カラダについて考える
最近ちょっとしたことで左手首を痛めてしまった。
腫れてないけど動かすと痛むので整形外科を受診すると腱鞘炎のようなもので、安静にして回復を待つしかないらしい。
サポーターを巻いたり、テーピングで補強したりし て、できるだけ大事に過ごしている。利き手でなくて良かったと思いつつも、連日となってくると不自由感が否めない。
特に料理って左手が重要な働きをしているんだなぁと実感。物を運ぶように肘や脇でカバーするのが難しいからだ。右手ではしを使うためフライパンは普通左手で持つ。右手だけだと手際がすごく悪くなるとわかった。まな板ごと持ち上げて鍋に具材を落とすこともできない。
いつもの「普通」 に感謝することを思い出した。
驚いたのが、パソコンのキーボードを打てないこと。手首を基点に手を適切な角度にセットして指だけパチパチ動かすだけなのに、手首を反らして手先の重みを支えることができない。手首の腱一つがうまく機能しないだけで、こんな有様になるとは、本来の仕組みの精巧さを表わしているのではないか。
そんなわけで左手をかばいながら、ゆっくりキーボードを打っている。
私は、自分の人生にも世界の歴史にも、創造主なる神様のご意志が働いていると信じている。人間にすぎない私に理解できなくても、すべてに神の愛が込められていると信じる。
だから、日々の小さな出来事にさえ、偶然は何一つなく、すべてに意味があると思っている。嬉しいことも、悲しいことも、不都合だと思うことも、自分に何か大切なものを教えるために起きているはずだと考える。
手首を負傷して家事は滞りがちだけど、「体」について考える機会になった。
すぐ思い浮かぶ聖句を紹介しよう。
『神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』(第一コリント12章)
人体を構成するすべての器官の重要性と調和を引き合いに、キリストの体である教会(クリスチャンの人間関係)の在り方について教えている箇所だ。
手首を痛めてから私は意識して弱い部分をいたわっている。生活全体が足をひっぱられているけど、補い、支え、回復を祈っている。
痛みを抱える左手を切り捨ててしまいたいとはみじんも思わない。替えがないとわかっているからだ。
サポーターを付け、蒸れて痒くなればはずして冷やし、気をつけて使い、痛みを感じればもう一つの手を当てて包み込む。
一つの部分が苦しめば全体も共に苦しむ、ということを具体的に考えさせられる。一つの部分を尊ぶということのイメージも膨らむ。
聖書に導かれて自分の人間関係をも振り返って考える。付き合いにくい人を軽視したり、足手まといに感じる関係への苛立ちが潜んでいることを認めないわけにはいかない。
他者を尊びいたわろうとしない心でいるなら、それはイエス様のからだを愛さない態度なのだ。
すべての器官が組み合わされて尊ばれ、好調不調に応じて美しく調和し、絶妙に機能している、「一つの体」のような一致した共同体がキリストの教会・・・。
この聖句は頭で意味を理解したつもりでも、そのように実行しようとするなら実に深い。難しい問題が立ちはだかる。しかし、確かな希望がある。
主イエス・キリストだ。
読んでくださっているあなたがもしクリスチャンなら、今のあなたの実感や実態がどうであろうとも、あなたはキリストの体の一部分です。教会はキリストの体です。
ここに挙げた聖句にある第一コリント12章の語りかけに心を開いて考えてください。そして、立派な祈りではなく正直な祈りをしてみてほしいのです。
あなたがもしクリスチャンでないなら、このように愛し合う人間関係を建て上げようと働きかける神様をどう思いますか。このようなお方に人生を導いてほしいとは思いませんか。
読んでくださっている方に、神様の導きがありますように。