。

妻が明るく安定していることの益は、お金に換算できない大きな力だろう。

 

 

聖書には、妻についてこのような言葉が記されている。

 

『しっかりした妻は夫の冠。恥をもたらす妻は、夫の骨の中の腐れのようだ。』箴言12:4

 

『良い妻を見つける者はしあわせを見つけ、主からの恵みをいただく。』箴言18:22

 

 

妻がどんな人物かは夫のしあわせに大きく関係していることがわかる。

(もちろん、妻の幸福が夫の影響を受けることも同じように言える)

身が引き締まる思いだ。

願わくは、夫に幸いを与える妻でありたい。

 

でも、私はサッチーさんのように気丈な女性ではない。

楽天的でもないし、自信家でもない。

なにかあれば動揺し、泣き言をこぼしやすい。

 

 

しかし!

よく考えたら、

私は確かな根拠をもって「大丈夫よ!」と言える者とされていることに気づいた。

 

だって、私はすでにキリストのものとされていて、全知全能の神様が私を愛して御子の贖いによりご自身の子としてくださった。

地上においても私を守り導き、すべてを働かせて信仰者らしい成熟のために益とし、永遠に至るまで、神である主が全責任をもって祝福すると約束してくださっている。

私が罪を犯してしまっても、良いことができなかったとしても、私のなにかによって、その約束が取り消されることは決してない。

 

これ以上の保証があろうか...。

 

 

だから、クリスチャンとは、

どんな状況になろうとも

死を前にしてすらも、

まことに心から、

キリストのゆえに「大丈夫、大丈夫」と言える者だ。

 

そういう心を確かにし続けて日々の生活を営むなら、

いざという時も「大丈夫よ」と穏やかな笑みで夫に寄り添うことができるだろう。

 

  

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』ローマ8:28

 

『私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまず死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。』ローマ8:32

 

『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』第一ヨハネの手紙4:10

 

 

主よ、恵みの福音をありがとうございます。

真理を心に刻み、福音にふさわしく生きることができるように、日々助け導いてください。

キリストにある私のゆえに、愛する夫があなたの恵みを受けますように、私をさらにつくり変え続けてください...。

 

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自分は何者なのか

毎週の礼拝は私の喜びだ。

これは本当に恵まれたことだと思う。

 

もちろん、疲れていたり、調子が悪い日もある。

でも、私は知っている。

心を主に向けて賛美をささげ、聖書のメッセージを受け取ることで、自分が健やかになること、考えが軌道修正されたり、心に希望や感謝や知恵が与えられて新たな決意が導かれることを...。

 

聖書が正しく解き明かされ、私たちの生活や心の変化につながる恵みの真理を教えられる教会、信仰生活の中心軸としての礼拝に喜んで集える幸いを、当たり前でない恵みとして年々ますます感謝している。

愛情と手間ひまをかけてよく準備された健康的なおいしい食卓で育てられる子どものようだ。

クリスチャンでもみながそうとは限らないことを私は知っている。

だからこそ、恵み慣れしてはいけないと思うし、恵まれていることに感謝し、恵みを分かち合うために恵まれているのだと考えるようになった。

 

 

今週はアイデンティティーについて特に教えられた。

アイデンティティーとは、自分をどんなものだと言うか、自己認識、といえるような言葉。

 

『私たちが神の子どもと呼ばれるために、---事実、いま私たちは神の子どもです---御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。』ヨハネの手紙第一3章

 

「神の子」というアイデンティティーを確信することから変化は始まる。

 

アイデンティティーは、その人の生き方、人格、態度や言動の土台となる。

どんなアイデンティティーを持っているかで、最終的には人生が左右されていくことになる...。 

 

 

メッセージを聞いて、私は自分の中にある自己認識を考えてみた。

最近では自己紹介する場面があれば、

「私はクリスチャンです。毎週、教会の礼拝に通っています。」と言う。

反応が良くても悪くても、この点を抜きに私という人物はもはや語れない。

 

もっと言うなら、心にある自己認識は、「神の子」「キリストのしもべ」という肩書きで自分自身をとらえていて、感謝したり、勇気を出したり、慰められたり、安心や希望を得たりしている者なのだ。

 

いつからだろう?

バプテスマ(洗礼)を受けてすぐでないことは確かだ。

最初は、聖書から教えられることよりも、自分にしみこんだそれまでの思考が私を動かしていた。

 

信仰を持つ前のアイデンティティーを思い返すと...、

「不幸な運命に生まれた者」

「必要とされない者」

特別頭がいいわけでもなく、スポーツも音楽もできない「なんの取り柄もない者」

つまり、自分自身を「価値がない者」「幸せになれない者」と見ていた。

 

これは必ずしも現実そのものではなかった。

友達にも恵まれて、活動的な生活をしていたのだから。

 

とにかく現在がどうであろうとも、自分自身がそのアイデンティティーを握って手離そうとせず、堅く信じていたのだと今ならわかる。

 

そのアイデンティティーは、結婚生活にも信仰生活にもかなり影響を及ぼした。

 

「クリスチャンになっても運命は変わらない」

「自分はダメクリスチャンだ」

 

何度つぶやいたことか...。

 

 

しかし...

そんな私でも、確かに変えられてきた...。

何によってか。

聖書を繰り返し学ぶことによってだと思う。

 

自分がどう感じるか、誰がどう言ったかではなくて、

聖書が語っていることこそ真実だと、御言葉を握るように導かれてきた。

 

良いことができているとか、正しいことができないとか、私たちの行いによって、神の子になったり、神の子リストから消されたりするようなことは決してない。

誰かとの比較でもない。

 

キリストが成してくださったことのゆえに、ただ恵みによって、

私は神の子とされた!

何があっても、何がなくても、その事実は決して変わらない。

 

私が正しい者でないことを私以上にいや完全に100%見抜いておられるお方が、私を愛してご自身の子とすると決め、キリストを与えて救いを実行してくださった。

 

この福音を何度も聞かされ、理解を深め、味わい、神様と祈りによってお話して、聖書を神のことばとして読み続け、少しずつ自分を御言葉に合わせてきた。

そうして、私のアイデンティティーは変化してきたのだと思う。

 

願うようにいかない悲しみや自分の罪深さに直面しながら、御霊に助けられて聖書のことばに信頼を置くようになり、キリストだけを望みとする心が芽生え始めた。

 

時間がかかったものだ...。

バプテスマを受けてから20年になる。

しかし、早さが重要なのではないだろう。

表面ではなくて本質的な変化、確かなアイデンティティーが重要だ。

 

私はようやく、自分に確かな明るい未来を描いて生きるようになりつつある...。

 

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生涯現役

「あなたは現役ですか」

...と質問されたら、

あなたは何をイメージし、

どう答えますか?

 

現役であり続けたいですか?

 

 

スキージャンプ葛西紀明選手は45歳にして現役、さらに8度目のオリンピック代表も決まり、レジェンドと呼ばれている。

現役であり続けることの尊さ、年を重ねても勝ち続けることの難しさを誰もが知っているからこそ、期待と称賛の的だ。

華々しい注目の陰で、どれほどの地道で過酷な努力を継続しているのだろうと尊敬する。

 

聖書では私たちの人生を長距離走として語っている箇所がいくつもある。

 

『私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。』ヘブル人への手紙12章より

 

この聖書箇所を読むと、私たちの前には走り続けるべき競争のコースが置かれていることがわかる。

地上に命のある限り、私たちはこのレースにおいて生涯現役と言える者であるし、クリスチャンはいつでもそう認識しているべきなのだろう。

このレースでは、他者との比較やタイムの早さが重要なのではなく、むしろ忍耐をもって完走することに強調があると思われる。

目の前にどんなコースが展開しようとも走り続けるための秘訣は、イエスさまから目を離さないこと。

 

 

先日、ハーベストタイムミニストリーの東京定例会に参加する機会があった。

その礼拝で中川健一先生のメッセージで解き明かされたのがヘブル12章で、ちょうど今の聖書箇所についても語られて、とても恵まれた。

特に、信仰の創始者であり完成者であるイエスさまが完走されたコースを具体的に黙想させられて胸が熱くなった。

 

「イエス様が走られたコースは、まず天からベツレヘムです。この距離どれだけありますか?」と中川先生はおっしゃいました。

そんな視点で考えたこともなかったけど、気の遠くなるほどの距離...。

「物理的な距離だけでなく、霊的な意味ではどのくらいのギャップを越えてくださったと思いますか」と問いかけは続きました。

 

メッセージを聞きながら、なにか胸がしめつけられるような気持ちで思いめぐらし、次の御言葉が心に浮かびました。

 

『キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。』ピリピ人への手紙2章

 

エスさまの完走されたコースは、下へ下へとご自分を徹底的に低くされる道であり、人に神の愛を100%に示す生き方でした。

完全な愛と義の方が罪人として十字架で処罰され、神の怒りの杯を飲み干し、復活され救いの道を切り開いて、最後の最後に天に昇って栄光の座に着かれました。

 

「イエスさまから目を離さないでいる」って、こういうことか...と私は感動しました。

感謝と喜び、賛美の思いとこのお方に従って行きたいという勇気が心の底からわきあがってきました。

エスさまの姿を聖書から学び、正しく理解を深め、具体的に考え、黙想し続けることは、確かに信仰のレースを走り続ける力です。

 

 

天には、既に完走した勇敢な信仰のレジェンドたちがたくさんいます。

 

私には、私の前に置かれたレースがある。

あなたには、あなたの前に置かれたレースがある。

そのコースは全然違うものでしょう。

比較できるものでもないし、比較するものでもないでしょう。

 

だけど、

「イエスさまを見つめよう。イエスさまをもっと知っていこう。」

と励まし合いながら、共に走ることができるはずです。

 

 

エスさまを信じたけど、期待した人生と違う?

信仰生活が思うようにいかなくて苦しい?

 

私はそういう思いで悩んだ時期が長くありました。

 

悩むのも無理ない状況があるとしても、引退しないでほしいのです。

大変でもとにかくがんばれ...と言いたいのではありません。

 

立ち止まってもいい、ゆっくりでもいい、イエスさまにフォーカスを合わせて、イエスさまを知ることを求めながら、生涯現役で完走を目指しましょう。

 

 

何歳になってもどんな状態であっても、私たちにはそれぞれ神様が備えてくださった競技コースを走り続けるという使命があり、栄冠の時への希望を抱いて生きることができる。

体の衰えを実感している昨今、私はこの真理に深い慰めと励ましを抱きます。

 

私は生涯現役です!

 

走り続けてほんとうによかった...そう言う歓喜の日を信じて...。

エスさまから目を離さないで、ピントを合わせて、フォーカスをしぼって、

よく見えないなら学びを求めて、助けを祈って、一歩一歩...。

 

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止まってもまた走り続けよう

新年おめでとうございます!

 

半年ぶりにブログ再開。

長いこと更新しないまま過ごしてしまいましたが、それでもブログを訪ねてくださる方々がたくさんいて本当にありがたいことです。

2018年、神様が成してくださることに期待と信頼をもって歩みます。

あらためて、よろしくお願いいたします。

  

  

お正月は箱根駅伝を毎年楽しみに見ている。

一人一人が自分に委ねられた領域で最善を尽くし、選び抜かれた選手たちが裏表さまざまに連携しつつ監督の指揮の元にチームの勝利を目指す。

単純な私は、どの選手を見ていても感動する。

 

そして、必ず思い浮かべる聖書の言葉がある。

 

『兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。

 ただ、この一事に励んでいます。

 すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、

 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、

 目標を目指して一心に走っているのです。』ピリピ3章より

 

 

四連覇を達成した青山学院大学は本当に見事だった。

中継中に解説者が発したコメントが印象的だった。

 

「青山の選手には悲壮感がないんですよね」

 

大きなプレッシャーと高いハードルを前に、365日ずっと努力を重ねた選手たちだ。

自分自身の限界を越えんばかりに思考と身体の総力を尽くして鍛錬し、一心に走っている。

結果ははっきりと数字で判明する。

 

苦しくないはずがない。

つらいことが多いに決まっている。

心の格闘も測り知れない。

 

だけど確かに、

「悲壮感がない」という言葉がぴったりくるチームだ。

監督のチームづくりによるところなのだろう...。

 

 

クリスチャンである私たちも目標を目指して与えられたレースを走っている者だと聖書は教えている。

 

ただし、私たちのゴールは地上にはない。

沿道で大勢が応援してくれるような花道もないだろう。

みなに注目されるわけでもないし、走っている姿も華々しく見えるとは限らない。

人生の折々に何が起きようとも、すべて通過点ということになる。

 

この競技コースは王者になるためのものではなく、キリストに倣って自らしもべとして生きることを目指す。

完走の鍵は、自信ではなくて、召してくださった主への信頼。

 

 

周りの人たちは群れをなして反対方向に走っていくかもしれないし、私たちの価値観は誤解されるかもしれない。

 

そんなレース、よくやるね。

堅苦しくて大変そう。

まじめだなぁ。

お人好し。

変わり者。

 

クリスチャンはそんな印象を持たれることがあると思うけど、

もしかしたら、私たちの走る姿に悲壮感は漂っていないだろうか...。

そんなことを思った。

 

キリストを愛して従う者の人生は、確かにしんどいレースという面はある。

しかし、主にあって勝利を確信し、希望と喜びをもって持ちうる全力を使って走り切ることができるはず。

失敗したり倒れたり、何かのアクシデントに見舞われたとしても決して絶望せずに、時が来たら立ち上がり、希望をもって何度でも再出発できるはず。

キリストが共にいてくださるから...。

主が祝福を約束してくださっているから...。

 

 

クリスチャンとして人生を走るあなたに、いま悲壮感はありますか。

 

走る意味を見失い、ゴールへと導いてくださる主の約束を忘れ、私たちの力であるキリストとの交わりから離れてしまうなら、失望や悲壮感にとらわれても無理ない。

 

かつての私は教会に集いながらも、そういう傾向が強かったと思う。

その時期の信仰生活は義務感や仕事のようで、絶えず一喜一憂していた。

 

でも、私は聖書を学び続けて主にある喜びを知るようになり、

状況が良くても悪くても淡々と足を運ぶように変えられてきていると思う。

状況や自分自身を見つめて絶望することはもうない。

 

私はキリストを愛し、神のことばに心満たされて、主が備えてくださったコースをたゆまず走り続ける者になりたい。

このコースに召された仲間たちと励まし合いたい。

そして、キリストが待ってくださっているゴールに到達したい。

 

私はもっともっとイエス・キリストを知りたくて...、イエスさまにお会いする時を待ち望んでいる。

だから、やっぱり走り続ける。 

  

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