幸いな主従関係
クリスチャンは、神様またイエス様のことを「主」と呼ぶ。「主」に対して自分は当然「従」となる。
クリスチャンはイエス様を救い主だと信じているだけでなく、イエス様を自分自身の「主」と告白している者だ。だから、 クリスチャンライフというのは、主であるお方に聞き従って生きる日々のことだと私は思う。
「聞き従う」といっても、空耳のようにどこからか聞こえる声や天からのインスピレーションを待つのとは違う。心に思い浮かぶ「良さそうな」「クリスチャンっぽい」考えに従うのでもない。もちろ ん、洗脳されて自分の理性を失うことでもない。
神のことばである聖書が語っていることに耳を傾け、正しく理解するために教えを求め、日々聖書に取り組みながら教えられたことをコツコツ実行して生きることが、主に聞き従うことだと私は信じている。
私の教会ではよく「聖書を学び、聖書で考え、聖書を生きる」という言い方で、主に聞き従うクリスチャンの生き方を表現する。この歩みは生涯続くものだし、年々豊かになるはずだ。
さて、私はイエス様を主と呼んで祈り、聖書を学び、聖書に従いたいと思っているわけだけれども、「従うべき基準」 が明確になって初めて、自分がいかに自己中心で不従順な者であるかが明らかになる。
はっきり教えられたとしても従うのが難しいのだ。従えない。いや、本当は従いたくないと思っている自分に気づかされる。
たとえば、聖書は怒りを手離して赦しなさいと教える。従うべき立場にある人に心から従いなさいと命じる。好き嫌いに関係なく、周りの人を大切な存在と見て仕えなさいと語る。イエス様が愛してくださったように愛し合う生き方をしなさい、と。
具体的に自分に重ねて考える。うまくいっていないあの人この人の顔が浮かぶ。嫌な出来事、不満な状況に思い当たる。次第に心がざわついてくる。
納得いかない。
無理。
絶対いやだ。
なんで私が折れないといけないわけ?
私の状況も知らないで、聖書が言ってることの方がおかしいでしょ。
またたく間に、自分が「主」になる。自分がやりたいようにやりたい。従う価値があるかどうかは自分が決める。自分の方がわかっていると思い込む。
結局は、誠実な助言でも、親身な忠告でも、従うべき正しい言葉でも、自分が賛成と思う内容ならありがたいけど、賛成できない内容なら言われたくないし不当に感じる。
つまりそれは、自分の上に絶対的存在などいらないという心、指導を嫌うかたくなな態度を証明する反応だと言えるのではないか。
神様を信じて人生に迎え入れているけど、ご意見は参考程度に。神様はそばにいて私をやさしく励ましてくれて、私がやりたいことを助けてくれればいい。あまり口出しされたくないし、困った時だけ泣きつける存在がほしい。
そういう本心が聖書に対する態度で問われてきたように思う。「従いたいのだけど・・・」と言いながら従えない言い訳を繰り返す。これが根深い罪の性質というものだろう。
聖書と正直に向き合うと、まるで心を映し出す鏡を見ているように、自分の正体が照らし出されてくる。見たくない、認めたくない、痛みのプロセ スでもある。しかし、ごまかさずに自分の罪を認めて、さらに神様に近づいていくなら、神のことばはどこまでもグッドニュースなのだ。
(ちなみに、ゴスペルという言葉はグッドニュース、つまり「良い知らせ」という意味。)
主である神様からのグッドニュースは、そんな私たちを失格と見捨てるのではなく、イエス様の十字架によってどこまでも全部赦し、神様ご自身の力によって私たちを良い方向へ変え続けるという約束だ。
『それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているの ですか。』(ローマ2章)
「悔い改める」とは、方向転換を意味するそうだ。
従わない方向から従う方向へ
赦さない方向から赦す方向へ
愛さない方向から愛する方向へ
この聖句は、いつも力強く私の心に迫ってくる。私の言葉で言い換えると、こんな具合だ。(ちょっと口が悪くてごめんなさい)
「神の愛が、かたくなで反抗的なお前を方向転換させることもわからないのか!
神の豊かな愛と忍耐と寛容の圧倒的な力をなめてんじゃねぇよ!」
神様の愛は 十字架の愛だ。
その愛は計り知れない。
主の愛は甘やかしや溺愛とは違う。
主の真実な愛に出会っていくなら、私たちは主を愛さずにいられない。
主を愛するなら、私たちは変わらずにいられない。
私はその証人だ。
神の愛をなめたらいけない。