マンネリな毎日がチャレンジングに!?
「私が今日一日、あなたに喜ばれる選択を一つでも多く重ねることができますように、神様どうぞ助けてください。」
私は、ごく最近になって、朝の祈りに必ずこの願いを添えるようになった。
意識しているのは「あなたに喜ばれる選択」だ。
キッカケは一冊の本。
『恵みに生きる訓練-聖性の追求を果たすため-』(ジェリー・ブリッジズ著)で、絶版のため入手困難なので教会図書から借りて読んだ。
私は、読みながら何度も祈らされ、感動し、悔い改めに導かれ、福音の圧倒的な恵みが力強く迫ってきて感謝に満たされた。
その福音の恵みに立ち帰り続けることを前提に、私たちはキリストを我が主として生きる者らしく成長していくために熱心に取り組むべきことが勧められている。
その取り組みの一つとして挙げられていたのが「正しい選択をする訓練」というもの。
新約聖書テモテへの手紙第1には「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」(4:7)と書かれているが、この敬虔のためになる鍛錬というものが具体的には何を意味するのかが明確にされていたことが、私には新鮮な発見となった。
敬虔のための鍛錬...他にも様々な表現ができるだろう。
たとえば弟子訓練、霊的成長、実を結ぶ生き方、内なる人を強くする、御霊によって歩む、キリストに似た者になる...などなど、表現はどうであれ、聖書はクリスチャンになった者がさらにイエス・キリストに従う弟子となっていくように、意志を働かせて成熟を目指す生き方を教え、それを命じている。
もちろん、そうでありたいと思っているし、私なりに取り組んでいるつもりでもある。
しかし、その具体的方法として私が意識していたことは、
非常にタスク的というか、クリスチャン的習慣のイメージだったと思う。
たとえば、聖書を学ぶ、お祈りする、
聖書から教えられたことを自分に適用して実行する、
御言葉で考えて愛し合う人間関係に取り組む言葉や行動、
信仰書を読む、礼拝する、献金する...というような、
言ってみればトレーニングメニューのようないくつかを掲げて
それらを継続することがクリスチャンとしての成長に取り組んでいるという感覚。
そういう感覚に伴って、時間の使い方、お金の使い方において、また心の関心において、どのくらい多く神様のために取り分けるか...というような判断基準で敬虔を考える傾向も強いかもしれない。
もちろん、それらはクリスチャン生活において現実的に信仰が問われる重要な領域に違いないだろうけど...。
この本で「敬虔のための鍛錬」というのは、すべての人の一日に絶え間なく繰り返されるあらゆる選択において、神に喜ばれる選択を主体的に繰り返していくことだと教えられた。
特別に設定された訓練メニューのようなものではなく、祈る時間をとることも、聖書を開くことも、その一日の中にある選択の一つということだ。
例えば、朝ぎりぎりまで寝ているのか、余裕をもって起きるのかという選択にはじまり、布団から出て家族に「おはよう」と気持ちよく挨拶するのか、ぶすっとした顔で無言のまま自分の支度をするのかというようなことも、敬虔の鍛錬となる選択の一つと考えることができる。
仕事だろうと育児だろうと勉強だろうと、否応無く「しなければならないこと」「拘束される時間」が誰にでもあるだろう。
選択の余地がないと感じるかもしれない。
しかし、どういう態度でそれをするのか、どんな気持ちで臨むのか、という選択が訓練となり得る。
朝起きてから寝るまでにある無数の選択を、成り行き任せ、気分任せではなく、意識的に神様が喜ぶ方向(聖書が教えている正しいあり方)を考えて選択するなら、
まさに誰のどんな一日であっても敬虔の鍛錬のチャンスに事欠かない。
つまり、一日丸ごとが、生活全体が、敬虔のための鍛錬になっていくという視点に、私はハッとさせられた。
ここで本から一部抜粋してご紹介します。
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忘れないでほしい。日々私たちは、一つの方向で、あるいは他の方向で、自分を鍛錬している。日々私たちは、次のどちらかの方向で自分を鍛錬しているのだ。
嘘をつく or 真実を語る
利己的である or 非利己的である
怒る or 赦す
みだらである or 純潔である
短気である or 忍耐強い
貪欲である or 気前がよい
高慢である or 謙遜である
物欲的である or 簡素である
(略)
ところで、私たちに正しい選択をさせてくださる聖霊の力が、何としても必要である。
それで、日々神に向かって、その日の助けを叫び求めよ。
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私は、上のリストを読みながら、
怠惰 or 勤勉
感情的(気分的) or 意志的
愛さない or 愛する
...というような相対する方向も思い浮かんだ。
他にもいろいろなパターンが考えられるだろう。
スーパーで買物カゴに何を入れるか入れないか、そんな些細なことですら選択意識を持つなら霊的訓練だ。
余計な菓子パンがカゴから一つ減るかもしれない。
夫に用事を頼まれた時の反応に、選択意識による変化が生じるかもしれない。
敬虔の鍛錬は意識的選択...という視点を得て、
今日という平凡な一日が新鮮でチャレンジングに見えてきている。