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天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

孤独に差し込む光

『世界で一番恐ろしい病気は孤独です。』

 

マザー・テレサの言葉です。

 

孤独は、肯定的にとらえられる面もありますが、関係の中に生きるように創造主によってデザインされた人間にとって、愛し合う関係を失った状態にある孤独は、やはり、見えない難病、深刻な問題と言えるでしょう。

 

このような苦しい状態を、聖書では罪の結果、つまり人間が創造主なる神に背を向け関係が断絶しているゆえの惨状だと教えています。(絆の回復 - 天国途上 〜生きること思うこと〜

 

 

孤独といっても、その背景や状況は様々でしょう。

世界情勢や社会問題として孤独に追いやられている人々のことをここで論じるつもりはありませんし、確信をもって語れる知識も私にはありません。

しかし、私は、どんな孤独の深みにさえも共にいてくださるお方、慰めを与えることがおできになる救い主を知っています。

だから、そのお方を心から紹介したいのです。

 

もちろん、難しい時代における国家のリーダーたちの働き、社会の支援システムの発展、何より家庭というものが健全にあたたかく機能するように、神の恵みを乞い祈りたいと思います。

 

 

このブログは、私自身の正直なエピソードをもって、生ける神イエス・キリストを証ししたいと願って書き続けています。

イエス・キリストを信じて、神のことばである聖書を学び、その真理に生きる中で私の心と人生が変えられ続けているからです。

私の内にある暗闇の部分がまことの光によって照らされて、想像もできなかった大逆転が起き続けているからです。

 

 

私自身、幼い頃から心の奥に孤独を抱えて育った者でした。(傷の癒し - 天国途上 〜生きること思うこと〜

 

しかし今は、孤独感が襲ってくることはあっても、孤独に飲み込まれることはありません。

何が起ころうとも主が共にいてくださると、聖書が約束している通りに信じているからです。

 

 

私は、一人密室の祈りにおいて、意識的に「アバ、天のお父さん」と呼びかけます。

 

【あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。】ローマ8章

 

「アバ」という言葉は聖書を学ぶまで聞いたこともありませんでしたが、聖書の舞台となっているユダヤの言語であるアラム語で「お父ちゃん」というような意味で、幼い子が父親を親しく個人的に呼ぶ時の言い方だと教わりました。

「アバ」でなくても、自分が小さかった頃に父親に対して使っていた呼びかけを、天の神様に対して親しく使えばいいとも学びました。

 

私は、肉親との関係が希薄だったので、この神の子としての呼びかけが自分のものになるまでとても長い時間がかかったと思います。

 

私は「パパ」と呼んでいたのですが、これを神様に対して使うのはどうしても馴染みませんでした。

だから、「父(ちち)」「お父さん」で一人の時に練習してみました。

でも、なんだか、やっぱり「人間」のイメージから抜けられず、大いなるお方に心が開かれていかないので、ある時から「アバ」を使って練習しました。

最初はもちろん違和感です。

しかし、密室で毎日のようにそう呼びかけて過ごしていると、「アバ」と呼んでいい親密な関係、大いなる父としての神、私の安らぎの懐である神がリアルになり、神様にもっと甘えて近づいていいんだというような解放感が心に広がるようになっていきました。

 

今では「アバ」の呼びかけを口にすると、むしろ大人のガードのようなものが解かれ、この自分が「神の子」とされている恵みが嬉しくて、神様にしっかり抱きとめられているようで胸が熱くなります。

 

全部わかってくださる方がいる。

永遠まで守ってくださる方がいる。

全責任を負って助け導いてくださる方がいる。

決して見捨てない、24時間365日ずっと共にいてくださる...。

 

私は、いつでもどこでも、心の中でも声に出しても、呼ぶことのできる名前を持っています。その呼びかけは空しい独り言ではなく、確かに聞かれ答えられることも知っています。

 

この真理が私から孤独感を締め出しているのです。

 

【主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。」】ヘブル13章

 

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脱・タラレバ娘

私たちの日常の中に、主なる神の御手はどれくらい働いているのだろう?

 

いや、むしろ、神の御手に関わり無く動いているものなどあるのだろうか?

 

 

 

私は、天地万物の創造主、すべての主権者、全知全能の神の意図により、その御手があらゆることに緻密に働いていると堅く信じている。

それは、私たちにとって都合よく物事が動くはずとか、一般的に喜ばしいと捉えられる結果を指しているのではなく、まさに人知を越えた神のご計画が、聖なる御手によって世界のすべて日常の隅々まで及んでいるという確信だ。

 

私自身の愚かさや失敗、人間たちの思惑や罪の結果も含めて、神様にとって想定外の出来事など何一つない。

混乱が深まる社会にあって、この真理にこそ、私は慰めや希望を見出す。

 

 

聖書に出会う前の私は、いわゆる日本文化の中で育ち、神社仏閣あるいは仏壇から夜空の星まで、なんとなく拝み、なんとなく願い事をしたりしていた。

しかし、その効力を本気で期待していたか振り返るなら、そんなことはないと思う。

思いがけず嬉しいことがあれば、単に「ラッキー」だった。

(そう、私は本当に感謝の心が欠落していた。恥ずかしい...。)

 

嫌なことがあると人のせいにしたり、運命を嘆いたり、自分を責めたりした。

 

心の奥では「不幸な運命」というものを漠然と信じていたと思う。

 

そんな私が、こうして聖書の真理を信じる道に導かれ、イエス・キリストを愛し、喜びと平安を深めながら年を重ねるようになっているとは、人生の大逆転だ。

私には奇跡としか思えない。

とはいえ、この奇跡は、ごく一般的に見える出来事の連続で覆われていて、奇跡と認識させるような派手な装いはない。

 

 

たとえば、私は母子家庭で育ち、経済的な事情もあって進学の選択肢には制限があった。高校も大学も、第一志望の道は叶わなかった。

しかし、あの高校でなければ、あの大学を知ることはなかっただろう。

私が進学したのは、高3の担任教師が「奨学金制度が充実している」と推薦受験を勧めてくれた通学にも便利なキリスト教主義の短大だった。

そこで私は初めて聖書に出会い、クリスチャンの先生に出会うことになる。

賛美歌を歌い、聖書のメッセージを聞く世界に触れる。

 

もっと頭が良かったら、他に才能があれば、家が裕福だったら...、違う進路があっただろうか。

今ならわかる。

御手が働いて、私はあの短大に必然的に入学したのだ。

 

就職した会社もまた、私がやりたい仕事とは言えなかった。

仕事がうまくいかず、悩んだ末に短大時代の恩師に相談したら、ちょうど欠員が出た事務職員の採用募集をしているタイミングだった。

なんと私はキリスト教主義の母校で事務職員として勤務することになる...。

その職場で働いていなかったら、私は今の夫に出会うことは決してなかった。

夫と結婚していなければ、私が今の教会につながることも、信仰で生きるようになることもあり得なかった...。

 

一つ一つのタイミング、出会いが、実は神様の布石であり、奇跡の連続ではないか...。

 

 

願いが叶ったことも不本意な結果も含めて、最悪だと感じた出来事すらも通して、不思議なかたちで御手が働いていて確かに私は導かれてきた。

神様の壮大かつ繊細な、完璧な御手の計らいがどこにあったか、天国に行けば全貌がわかるだろうか。

 

 

 

あの日ああしていれば...、もしこうでなかったら...。

昔の私はそういう無い物ねだり思考が強く、考えても仕方がない「タラレバ」で愚痴をこぼしてばかりいる者だった。

 

クリスチャンになってからも、すべて順調なんてことはない。

悲しいこと、願う通りにいかないことはもちろんある。

しかし私は、その中でもはっきりと希望を告白することができる。

 

恵みの神様の御手がこの事にも働いていて、主権者である神様の計らいにより最善が進められている。

聖定のみこころだけが実現する。

神様が何をしているのか、私にわからなくても問題ない。

私は主に信頼し、御言葉に生きます。

 

 

 

聖書の真理をコツコツ学び、創造主なる神を知るようになり、時間は結構かかったけど、「不幸な運命」なんて実体がないとはっきりわかった。

そんなものは、もはや、私になんの関係もない。

 

「不幸な運命」と「恵みの福音」を同時に信じるなんて不可能なのだ。

 

恵みの福音を味わうほどに、かつて私を苦しめていた偽りは砕かれていった。

タラレバのつぶやきもいつしか消えていった。

 

いま私は、聖書で約束されている「永遠の祝福」を信じて、恵みのただ中で生かされている。

 

私が苦しむことを通しても、喜ぶことを通しても、

逆風に見える時も順調に感じる時も、

すべてのことを通して神のみこころが成就し、

聖なる主の御名だけがほめたたえられますように!

 

【あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。】箴言3章6節

 

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祈りのための祈り

イエス様が十字架へ向かう前、弟子たちと最後の晩餐を終えてからゲッセマネの園で祈りの格闘をされた。

その間、弟子たちは少し離れた所で祈っているように命じられる。

しかし、弟子たちはまともに祈ることができず眠りこけてしまう。もだえ苦しんで祈っていた主イエス様に眠っていたところを注意され、再び主が祈りに向かわれるとまた眠ってしまう。そんなことが三度も...。

 

イエス様は、こうおっしゃっている。

 

【それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」】マタイ福音書26章

 

 

この弟子たちの有様を、私は笑うことができない。

こんな時に情けない奴らだ...と憤ることもできない。

私自身、一時間でも祈っていられない者だと思うからだ。

 

イエス様を愛している心は嘘ではないのに、眠りこけてしまう自分が悲しくて、主の前でどうしていいかわからない弟子たちの気持ちに同情する。

祈っていたいのに、祈っていることができない...。

 

また、弟子たちを教え愛し、人々を愛して、ご自身を十字架で捧げ尽くすために血の汗を流してもだえ祈り続けたイエス様が、どんなお気持ちで、眠りこける弟子たちに祈りの促しを重ねたことか...と想像しては胸がつまる思いになる。

 

 

 

 

お祈りは好きですか?と聞かれたら、あなたはどう答えますか。

 

私は少し答えに困ります。

主の御名を呼んで、心を打ち明け、思うまま色々おしゃべりする...。

主イエス様を喜びほめたたえ、感謝したり、謝ったり、お願いしたり...。

それは私にとって、とても日常的で自然なことになっています。

確かに幸いなひとときです。

 

しかし、同時に、祈りはひどく億劫だったり、うまくいかない...と思うことも事実です。

雑念が入る、眠気に襲われる、そんなことも実にしばしばあります。

 

この時間を祈りのために特別に取り分けようとしているほど、意識がそれていき、あれこれ他のことが気になり始め、祈りがストレスになるというか、エンジンがかかるまである種の妨害にあっているような体験をします。

 

あぁ、私って「祈りの人」じゃないんだなぁ...。

そんな結論に落ち着いてしまいそうになるのです。

 

ところが最近読んだ『ジョン・バニヤンによる祈りの力』という本の中で、実にぴったりとくる文章に出会いました。

少し長くなりますが引用します。

 

自分のことを話すなら、なかなか思うように祈ることができないというのは、わたしの経験でもあるのです。これから祈りに入ろうとしながら、わたしの心はなかなかそういう思いになりきれないことが多いのです。そしてまた、神との交わりの中にいるときは、わたしの心はその交わりから離れていきたがります。祈りの中でわたしは何回も神に求めなければなりません---わたしの心を捕えてください、そして神から心が離れていかないように、キリストにあって助けてください、と。たましいが神のみそばにあるとき、そこからさまよい出ることがないようにお願いしなければなりません。(略)祈るときに私たちの心は、どんなに困難を覚えることでしょう。神の御前からなんとか逃れようとして、心はあらゆる策略を使い、数限りない言い訳を考え出します。上手な祈りができたとき、なんと心はおごり高ぶることでしょう。人の前で祈るとき、どんなに醜い偽善が忍び込むことでしょう。そして、聖霊が共にいて助けてくださらないなら、密室の中で神との交わりをほんとうに意識することが、なんと少ないことでしょう。

 

 

祈りの偉人と呼ばれる方々がおられます。

ジョン・バニヤンもその一人でしょう。

そういう方々こそ、祈れない自分をよく知っていて、なおさら御霊の助けを切に祈り求めながら祈りの生活をされていたのではないかと教えられました。

 

聖書には、御霊によって祈る、ということが繰り返し語られています。

私の内に与えられている助け主聖霊さまを信頼し、「あなたの助けによって祈らせてください」と祈ることを覚えていこうと思いました。

そうすれば、5年後、10年後、私の祈りの生活はどれほど変わっていることでしょう...。

 

【すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。】エペソ6章

 

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老いの重荷、加齢に伴う恵み

同年代の女性たちでおしゃべりすると、物忘れネタで盛り上がるようになった。

「あるある〜!」

「わかる、わかる〜!」

それぞれが自分のエピソードを持っていて、次々に披露して笑い合う。

 

自分だけじゃないんだ...とちょっとホッとしたりもする。

 

だけど、それぞれ自虐ネタで笑ってはいても、まだ半分は受け入れきれない気持ちがあるのだと思う。

そんな自分が情けない、これからが心配、自分のしたことがショックで落ち込む、余計な時間がかかって予定が狂う、イライラするしなんだか焦る...。

誰かに何か言われようものなら傷ついてしまう...。

 

「私もそうだよ〜」と笑って慰め合っても、やっぱり心の底では悲しんでいる。

あ〜、嫌だなぁ〜と最後はため息まじりになる。

 

 

この世に生まれた瞬間から、私たちはみな等しく年をとっていく。

成長と呼べる時期を過ぎると、加齢とか老いとかの言葉で表現される段階に来る。

人生のピークをどこと考えるかは人それぞれだろう。

しかし、老いも死も、避けられる人はいない。

そんなことは当然と思いながらも、ある年齢までは自分とは関係ない感覚で生きているのではないか。

 

私の場合は40歳を過ぎた頃、まだ世間では働き盛りと言われる年代だと思うけれども、「もう若くない」という実感を強くした。

「このまま世代交代が来て、やがて表舞台から消えていく存在だ」という現実を考えることが続いて空しさに襲われた。

 

まだまだ現役、私はこれからだ!

...と意欲を燃やすことができればいいのに、実際は元気なアラフォーだというのに、不自由になった老人のように気持ちがしぼんだのを思い出す。

 

 

そんな頃に一つの詩に出会い、心が変えられていくキッカケとなった。

それ以来、折々に思い出して味わう。

 衰えから目をそらせる何かに没頭するのでも、老いを避けるべきものと見るのでもなく、人生後半に備えられた神様の恵みと共に自分の現実と向き合っていくため。

自分がどこに向かって生きているのか...ゴールを確認し、避ける事のできない悲しみがあっても希望と平安をもって歩むことを教えられるからだ。

 

 

『最上のわざ』 (ヘルマンホイヴェルズ作)

この世で最上のわざは何?

楽しい心で年をとり

働きたいけれども休み

しゃべりたいけれども黙り

失望しそうな時に希望し

従順に平静に己の十字架を担う

若者が元気いっぱいで神の道を進むのを見ても妬まず

人のために働くよりも

謙虚に人の世話になり

弱って、もはや人の為に役立たずとも

親切で柔和であること

老いの重荷は神の賜物

古びた心に、これで最後の磨きをかける

まことのふる里に行くために

(後略)

 

 

何かが「できる」ことは嬉しいことだ。

誰かの役に立つことができれば、なおありがたい。

だけど、そもそも、私たちは自分の力で生きているわけではない。

心臓の鼓動一つ一つが、神の恵みによって支えられている。

 

できないことが増えていくと確かに悲しいし不便だけど、そもそも全部助けられていたことを知り、主の恵みにゆだねる姿勢で謙遜にされていくなら、それは「最後の磨き」なのだろう。

 

できるだけ元気で年を重ねたいと思う。

でも、若い頃に戻りたいとは全く思わない。

 

何かができることよりも、人に評価されることよりも、ずっと喜ばしいことがある。

こんな自分がイエス・キリストのものとされていること。

自分の名が、天にあるいのちの書に記されていること。

イエス・キリストの犠牲と引き換えに永遠のいのちが与えられていて、まことのふる里でわが主にお会いする日が約束されていること。

 

この喜びは、生涯を通して決して消えることはなく、むしろ年をとっていくにつれて益々大きくなり深まっていくはずだ...。

 

 【私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。】第二コリント4章

 

 

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存在価値を求めて…

人生はあなたが主役---という言葉に勇気を得て奮い立っていた時期がある。

冴えない脇役で終わりたくない。

舞台の中心に立って存在感を出したい。

なくてはならない人物になりたい...。

 

劣等感を抱えながら、日々なんとか自分の存在価値を見出す必要があった...。

背伸びをして、明るく振る舞い、弱さを隠した。

 

平凡ながらもスポットライトを浴びているいるような心地よい瞬間が、それなりにあったように思う。

しかし、そんな状況は続かない。

スポットライトはすぐさま別の人をキラキラと映し出す。

薄暗い中に置き去りにされる感覚。

劣等感がうずく。

無気力に襲われる。

本当の自分のみじめさから逃げる。

ごまかす、あきらめる。

 

すごい人は本当にすごいんだから、身の程をわきまえることだ。

主役の器でないことくらい、自分自身が一番わかっている。

再び立ち上がる意欲が出るまでは言い訳しながら沈み込む。

 

裏表のギャップに翻弄される息苦しい毎日を送っていたものだ...。

 

人生は自分一人で背負うしかないと信じていた。

勝負するには手持ちカードが悪すぎると不運を嘆いた。

持っているものに感謝できず、無い物ねだりばかりしていた。

 

キリスト抜きの人生観で歩んでいた日々…。

 

苦しみながらも自分の力だけで生きているつもりでいた。

 

なんのために生きているのか、どこへ向かっているのか、答えがないまま、希望もないまま、存在価値ある自分を演じようともがいていたあの頃...。

 

 

いま、私は、自分を演じてはいない。

私をデザインし、生かしてくださっている創造主である神を信じるようになったから。

 

 

いま、私は、主役の座に執着していない。

私の人生の主役は、主なるキリストだと知っているから。

世界の中心、歴史の主人公も、実は主である神だと信じているから。

その壮大なキャストの一員に加えていただいているだけで感謝だと思うようになった。

どんなポジションであろうと、主が私になさせたいとお望みの役目を全うできたら最高...。

 

 

いま、私は、スポットライトの中に立つ人をうらやまなくなりつつある。

イエス・キリストにこそ、スポットライトを浴びてほしいと願っているから。

 

 

いま、私は、欠けだらけの自分をごまかす必要を感じない。

そもそも良いものなど何もない、裁かれるべき罪人の自分だという事実を、聖書を通して理解し始めたから。

どうしようもない私を、なおも愛して御子を与えてまで救ってくださった神を知ったから。

神の恵み深さをこそ私は誇り、この身を低くしてあがめたいのだ。

 

 

いま、私は、希望を失わない。

私の希望は、私自身にではなく、永遠に変わることのないキリストにあるから。

こんな私が、キリストのものとされていると知っているから。

御言葉の約束は、主が必ず成就されると信じているから。

 

 

だから私は、私の人生を変えてくださった主イエス・キリストを喜び、主を仰いで賛美し、恵みの福音を伝える。

そのために、私は生かされている!

 

 

かつての私と同じではないにしても、息苦しい毎日に疲れている方がおられるなら、イエス・キリストに答えを求めてほしい。

恵みの主が聖書を通してご自身を現し、あなたに出会ってくださいますように!

教会に疲れて悩む方々を神様があわれんで、福音の主キリストご自身に、信仰によって堅く結びつけてくださいますように!

このブログに導かれた方々を主が祝福してくださいますように!

 

【あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。】第一ペテロ2章 

 

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恵みのおすそわけ

マタイの福音書28:1−10からディボーションの分かち合い。

何度となく読んできたイエス・キリスト復活の場面。前後の文脈を意識し、他の福音書の平行箇所も開き、御霊の導きを祈りながら観察していく。

Clayの解説からヒントを得て黙想を続ける。

天使が墓石を転がしたのは、イエスが墓の中から出るためではなく、イエスを信じる者たちが中に入って死体がないことを確認するためだと記されていた。

どんな墓でも復活のイエスを中に閉じ込めておくことなどできるはずがない、という事実に改めて目が留り、まさにその通りだと再認識した。

墓石がどけられたのはイエスを信じる者たちのための出来事---という観点で再び御言葉を観察し、黙想し、大きな喜びに包まれた。

 

長くなるけれども、あえて結論からではなく黙想のプロセスを分かち合ってみようと思う。

(これが正解...と思っているわけではないのですが、御言葉から教えられ、恵まれる黙想となったので参考までの分かち合いです。)

読んでくださる方々のディボーションの祝福の一助になりますように...。

 

 

1-4

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上に座ったからである。......番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。

 

女たちは、墓の中に置かれたイエスさまの遺体に香油を塗ろうとして向かったことが平行箇所(マルコ16:1)からわかる。巨大な墓石とローマの番兵たちが行く手を阻んでいた。イエスさまのご遺体に触れることは現実的に考えれば不可能だった。にもかかわらず、彼女たちは香油を買った。そして墓に向かったのだ。

2節の「すると」という言葉に注目した。この「すると」は、5節、9節、10節にも出てくる。この言葉から、その出来事が先の出来事と連鎖していると読める。

彼女たちの目的を阻んでいる大きな2つの障害は、彼女たちの到着に合わせるように御使いによって解決されていた。

女たちが来たことに関連して御使いが事を起こしていると考えると、次に続く御使いのセリフもその関連性を表現しているようだ。

 

5-6

すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。

 

彼女たちの目的を阻む障害は取り除かれていたので、彼女たちはイエスさまが安置されているはずの場所に立つことができた。しかし、「イエスさまに香油を塗る」という彼女たちの当初の目的は達成されていない。

 

8-10

そこで、彼女たちは恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」

 

彼女たちの目的は達成されなかったけれども、御使いから託された伝言を握って墓を後にする。大喜びで、急いで、走って...という言葉も彼女たちの方向転換を強調しているように読める。

墓は、キリストを愛する者たちの目的地でもゴールでもない。

 

すると...、彼女たちは復活のイエスさまに出会うのだ。

 

彼女たちに香油を塗ってもらうしかない死んだキリストではなく、語りかけてくださる生けるキリストに出会う!

 

ズタズタに痛めつけられたままのキリストの遺体にすがって泣くのではなく、新しい体をもって生きておられる勝利のキリストに触れて礼拝する機会を与えられる!

 

そして、主から「何をしたらよいか」明確な御言葉が与えられ、遣わされる。

「恐れてはいけない」という言葉とともに、福音にふさわしい生き方へ押し出される。

 

彼女たちの頭に、「せっかく買った香油が無駄になった」とか「私たちの計画通りにいかなかった」というような、つぶやきはよぎりもしなかっただろう。

 

 

復活のキリストに出会っていただけるという祝福。

なんという恵み!

復活のキリストから為すべき使命をいただける祝福。

これ以上の幸福があるだろうか...!

 

 

それらの驚くべき展開も、

最初の一歩は、非現実的とも思える発想であり、キリストへの純粋な愛による実行であった。

キリストの復活という御言葉の真理を悟ることができていなかったゆえの的外れさがあったにもかかわらず、神様は御遣いを送って彼女たちのために道を開き、方向転換させ、彼女たちの予想を超えた喜びの展開へと導いてくださった。

 

 

私たちの人生にも、同じことがきっとある!

いや、気づかなかっただけで、これまでも、このような神様の恵みの御手があって導かれてきた。

私はそう信じる。

 

なんという祝福...。

あり得ない特権...。


キリストへの愛によって、私はいま、どんな行動ができるだろう…。


その実行には連鎖的な恵みの展開がきっと備えられている。

導かれた先で、私は生ける神キリストをもっと深く知らされる…。

 

主よ、私はほんとうに幸いな者です...。

主よ、あなたを愛します。

あなたの御言葉に従います。

あなたの証し人として、どうぞ用いてください。

 

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ブレない生き方〜私の中心軸〜

今年1月からディボーションのためにハーベストタイム出版のClayを教会の仲間たちといっしょに使っている。

中川健一先生の解説に助けられて黙想と適用が恵まれている。感謝!

 

最近はイエス・キリストの十字架と復活のプロセスを時系列で追うように福音書をまたいで聖書箇所が指定してあり、新たな気づきも多い。

 

日々聖書に向き合って祈る時間は私の喜びと平安の源であり、ブレない生き方の中心軸のようなもの。

私の心と私の人生に、確かに主がともにいてくださると知るライフスタイルの要だろう。

 

 

一人の空間とゆとりある時間が与えられて、私は静まって主との交わりを求めることができる。

なんという贅沢...。

主が私に御言葉の黙想をさせ、恵みの深みに招いてくださる。

しあわせだ...。

 

聖書を開いてもなんだか身が入らない日もある。

祈る姿勢をとってもエンジンがかからない、意識が散漫で言葉が空回りしているような日もある。

だけど...

それでも...

主が招いてくださっていることは変わらない。

そのままの自分を主の前に差し出してあわれみを乞い、変わらない主がすべてを負ってくださっている恵みに感謝して、その日の働きを始める。

 

 

一日24時間、世の中はせわしなく動き続けている。

みな忙しい。

情報はあふれている。

やることは尽きない。

時間を自分の自由に使える人など、ほとんどいないのかもしれない。

 

私の今の環境はとても守られている。

自分の意志で過ごし方をたいていは決められる。

だからこそ、委ねられている時間の使い方に責任があるともいえる。

この先、何かで忙しくならざるを得ないことがあるかどうかはわからない。

でも、主の御言葉を前に静まる時間の尊さを体験的に教えられていることは、この先の人生の守りになると信じている。

 

 

聖書を読み主イエス・キリストを求める時間を失ってまでしなければならない事、もっと大切で有意義な過ごし方、そういうものがあるかのように欺く価値観に流されないように、主よ、私をとらえていてください。

私は何よりもあなたを慕い求めます。

あなたが私になさせたいことをなさせてください。

あなたを見失わせるものを私から遠ざけてください。

あなたと親しく過ごすことで知恵と力をいただき、

その恵みに押し出されて他者に仕えたり、人目につかない地味な働きも喜びをもって誠実を尽くす歩みをさせてください。

私の生き方を通して、主の御名があがめられますように!

 

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