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天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

自己弁護をやめて

前回は自分が自分を責める自己嫌悪について書いた。今回は、自分で自分を守ることに注目してみたい。

自己嫌悪に対して自己弁護と言えるかもしれない。表面的には反対の行為のようで、どちらも根っこは同じで「神様に頼ろうとしない性質」から来ていると私は思う。

「言い訳を考える時に人間の脳はもっともクリエイティブに働く」と何かの本で読んだ。どのくらい信憑性があるのかは不明だけれど、確かに思い当たるふしはある。

自分の失敗が明るみに出た時、人のせい状況のせい、あらゆることを引っ張り出して責任転嫁を考え出す。事実のままシンプルに告げて謝ろうとするよりは、あれこれ言い訳を考える方向で脳は忙しくなるのではないか。

「言い訳はやめよう」とはっきり意思決定しない限り、たとえ見え透いた嘘やこじつけであってもひたすら自己弁護の答弁を考えずにいられない。これも人間の罪の性質から来るものだろう。

小さな子供だって、叱られないように言い訳をすることを、誰に教えられなくてもいつの間にか覚える。

親から適切に叱られて、ごめんなさいすることを教えられ、はっきり赦されて安心するという訓練がされている子供は幸いだと思う。

なぜなら、大人になるほどそういう訓練の場が少なくなるからだ。注意や叱責を恥と感じて過剰に反応することもあるかもしれない。自己弁護も巧妙さを増していくだろう。自分は加害者ではなく、むしろ被害者だと考える。状況が悪かった。疲れていたから。 誰かを助けるためだった。誰も助けてくれなかった。知らなかったんだから仕方ない、などなど。

もちろん、そういう事情は本当なのかもしれ ない。さらに問い詰められれば、どうして私ばっかり叱られなきゃいけないのかと、矛先をそらして逆ギレに出ることもある。いずれにしても、なんとかして自分を守ろうとする心理が働くからではないか。

あなたはどうですか。

自分の非を認めることのハードルは高いですか、低いですか。

「私が悪かった、ごめんなさい」と言うより「私も悪かったとは思うけど・・・」と語尾をにごしていませんか。

負い目は感じながらも「だって・・・」と心の中で反論していることはないですか。

他でもない私自身がこういう傾向を強く持っていた。

だから、社会人になって上司からの叱責や細かい指導に素直に従うことができず、心の中でぶつぶつ言いながら反発を深めていった。結局、気持よく働くことができず3年で転職した。次の職場でも上司と度々ぶつかるも自分を改めることに真摯に取り組むことができなかった。

聖書を学びながら、ようやく私は自分のかたくなな性質を認め始めた。ほんの数年前、私はかつて上司だった方に謝罪の手紙を書いた。

退職して15年が過ぎていた。不思議なことに当時のことが色々思い出されて、今さらだけどせめてお詫びをして感謝も伝えようと決心した。

その上司は勝手な私を受け入れて関わろうとし、仕事も忍耐づよく教えてくれた。失敗もフォローしてくれた。そんな上司だったのに、私はその上司を公然と批判した。無視したこともある。他の同僚から諭されるとその同僚にも不信感を持った。当時の私には言い分があった。しかし、どんな言い分があったにせよ、私は自分の非は認めず、わきまえがなかった。寛容に扱われていたから働けたのに感謝の心もなかった。本当に恥ずかしい。

その上司は私の手紙を受け取るとすぐお返事をくださった。定年より少し早く退職し、地域の活動をしているとのことで、東日本大震災の時にはボランティアにも来ていたと知った。

自分の罪を認めて謝り、私の心は自由になった。赦しをいただいて感謝と喜びは増し加わった。自分で自分を守っていた時には決して味わうことのなかった自由だ。

聖書にはこう書かれている。

『造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。』(ヘブル4章)

覚えなければならないのは、私たちが最終的に弁明する相手は創造主なる神様だということだ。自己弁護している限り、イエス・キリストが弁護人席に立つことはない。

しかし、自己弁護を止めて被告人席につくなら、まず自分の罪状が見えてくる。それは恥と痛みを伴う時間だ。

しかし、弁護人席にはイエス・キリストがいてくださる。キリストの答弁は身代わりの十字架。私が罪に定められることは決してない。

恵みによって完全に赦されたことがわかるようになるほど、空しい自己弁護は必要なくなった。

そして自ら謝ることも導かれてきたのだと思う。
まだまだ昔の癖が出ることもあるけど、自分を正当化するよりも自分のための十字架がはっきり見える方がずっと自由で幸せだ。

弁護人席にイエス・キリストをお迎えすることを、私は心からお勧めする。

『キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。』(ヘブル7章)


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