「脱・無駄遣い」の秘訣
いよいよ12月。
なにかと慌ただしく、気ぜわしい師走だ。
お金もいつの間にか飛んで行く...。
私は聖書を信じるクリスチャンなので、お金も時間も、自分の命や人生も、肉体や能力、家などの所有物も全ては創造主なる神様のもので、私はそれらの管理を委ねられていると信じている。
だから私は管理者として、真のオーナーである神様の喜ばれるような使い方をすることが与えられている責任だと理解している。
そう理解してはいるが、管理者としてはなはだ課題の多い者である(トホホ...)。
女性全般の弱点なのかわからないが、私は小さな衝動買いを重ねてよく失敗する。
高額な物には予算や所持金の都合もあるし、まずまずブレーキが効く。
ところが、「お手頃価格」や「今だけの特価」に弱い。
ちょうど必要な物でもないのに「ほしい!」と感じる。
クリスマス&年末で出費が増えるのは当然という感覚が作動し、街中が買物シーズンを演出してくるから、なおさら無意識で流されやすい。
後で家計簿をつけながら何度自責のため息をもらしたことか...。
しかし、やたら出費をしぶるのが管理でもない。
私にとっては、クリスマスの献金は様々出費をした残りからひねり出すものではなく、すべての恵みの源であるイエス・キリストをほめたたえて最優先で取り分け、精一杯をささげたい。
ふさわしいところに、ふさわしく使うのが良い管理だ。
誰かをもてなしたり感謝の表現として使うお金をケチりたくはない。
助けが必要な人たちにも出し惜しみせず支援したい。
もちろん、自分自身や家族の喜びのために良い買物をしたい。
それらを自分に委ねられている家計に見合った分配で賢く考えなければならない。
弱さを自覚する私が実行していることの一つは、買物の前に祈ることだ。
「神様、良い買物をさせてください」
「欲に目がくらんで余計なものに手を出したら、やっぱり要らないと気づかせてください」
「今から試着するので、本当に似合う一着を気持ちよく決断できるように導いてください」
このような祈りによって、かなり実際的に助けられていると思う。
祈りに神様が答えてくださると知るがゆえに、別の誘惑と戦うこともある。
神様の介入から逃れて思う存分買物したいから、祈りたくない...と考えることがあるのだ。
神様に相談しないで、口出しされずに勝手に決めたい。
借金するわけじゃないし、私の財布で私の好きにしたからって何が悪いわけ?
こういう反抗的な自我が働く時こそ、意志を用いて祈る選択をすべき分岐点だろう。
すべて神様のものなのに自分の思うままにしたいという欲望は、いつも巧妙に出番を狙っている。
これくらいいいじゃないか、たまにだから、クリスマスだし...、言い分は次々に背中を押す。
しかし金額の大小とは関係なく、その心のあり方こそが罪であり破壊的な落とし穴だと気づかなければならない。
神を押しのけて自分がオーナーであり主権者になりたいわけだから...。
欲望も誘惑もなくなることはない。
自分でそれを制圧することもできない。
それでも、自分の罪深さや弱さを知って主の助けを求めるなら恵みによって守られる。
欲望の奴隷ではなく、主の前で恵まれた良き管理者として、顔を上げて清々しく生きる道がきっと備えられる。
それは、いくらかのお金を好き勝手使うこととは比べ物にならないほど、豊かで幸せな人生に違いない。
主よ、あなたの恵みで私を罪から守ってください。
あなたの真理の内に留まる道を絶えず歩ませてください。
【それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。】第一ペテロ4章
愛の神を疑いますか?
神様、厳しいなぁ...。
そんなふうに思う事、ありませんか。
悲しい出来事が重なるとき、苦しい状況が長引くとき、祈っても祈っても解決どころか追いつめられていくとき。
神様は何をしておられるのかと悩みますか。
神様の愛を疑いますか。
ほとんど無意識で自分本位の私たちは、自分を心地よくしてくれることを愛だと認識しやすいと思います。
しかし神様の愛は、時として「悲しませる愛」だと聖書は教えてくれます。
【霊の父(神様)は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、その時は喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。】ヘブル人への手紙12章
神様の愛は真実で、ご自身の子とされた信仰者たちを養育、訓練する働きにも全うされます。
神様は、正しくふさわしく懲らしめる。
私たちの内から罪の性質が取り除かれるため、キリストの性質が豊かに実るために。
私たちが神の聖さにあずかるためになら悲しみを通過させることをも良しとし、御言葉が教える正しいあり方を私たちが真に学ぶために懲らしめの手を中途半端に緩めることはない。
創造主なる神様こそが、私たちの益、つまり人にとって本当の幸せをご存知なので、それを与えるために「愛されていると思われない方法で愛すること」も最善をもって実行できる。
恵みの神であると同時に全知全能の神だからこそ、全うできる愛し方と言えるかもしれない。
神様は、愛することと甘やかすことを決して混同しない。
私たちの感情や態度に操作されることもない。
それが人間である私たちには、時として「厳しい、冷たい」と感じさせるのだろう。
しかし神様は、私たちの課題と共に、私たちの全てを完全に知っていてくださる。
あわれみ、慰め、支え、力づけ、御言葉をもって正しい方向へ導き続けてくださる。
そうして、それぞれの成長段階にふさわしい訓練を絶妙に与え、耐えられないような試練には会わせない。
私たちにはわからなくても、恵みの御手が必ず共にある...。
私は、疑いやすく、浮き沈みしやすい者だった。
自分はすべきことをしないくせに、都合よくやさしくしてほしい甘えから、神の沈黙にいじけたり怒ったりした。
しかし今は、十字架のキリストによって現された愛の神を疑うことは決してできない。
恵みによって、真に幸いな信仰の道を歩ませていただける感謝が尽きない。
聖書の真理をまっすぐに教えられる機会に恵まれ続け、まことの神がどのような方なのかを聖書から学び続けてきたからこそ今がある。
しかし、それでも、置かれている現実を前に弱りきってしまうこともある。
主の御名を呼んで涙をこぼしても、状況は変わらない。
状況は変わらないけど、主はご自身を御言葉で示し、慰めを与え、耐える力を与え続けてくださる。
涙をこぼしながらでも、主キリストを喜び、信頼と感謝を告白し、神様の素晴らしさを賛美する心が引き出されてくる。
私は、神の聖さにあずかりたい...。
解決は見えないし痛みも小さくはないけど、心の平安があり、喜びがある。
神の方法で訓練された人たちに約束された世界に導かれつつあると信じる。
私の周りにも、本当に熱心に主を愛して歩んでいるのに困難や課題を抱え続けて頑張っている信仰の仲間たちがいる。
彼らのことも助けを祈りながら、最後にはこの事にも神様の深い御計画と真実な愛があると信じる告白に導かれる。
なんとなく全部うまくいく、問題もなく快適で心地よい毎日...。
神様はクリスチャンにそんな生活を約束してはいないし、勧めてもいない。
私たちにはやさしく心地よく、望ましく思えても、ずっとそうであることは必ずしも祝福ではないのだ。
神様は愛する者を甘やかさない。
神の愛は完全で、明確な目的をもって実現していく。
その目的とは、私たち一人ひとりがキリストに似た者となって、主の栄光となるため。
神様、あなたの懲らしめを感謝します。
あなたが成すべきことをしてくださらないのではなく、
私がまだ気づくべきことに気づかず、成すべきことをしていないのです。
赦してください。あわれんでください。
主への信頼と忍耐を増し加えてください。
あなたがお望みになる通りに、私を造り変えてください。
【神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。】ローマ8章
人生の下り坂
最近、有料パーキングの駐車券を立て続けに2回紛失した。
出口で精算するための駐車券なので、当然パーキングから出ることができない。
どちらの場合も係の人を通じて管理会社に連絡をとり、身分証明などを経てほどなく駐車場を出ることができのたが、ぐったりと疲れ、心にある種のダメージが残った。
自分が確実に衰えているというダメージだ。
様々な機能が下降してきて、もはや「これまで通り」を維持できなくなる領域に入ったことを自覚させられるダメージ。
人の名前が思い出せない、漢字を忘れる、何を取りに来たのかわからない、新しいことがすぐ覚えられないなど、いわゆる物忘れは徐々に受け入れてきた。
しかし、ほんの数時間前に手に取り、確かに持ったはずの駐車券がどこにもない。財布、バッグ、手帳、ポケット、あちこち探してもない。
いつ手から離したのか、どこに置いたのか、そもそもどこにしまったのか、自分の行動が全く記憶にないというショック。
記憶の糸をたどる糸口すら覚えがないとは...。
50歳が近くなってきたとはいえ、異常ではないか。
先が思いやられる。
健忘症か。
なんともいえない虚脱感に襲われた。
身体や行動だけでなく人格的な部分も司る「脳」の機能低下がこれほど恐ろしく感じるとは思わなかった。
衰えや老いは当然受け入れていくことだと漠然と考えていた。
親も老いて、病気を患い、病院で看取った。
13年間共に生活した愛犬も数年前に逝ってしまい、今は20歳になろうとしている老猫を最期まで世話すべく見守りながら、色々なことを考えさせられている。
これからは夫婦二人家族の老後が待っているのだ...。
そしていずれ、うまくできない、時間がかかる、頑張りが裏目に出る、そういうことが日常生活でも増えていくのだろう。
人の役に立つより、人の助けを素直に受けることを学ぶ必要に直面するのだろう。
嘆きや不平に陥るのではなく、弱さと共に感謝と謙遜さが身に付くことを心から神に願う。
健康こそが宝、健康第一。
そのような言葉に、いつしか私も敏感に反応するようになった。
確かに健康は尊い。
ますます意識して健康管理に努めたいと思う。
年輩になっても元気にもうひと花咲かせようという意欲も素晴らしい。
しかし、「健康」も「命」もいつかは必ず失われていくものだ。
それを健全に受け入れて生きるには準備が必要ではないか。
健康が「最後の砦」なら、その砦はいつか崩れ始め「死」が迫って来る。
あなたにとっての「最後の砦」は何ですか。
家族ですか、キャリアですか、財産ですか、プライドですか...。
私の「最後の砦」は、イエス・キリストなる神様だ。
この砦を乗り越えて私を絶望させることができるものは何もない。
人生後半、これからの喪失期を歩んでいく中で、
なおますます、神のことばは私の避け所、憩いの要となるのだろう。
今のうちに、もっともっと御言葉を内に蓄えておきたい。
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。
あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。
なお、わたしは運ぼう。
わたしは背負って、救い出そう。(イザヤ書46章より)
私の望み
こんな私なのに、イエス・キリストは決して見捨てない。
それだけは疑いようもない真実。
そこに、私の希望がある。
キリストだけが私の望み。
この望みだけは、何があっても奪われることがない。
【わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。】ヨハネ14:18
いや、こんな私だからこそ、
救っていただくしか術がない私だからこそ、
イエス・キリストは自らこの地に降りてきてくださった。
罪にまみれて見るべきものが見えず、
正しい道に歩む能力を全く持たない私のために、
キリストが人となって義を全うし、
身代わりとして十字架で神の怒りの杯を飲み干して裁きを受け、
罪人が救われる道を開いてくださった。
【何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。】ローマ4:5
自分が絶望的に思える時がある。
生きる望みが消えそうでもだえる。
しかし、そもそも、自分という存在は絶望的な者だという事実を忘れてはならない。
ちょっとは見込みのある人間のような気でいるから、衝撃が大きいのだ。
そもそも自分はどんな存在で、何がふさわしいのか...。
キリストは絶望的な私に驚いたりなさらない。
当てが外れた...と態度を変えたりなさらない。
こんな奴だったのか...と去っていかない。
だいたい、私がどんなに自己嫌悪したとしても、
聖なる神の前で明らかにされる絶望的罪人の実体からすると、いくらもわかっていないに等しい。
キリストは、私がどうなろうとも、最後まで永遠に、共にいてくださる。
事情が変わっても離れていかない。
決して心変わりせず見捨てない。
これこそ、私の救い。
キリストの愛を知る人生に導かれて良かった。
揺らがない拠り所を与えられていて、本当に良かった。
永遠の御国に心を寄せて、夜は眠りにつき、朝には起きることができる。
たとえ倒れることがあっても、主が絶えず支えてくださるから。
【御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだのあがなわれることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。】ローマ8:23−24
主よ。
この地上で与えられた人生を、
最後まで全うすることができますように助けてください。
あなたの一方的な恵みがそれを成させると知っているので、
私には望みがあります。
私はあなたの御顔を慕い求めます。
みことばの教えを乞い求めます。
あなたのみことばは変わることがありません。
あなたに喜ばれる真理の道を歩みたいのです。
あわれんでください。
恵みの上に恵みを増し加え導いてください。
キリストの御名だけがあがめられますように。
PLANT & WATER
【私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。】第一コリント人への手紙3章
ガーデニングの話ではない。
ガーデニングにたとえて、人が育っていくことを語っている。
人の心に福音の種が植えられ、芽生えた信仰が成長するように必要な世話がなされて、信仰者が生まれ育つことのたとえだ。
そこには、愛と忍耐と知恵、継続的な関わり、適切な栄養と保護、剪定にあたるような痛みの伴う取り扱いなど、様々な要素が含まれるだろう。
今年の夏、この聖書箇所を中心に “PLANT & WATER” というテーマでメッセージを聞き、新鮮なインパクトをもって多く教えられた。
物事の見方や自分自身の人生観もまた新たにされた。
この“PLANT & WATER”は、私のクリスチャンライフそのもの、生涯かけて取り組む生き方として私の心に刻まれた。
そして、そのような意識を持ちつつ実際に行動する中で、さらに恵みが深まり、平凡な毎日に喜び、挑戦、感動、感謝が増し加わっている。
なんという幸い!
人が福音を理解し、イエス・キリストを信じて救われるのは、ただただ神の恵みによる。
人の功績が入る余地はない。
しかし同時に、神様は、私たち人間の関わりを尊く用いてくださることも、さきほどのみことばで確認できる。
私が今回、新鮮に理解したことは、複数の人がその場その場で関わって、いろんな人のいろんな “PLANT & WATER” が積み重なって、神様の御計画が実現するという視点。
いい意味で気負わなくなったというか。
伝道の考え方にも柔軟性を与えてくれた。
変化らしいものがすぐ生じなくても、小さな関わりは価値ある1PLと理解した。
“1PL”というのは、私が勝手に造語したもので、貯金箱にコインを一枚入れるイメージ。
いろんな人が、今日もチャリン、明日もチャリン、と入れる。
貯金箱は人の心にある愛の入れ物とでも言おうか。
ある人は気持ちのいい笑顔を家族や同僚に与えてチャリン、
ある人は明るい言葉で周りを元気づけてチャリン、
ある人は誰かの救いや成長のために祈ってチャリン、
ある人は困っている人の手助けをしてチャリン、
ある人はゴミ捨て場の片付けをしてチャリン、
ある人は教会の奉仕を申し出てチャリン、
ある人は素直に謝ってチャリン、
ある人は夫を重んじてチャリン、
ある人は伝道コンサートに知人を誘ってチャリン、
ある人は誰かの痛みに温かな同情を示してチャリン、
ある人は食べ盛りの学生を食事に招いてチャリン、
ある人は福音の真理をわかりやすく伝えることに苦心してチャリン、
ある人は寂しそうな子を笑わせて楽しませてチャリン、
ある人は忙しいシングルマザーに慰めを与えてチャリン、
ある人は悩みを訴える人に聖書の真理で答えてチャリン...。
あらゆることを、“PLANT & WATER” の意識で行うことができる。
その貯金箱の中身がどうなったかは神様だけがご存知だし、神様がどう用いるか、何を実らせるかは、誰にもわからない。
私のチャリンが満杯の瞬間になるかもしれないし、何の動きもない途中の一枚かもしれない。
かりに、満杯がその人が信仰告白して救われる瞬間だとしても、決定打が誰のタイミングだっていい。
その人が新しい命を喜び生きるようになるのなら。
その人の本当の幸福のために少しでも協力させてもらえた、それが幸せだ。
いつ、だれが、どこで刈り取るかわからない。
どこかで、だれかが、その実りを見るかもしれない。
何より神様は、そのプロセスのすべてを知っていて導き、用いてくださる。
私は、“PLANT & WATER” を意識するようになってから、友人知人に限らず笑顔と挨拶、あるいは親切のチャンスを探すようになった。
たとえばウォーキングの時、もし目が合うなら明るく挨拶して通り過ぎようと決めた。
じろじろ見たら失礼だからさりげなく、でも目が合わないように避ける態度とは違って目が合ったらいいなと、祈りながら顔を上げて歩く。
無視されることもあるけど、いずれにせよ、1PLなのだからOK。
以前よりずっと挨拶を交わし合うことが増えた。
私の行動範囲にいる人たちは、みんな “PLANT & WATER” の対象だ。
いつでも “PLANT & WATER” のチャンス に立っていると覚えたい。
たった一度しか会わない人であろうとも、何かの形で1PLできるかもしれないのだから。
“PLANT & WATER” の毎日は使命感を伴って新鮮になり、感謝と祈りが深まっている。
私は、主であるイエス・キリストの素晴らしさを伝えたくてたまらない。
このブログも、そんな思いが書かせている。
読んでくださっているあなたの心にも、私からの1PLが届きますように。
小さなことから
先週、夫婦で北海道を旅行してきた。
その時のエピソード。
仙台空港から千歳へ向かう飛行機が早朝だったので、朝食は移動中にコンビニで買って済ませることにしていた。そのコンビニで私は朝食分に加えて1つ多くパンを買おうとしていると夫が一言。
「それも食べるの?」
「これは明日、山で食べる分。これ、あんまり置いてないから買っておくの」
(翌日は夫婦で大雪山に登る計画だった)
「あっちで買物するんだから、ここでわざわざ手荷物増やさなくていいでしょ」
「でも、このパンは一口サイズで山にはぴったりだし、好きなんだもん」
「だから、あっちで買えばいいでしょ」
「はーい」と、私はそのパンを棚に戻した。
私は夫の判断や助言には基本的に従うと、聖書の教えによって心を定めている。
だから、私の主張が却下されたことへのわずかな不服が残る心の中で祈った。
「神様、むきにならずに従うようにさせてくださり感謝します。あのパンが北海道で買えますように。」
千歳空港からレンタカーで移動中に旭川のイオンで様々まとめて買物。
しかし、あのパンは見つからなかった。
途中コンビニにも寄ったが、品揃えが違って、あのパンがない!!
ーーーほら、やっぱり朝のコンビニで買っておくべきだったんだよ〜!(心の声)
朝の一件など忘れたかのように目的地を目指して走行中の夫に私は言った。
「ねぇ、朝のパン、やっぱりこっちで売ってなかったよ。残念だなぁ。」
嫌味はなく、サラリと会話にした。
朝のやりとりを思い出して、「そっか、なかったか。残念だったね。」くらい言ってくれたら、「うん。でも他のを買ったから大丈夫。」と機嫌よく答える気持ちだった。
ところが夫は、買物や移動に時間がかかりすぎてホテルチェックインに遅れることが気になっていたらしく、そっけない口調でこう言った。
「あ〜、あれか。いいじゃん、そんなの。」
「!!!」(はぁ?そんなの?!...私は言葉を飲み込む)
確かに、他のパンでも問題ない。
しかし私には「パンはどれでもいい」というより、「妻の願いなんてどうでもいい」というメッセージとして伝わってきて、とても悲しくなってしまった。
ラジオの音声だけが空しく響く無言の車内で、心が曇っていく。
あーそう。私の気持ちなんで、どうでもいいってことね!
私の思考はどどっとネガティブモードに染まりかけた。
しかし、その時、聖書のことばが私の心に割り込むように働きかけてきた。
【怒っても、罪を犯してはいけません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。】エペソの手紙4章
ーーーそうだ。こんなことで不機嫌になったら、始まったばかりの旅行が台無しになるだけ。夫は旅行の全体を気にかけ、明日の山の天気や装備も考えながら、長時間運転してくれている。今朝は、聖書の教えに従って夫の言葉に従ったんだから、主がわかってくださっている。主は私の選択を喜んでくださる。それで十分じゃないの。こんなつまらないことで夫婦が険悪になったら、それを喜ぶのは悪魔の軍勢だけ。あぶないとこだった。神様、気づかせてくださって感謝します。ーーー
私は明るく話題を変え、翌日の登山計画を確認したりして和やかにドライブを楽しんだ。
無事にホテルに着いてくつろぎながら、夫の判断や言い方を責めたり、ふてくされた態度になったりしないように守られたことが嬉しくて、心から主に感謝した。
パンなんて、どうでもいいわ...心からそう思えた。
主が共にいてくださる。
この祝福こそ、最高なのだから。
食いしん坊な私のお粗末ぶりを披露したが、私の信仰生活はこのように小さなことの連続で導かれている。
一歩一歩、自分の足で上り下りする登山のよう。天を仰いでみことばを慕うか、足下ばかり見つめて自問自答を繰り返すかの違いは大きい。
主の介入がなかったら、私はいとも簡単に愚かな感情の奴隷になってしまう。
私たちの心は、たいてい、ささいなことを火種に強情になり、余計な一言を口にし、プライドも手伝って批判や対立へと、愛する道からそれてしまうのではないか。
そして、自分自身や正義を守っているつもりで、実は備えられている祝福を自ら放棄してしまうのかもしれない。
小さなことでへりくだって従順できないなら、もっと重要なことで、どうして夫に従う選択ができるだろうか。
小さなことで明け渡すこともできないのに、神様に信頼して自分の執着を手離すことなどできるだろうか。
失敗しても恵みの中。小さなことで日々練習できるのは、神のご配慮、深い愛。
【賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。】エペソの手紙5章
希望の出発点
大河ドラマ『真田丸』がおもしろい。脚本が三谷幸喜なだけあって随所にシャレが効いている。私が時代劇好きなのは子供の頃からで、祖母や父母の影響だと思う。
周りは西城秀樹や郷ひろみにキャーキャー言っているというのに、私は『遠山の金さん』に夢中で杉良太郎が片肌脱いで啖呵を切る(わかる人にはわかる話)マネをしている小学生だった(笑)。
私の父は私が結婚して間もなく亡くなった。まだ50代の若さだった。
真田丸を見ながら、その父を思い出す。
「自分は生まれてくる時代を間違えたんだ」と、父はよく言っていた。
その意味は、自分は戦国時代に生まれるべき人間だったということらしい。戦乱の世なら命がけで君主に仕え勇猛果敢に戦って一旗上げて、時代に名を残せたかもしれない...という男のロマンを語っていたように記憶している。
家庭的とは言い難いそんな父を、私は嫌いではなかった。
私たち人間は、確かに時代に翻弄される存在だろう。
どの時代にどの国に生まれ、どんな家庭で、どんな環境で育つかの影響は小さくない。
自分の世界が自分の望んだものと違うと気づいたとしても、「自分はここにいるはずではないのに...」と考え続けるのと、「自分は今ここで生きるように神様に創造されたのだから...」と考えるのでは、だいぶ生き方が違うように思う。
聖書には次のような言葉がある。
【あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また、「何の喜びもない」という年月が近づく前に。】伝道者の書12章
創造主なる神...という知識を、全く知らずに私は育った。
人生は残念ながら不公平で、生まれる前から定まった抗えない運命で動かされていると漠然と信じていた。
だからか、本気で抱く夢はなく、無理を承知でチャレンジする楽しさを知ることもなく、やってくる運命と折り合いをつけて大きな失望をしないような生き方を身につけて大人になったのかもしれない。
--- 創造主なる唯一の神がおられる ---
この聖書の真理は私の人生観を一変させた。
私という存在に真のオーナーがいて、そのお方は愛と義なる全能の神様で、私のような小さな一人まで目的やご計画をもって創造してくださったのだ。
私がいま、ここに、生かされているということには、神様の意図がある。
嬉しい状況でも苦しい状況でも、私が何を持っていようと何を持っていないとしても、神様が私に望んでおられること、私に学ばせ実行させようとなさっていることは何だろう...と、答えをもっておられる方を仰ぐことができる。
「生まれてきたのが間違いだった」などという考えは入る余地がない。
この真理は、私たちに自分の人生を最後まで全うする力を与え、仮に出口の見えないトンネルの中を孤独に歩むような日々にあったとしても心の支えとなり得る。
人生の意味が見出せず、生きにくい時期というのは、誰にもきっとあるだろう。
いや、今は、子供から大人まで、生きることに疲れる時代であることは明白だ。
しかし、信頼に値する確かなお方、永遠を治める創造主を人生のオーナーとして知っていることこそ、この時代に決定的なのではないか。
創造主なる神がおられることを出発点とし、人間や世界を被造物であると認めて生きるとき、自分の人生だけでなく世界の歴史すらも意味合いが違ってくる。
そこには決して消えることのない希望の光が射し貫いているように私には思える。
【初めに、神が天と地を創造した。】創世記 1章1節