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天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

見えない贈り物

いつからか、外出中にふと目に留った人や家などのために、心の中で祈ることが増えてきた。

もちろん、見ず知らずの人たちだ。

だからこそ、「祈りなさい」と私の視界に入れたのは神様なのではないか...と思わずにいられない。

 

神様の祝福がありますように...

生きにくい時代にあって、希望や喜びがありますように...

悲しんでいる人なら、慰めと安らぎがありますように...

病気の人なら、励ましと癒しがありますように...

いのちの糧である聖書に近づけられますように...

イエス・キリストとの出会いが与えられますように...

永遠につながる生き甲斐を得る人生に導かれますように...

 

 

心に思い浮かぶまま、祈る。

一期一会という言葉があるが、そのような祈りは出会いにも至っていない。

しかし、私にとっては特別な出会いのように思われてくる。

導かれた祈りは空しく終わるものでなく、この人の人生にきっと実るはずだと確信が深まるのだから、不思議な気持ちだ。

祈りの結果を私が見ることはないかもしれない。

私自身、その人の顔も祈ったことも忘れるだろう。

しかし、一度ささげられた祈りは「なかったこと」にはならない。

真実な神様が受領した限り、永遠を治める神様は忘れることなく絶妙に全うしてくださる、と私は信じている。

 

 

私が初めて聖書を手にしたのは18歳の時だった。

ミッションスクールで礼拝も好んで出席したが、イエス・キリストを求めるには至らなかった。クリスチャンの素晴らしい先生にも出会っていたのに、クリスチャンになりたいとは思いもしなかった。

ところが、それから約10年の時を経て、私は本気で救いを求めるようになり、聖書を開き、イエス・キリストを信じたのだ。

 

自分自身を振り返って、私のために誰かが祈ってくれただろうと思う。

見ず知らずの誰がが、もっと昔、祈ってくれたのかもしれない、などと最近しみじみと感謝に思う。

天国に行ったら、「あなたのおかげだったのですね!」と初めてわかって、改めて出会いを喜ぶこともたくさんあるだろうと想像するだけで胸が熱くなる。

 

 

祈りは見えない。

誰かのための祈りは、お礼を前提としない心からの贈り物、と言っていいかもしれない。

 

イエス・キリストこそ、いまこの瞬間も絶え間なく、私たちのためにとりなしの祈りをささげてくださっているお方だ。

その様子を一部でもドキュメンタリー映画のように観ることができたなら、私たちはその姿に衝撃すら受け、言葉も失い、ひれ伏して感謝せずにはいられないのではないか...。

 

私のように自分のことしか頭にないような者が、イエス様の愛の、ほんのカケラでも注がれて、導かれるままに誰かのために祈らせていただけるなら、私の人生に意味を与える幸いなことだ...と思うこの頃です。

このブログを読んでくださっているあなたにも、神さま経由で恵みの贈り物が届きますように!

 

 【しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。】詩73:28 

 

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