人生の罠に落ちないために
『人を恐れるとわなにかかる。しかし、主に信頼する者は守られる。』
これは聖書の箴言という箇所に書かれていることば(29章)。
あなたが恐れるものは何ですか?
なんとしても避けたいと思うものは何ですか?
病気になることですか。
生活水準が下がることですか。
プライドが傷つくことですか。
失敗することですか。
自信を無くすことですか。
老いることですか。
孤独になることですか。
束縛されることですか。
人から嫌われることですか。
愛する人を亡くすこと、あるいは自分の死ですか。
それが何であれ、私たちが「これだけは失いたくない」と執着しているものが、恐れと関係しているはずです。なぜ恐れるのかといえば、「それが自分を支えている」と信じているからでしょう。
恐れているものを突き詰めて考えると、私たちが関係の中で生きる存在であることの証拠が見えませんか。
人間関係の存続や充実に影響するからこそ、失いたくない、保ちたい、もっと良くなりたいと思う要素ではないでしょうか。
前回の記事で触れた「嫌われる勇気」は、言い換えるなら「人を恐れない」ということだと思うのです。
もう少し言うと、「人にどう思われるかを判断基準にしない」ということ。
人にどう思われるかばかり考えていたら罠にかかる、と聖書は教えているのだ。
これは人のことを思いやる必要がないとか、他人のことなどどうでもいい、ということを語っているのではないのを理解してほしい。
聖書から一文だけを抜き出すとどうしても誤解が生じやすい。聖書は総合的に理解することが必要だし、しかるべき牧師先生から正しく「教えてもらう」のが前提であることを一言添えておく。
創造主なる神のことば、人間の取扱説明書とも言える聖書が、私たち人間についてどんなことを教えているのか、今日は少し紹介したい。
私たちが人生の罠に落ちないために、必要な2つのことが書かれている。
一つは、人を恐れないこと。
セットでもう一つ、 主に信頼すること。
主とは神様であり、具体的には聖書で明らかにされた神様のことばに信頼することだと私は思っている。
つまり、人がどう思うかで判断するのではなくて、自分(自分も人間)がどう思うかで判断するのでもなくて、聖書がなんと教えているかを判断基準にして生きると罠にかかりにくいということだろう。
聖書は、人間の考えがいかに危うくて頼りにならないかを繰り返し忠告している。同じ箴言からいくつか紹介しよう。
『人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。』
『自分を知恵ある者と思うな。主を恐れて悪から離れよ。』
『あざける者はしかってくれる者を愛さない。知恵のある者にも近づかない。』
『人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。』
これらの聖書の言葉を聞いて、あなたの心はどんな反応をしていますか。
反発を感じて不愉快ですか。
図星だなぁと思いますか。
半信半疑ですか。
別にどうでもいいですか。
責められているようで耳が痛いですか。
あなたの中に起きる反応も、たぶん、あなたが何を基準に生きてるかを表しているのだと思います。
クリスチャンになった人だけに聖書が必要なのではありません。すべての人に聖書は人生の知恵を与えてくれます。学んでみる価値は絶対にあります。
人間の幸福は、人に好かれるように生きることで決まるわけでもないし、嫌われてもいいと自分を通すことで決まるわけでもない。
何を基準として生きるかによって人生は決まるのだと私は信じています。
聖書は私たちの基準として、何を止めて、何をするのか、その両方を教えてくれます。古い基準を捨てて、新しい基準を採用することを勧め、そうできるように助けを与えると約束しています。
私自身の判断基準もずいぶん入れ替わってきましたが、まだ変換中でもあります。
変換は天国にゴールするまで生涯続くでしょう。
私の中で取り除かれつつある古い基準、根付きつつある新しい基準が具体的にどんなふうに私の人生に作用しているのか、これからも少しずつ紹介させていただきたいと思います。
読んでくださる方の人生に、聖書の知恵による新しい風が吹き込みますように。
最後にもう一つ、聖書のことばを。
『主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである』(箴言9章)